パンチェン・ラマについて

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パンチェン・ラマ10世の告発


本文

以下は、1987年3月28日、北京で開かれた全国人民代表大会“チベット自治区”常務委員会におけるパンチェン・ラマの報告である。

パンチェン・ラマ:

趙紫陽首相により提出された政府事業並びにその他関連事項報告は、出席者全員によって高く評価され、私も完全にそれを支持する。

わが国のあらゆる面について論ずることは大切なことである。中国共産党中央委員会第11回総会の第3回大会において立案された政策は、わが国の現状に相応しいものだ。これが我々を一層効率化しよい結果を生み出すであろうことを信じる。事業報告は詳細にそれらを論じており、真に近代的かつ強力にして民主的社会主義国家を造り上げる上で我々の助けとなることを確信する。報告は政府がその政策を実現してゆくために役立つ明確な指針と指示を内包しており、政策を策定する上で有用な概念となろう。私はまた中国の様々な民族の状態にも簡潔に触れたことを評価する。

わが国は他民族国家であり、中国人(漢族)を除き、55の少数民族社会が存在する。

文化大革命以前もそうであったが、それ以降の極左的偏向は少数者社会を多くの面で苦しめてきた。極く最近、“パサンと彼女の親戚”と題する物語が、チベット人を嘲るためにわざと雑誌に発表された。去年、チベット代表は、それが映画化された際抗議した。我々はガポ・ガワン・ジクメー(阿沛・阿旺晋美)副議長に、我々の不快感を関係省庁に伝えるよう求めさえした。しかしなんの返答もなかった。返答の代りに、この映画は関係部門で第1位を与えられたのである。 “慈悲なき同情”と称するこの種のもう1つの映画もまた受賞した。こうした類の例は他の少数民族に対しても度々見られる。

昨年11月、よく勉強するようにとの但し書きのついた10項目法制文書なるものが配布された。だがこの文書は少数民族社会の自治問題には一切触れていなかった。第22回全国人民代表大会常務委員総会で、我々は法務当局に対し、何故こういう重大な事柄が取り扱われていないのか問いただした。それに対する答えは、自治区行政上の法制化は各少数民族に任されているというものであった。

私はこの発言に強く反対する。そして言いたい。このような問題は中国人民、特に法を実施する立場にある官僚たちこそがもっと調査研究すべきものではないか、と。問題は、“我々が権力を行使する力がないからではなく、始めから権力を与えられていないからなのだ。召使が裸でいるのは、彼が服を着たくないからではなく、主人が服を一切与えてくれないからなのだ”。

ところで、人民日報が報ずるところでは、幾つかの変化が現れている。しかし、少数民族を全く無視している兆候がたくさんある。第20回全国人民代表大会常務委員会小委員会の合同会議で、政府の欠点として私が指摘したのもこれがためである。香港、台湾の重要性になんら反対はしない。しかし、我々の問題が除外され無視されるやり方は全く心外である。

解放時代、毛沢東、周恩来は少数民族たちと話合いを進めてきた。しかしその後の少数民族の状況は私には全く理解できないものであり、ここにいる全員にそれを判ってもらいたい。

少数民族は中国人の僅か6%に過ぎないが、彼らの領域は中国全土の実に64%を占めている。それ故、これら地域の平和と安定を確保することは中国のために必要なのである。

国家計画委員会報告書で、多くの地域における貧困脱却に対する数多くの提案がなされているが、少数民族地区に関しては一言も言及されていない。この常務委員会の席を借りて私はこう声を大にして言いたい。“貴方方が先ず繁栄するのは、結構なことだ。その間私たちは、ぼろをまとい食物をあさっているだろう。だがそれで、貴方方は自ら誇れるのか?”と。

私は経済開発の専門家ではないが、かといって全くの素人でもない。たとえは、チベットにおいて交通運輸、通信その他関連施設が開発され、天然資源が有効に利用されるなら、2、3年内に投下資本を償却できると確信している。我々は国が経済的困難に直面していることを十分認識している。また重要な各種プロジェクト総てに投資するだけの十分な資本源を持っていないことも承知している。しかし、私が今述べたようなことを政策として採用するのになんら不都合はないはずである。

前にも述べたように、過去20年以上にわたって少数民族地区で実行された左翼的政策は非常に有害であった。その政策の後遺症は今日ですらチベットに強く残っている。現在の解放政策がこれから先もずっと続けられてゆくのであろうかと我々チベット人民は懸念している。

昨年のカム地方訪問中、大規模な無差別的濫伐によって国土が荒廃しているのを知った。これによる大きな地すべりが方々で起こっていた。高収入が十分期待できたはずの数多くの産業が少数民族地域では閉鎖されてしまっている。

例えば、タクロ・トロン、ユナン地区には高収益を挙げていた煙草工場があった。しかしその向上は熟練労働者不足と製品の低品質が原因で潰されてしまった。それも高品質の原料を使っていたにも拘らず、である。一方上海の煙草工場は、高品質の材料を使っていないのに、熟練した職員と高い技術を駆使して上質の製品を生産し高い収益を上げている。

少数民族地区には特別の注意を払うべきである。その地区の産業には国の援助が必要である。しかし政府が気がつくときには、常にそこの産業が破産に瀕してからであった。原因は政府側の怠慢か、地区住民に一層の負担を背負わせようとす計画的策謀のいずれかである。

1980年、胡燿邦同志がチベットを訪れた時、彼は役に立たない中国人全員を本国に送還すると約束し、我々はその賢明な決定を歓迎した。我々が必要とするのは有能な人材なのだ。無能者を擁して一体何の意味があるというのか。中国人全てが有能であるはずがない。有能な者もいれば無能な者も必ずいるに違いないのだ。

チベットにいる中国人1人を養う費用は、中国にいる中国人4人分に匹敵する。チベット人民は何故彼らのためにその経費を背負わされねばならないのか?何故その全てをチベット自身の発展のために有効に使えないのか。チベット人民は、無能な中国人の大量移住政策のために多大の苦しみをこうむっている。数千人の中国人チベット移住で始まった人口は、今日その何百倍(注:現在までにチベットに移住してきた中国人人口は、700万人を超え、チベット人600万人を遥かに凌駕している)にも達している。初期の頃勤勉に働いてきたたくさんの古参中国人が今その実績を認められないまま朽ち果てているのもこの政策のためである。今日、中国人は一家もろとも移住してきており、あたかもアメリカへの出稼ぎ人同様ひたすら“金”のために働き死んでゆく。なんと馬鹿気た話ではないか。

チベット人民はチベットの正統な主人公である。チベット人民の願望、感情は尊重されなければならない。伍精華が交代させられるだろうと多くの人びとは思っている。彼に関する率直な報告書を提出するよう私は指示されている。彼はなかんずく民族、宗教問題、共同戦線政策を成功裡に進めてきた。経済的発展が我々の最優先課題であるのなら、もっと長期的展望を持たなくてはならない。少数民族問題を決して無視することは許されない。経済発展と少数民族問題は同等の重要性を与えられるべきである。

チベットにあたらしく幾つかの学校が設立されたが、その教育内容は極めて貧弱である。中国16省に作られた学校にはチベット人学級が設けられたが、これはもちろん我々チベット人民への中国政府の関心を表明するためのものであった。だがそこにも数々の問題が発生している。先ず生徒が成績主義で選ばれることによってチベット全体の学校に悪い影響を与えている。第2は、大部分の生徒が小学生であるため、幼い時から彼らの固有の文化、家庭から切り離されていることである。次第に彼らは両親、一般大衆そして祖国からも阻害されてゆくのだ。

更に中国における教育は、彼らが本当に必要とするものにそぐわないことである。 ユナン地区の幾つもの学校で気づいたことは、時間割にはチベット語の時間があるものの、生徒はろくにその授業を受けていなかった。両親は子供たちが中学を終えたら仕事を見つけ一緒に暮すことを望んでおり、遠く離れ離れになっているのを厭がっている。昨年、カム訪問時に私はこう語った。“中国人は強力な翼を持ち、航空技術にも長けている。彼らは中国国内を飛び回りインド洋を越え、教育を受けに外国にまで飛んでゆける。しかし海外に留学した者の中で祖国のために貢献しようと戻ってくるのは30%に過ぎない。もし我々少数民族が海外留学する機会があれば、自分の祖国のためにきっと帰ってくるだろう。チベット並びにその他の地区では中国子弟のために膨大な教育費を払っている。だが彼らが教育を終え中国に帰ってこないのなら、あの莫大な金は何のために費やされたのか?”と。

私は同じ問題をこの常務委員会においても敢えて持ち出したい。今後海外に留学する学生には、一定期間祖国のために働くことを約束する誓約書を書かすべきである。もし帰国しない場合、国が彼らのために支払った教育費全額を返却させるべきだ。チベット人学生もまた同様の規則に従わせよう。

さて、チベット人と中国人学生との教育上の不平等について言及したい。

中国人学生は試験をパスするには合計250点必要だが、チベット人学生は僅か190点を要求されるに過ぎない。しかも合格者数において中国人学生はチベット人学生より遙に多いのである。これはチベット人学生が言葉の壁に悩まされているからだ。私人身そのことを経験している。私は中国語を話せるが、度々大きな間違いを記している。それは中国語が私の母国語ではないからだ。中国語に関する限り、中国人に伍して自信は無い。更に事態を悪くしているのは、他省に送り込まれたチベット人学生は、気候、風土、食物その他諸々のものになかなか順応できないことである。このため彼らの多くは病を得、ひいては勉学に励むことができなくなる。親たちがそのことを知り、子供に会いに行こうとすれば飛行機に乗るしかない。子供たちも親に会うためには学校を休んで行くしかない。これはどちらにしても、家族にとって大きな経済負担である。

去年、上海その他の地区の学校でチベットの学校のためという名目で車を購入したが、実際には自分たちの建設作業に使用している。当局は後になってその不正を知り事態を改善したが、人々は共謀してその犯罪を公にさせなかった。以来事態は多少良くなったとはいえ、2度とこういう事が起こらないようにしなくてはならない。

政府は近くチベットの教育改善について会議を開き議論しようとしているが、その会議ではチベットの教育制度を徹底的に討議するよう働きかけてもらいたい。私が思うに、チベット人の教育施設はチベット本土に基盤を置くべきである。上級中学校を終了した学生は、それぞれの適性に合ったより高い教育とまた各自の地区が必要とする教育の道を進ませるべきである。それまでに彼らはチベット語の基礎知識を習得し、母国への強い親近感を抱き、その地のために力を尽くそうという気持ちを持つように仕向けるべきだと思う。このやり方は大きな改善だと信じる。各民族が母国語を習得し駆使できる環境を作ることは何よりも大切なことである。中央政府はチベット語習得の重要さをよく口にするが、それの具体化には何の手も打とうとはしていない。

政府は4つの近代化計画を公表した。私は科学の専門家ではないが、慈悲という仏教の基本思想を信じる者である。先進諸国から学ぶことは大事である。しかし我々が学ぶべきことは彼らの技術的ノウハウと科学的管理方法である。高い生活水準を維持する社会は最良のシステムを持っている。この点について私はあまり考えていなかった。日本人の生活方式はかなり複雑である。彼らの文化、科学、技術教育は非常に高度にシステム化されている。世界の何処であろうと新しい本が出版されると、僅か30日以内に日本語に訳され読むことが出来る。それに比してチベットの翻訳機能は誠に嘆かわしい限りであり、特にヨーロッパの言語にそれがいえる。東トルキスタン、内モンゴルより更に貧弱である。去年外国に行ったとき、チベット語を英語に翻訳できる者はだれもいなかった。そのために私は中国語の翻訳者を使って中国語で喋るしかなかった。これは外国人に非常に悪い印象を与えたはずである。このことはチベットの教育水準がいかに劣悪であるかを証している。

チベット自治区全体で物理学の本をチベット語に翻訳できる者は皆無である。チベット自治区当局者たちは一体何をやっているのか?青海省(アムド地方)ではその質を問わず何でも翻訳しているし、チベット自治区を喜んで援助してくれようとしているのに、チベット自治区当局はその申し出に応じようとすらしていない。彼らは実際にはチベットの言語を完全に無視しているのである。なんと悲しむべきことだろう。ガポ・ガワン・ジクメー副議長は今年チベットを訪れるそうだが、貴方がチベット語を広めるための法制化の道を開くことができるかどうか甚だ疑問である。もしそれが実施されれば2、3年以内にすら事態は大いに改良されること請合いである。チベット人民の95%は中国語を話すことも解することもできない。中国語を公用語化しているのは、中国人官吏の便宜のためだけにすぎない。行政面でチベット語を用いることはどれだけチベット民衆の助けになるか分からないはずはあるまい。ある人々は私が喋り過ぎると不快に思うだろう。多分そうだろう。しかし多くの人間は私と同じ不満を表明しているのだ。昨年のある会議でガポ・ガワン・ジクメー同志は、今私が述べたような状況に対して怒りの余り拳を机にたたきつけたではないか。私は総ての人がこのことをもっと真剣に受け止めてもらいたいと思う。チベット語の普及は決して小さな問題ではない。政治に直結しているのだ。

ドルジェ・ツェテン同志(北京チベット学研究所長で元チベット自治区人民政府議長)並びに同志諸君!チベット語も文化も満足に知らぬ人間がどうやってチベット教育に関する調査ができるというのか?

チベット学研究所に対し、特にその新人教育制度についてたくさんの人間が大きな不満を私に表明している。1言でいえば、チベットの業務に関してなさねばならぬことが山ほどあるということだ。チベット自治区委員会並びにチベット自治区政府はその行政機能を十分に調査し、改善に向けて努力を結集してもらいたいと願っている。私はまた中央政府がチベットの政府状況にもっと関心を持ち、この地区に対する一層の経済的援助を強化して欲しいと思う。

チベットは今非常な重荷に喘いでいる。我々チベット自治区代表は全国人民大会で幾つもの提案をした。その表れの1つとして政府機関の中級クラス官吏たちは若くて有能なスタッフを交替された。しかしそれにも拘らず旧態依然とした左翼主義に固執し、文化大革命時の凶行に責任のある連中がまだたくさん残っている。その中には人びとの強い反対にもかかわらず昇進したものもかなりいる。

中央政府は文革的政治をくり返さないと決定した。だが、これら昇進組は、チベットでだけ推し進められたいわゆる“過去の過ちを悔い、進んで変革を受け入れる”という運動に便乗した者たちである。この“運動”は中央政府の指示によるものではなく、運動の提唱者が何者であるかすら判っていない態のものなのであった。

これはチベットに発生した幾つもの逸脱行為の1例などではない。それゆえ、チベットを特別な地区として扱い、特別な政治、経済政策を実施する必要がある。そしてこれらの政策は、チベットの厳しい経済的諸問題が改善され、チベット人民が納得する時まで維持されるべきである。

チベットの騒乱の取扱い方についてリンジン・ワンギャルの述べたことは正しい。1959年には暴動が起きた。それを鎮圧するために軍隊が派遣されたが、それは正しい決断であり否定できない。だが一方で多くの無実の民が処刑された。鎮圧作戦の過程でたくさんの過ちが犯された。政府当局者は、騒乱に加担したかどうかの有無すらも一切区別せず罰した。民衆は無差別に逮捕、投獄された。尋問など全く行われなかったのである。チベット人とみれば片端から投獄し拷問したのだ。しかもこうしたやり方は今でも日常茶飯事なのだ。これは実に嘆かわしいことであり、民衆の間には深い恨みが蔓延している。我々はこのような状態を真剣に考慮せねばならない。このような行為を調査し、官憲の不当行為を記録すべきである。それによって民衆の反感を和らげることができるのだ。そのために我々はこうして討議を行っているのではないか?

ガポ・ガワン・ジクメー(全国人民大会副議長兼チベット自治区人民大会議長):

その通りだ。

パンチェン・ラマ:

私はかって70,000語に及ぶ嘆願書を提出し、その中で今述べたような事実を明確に指摘した。

私は昔のチベット政府の高級官僚たちのやり方についてガポが言ったことと同じことを言ったに過ぎない。彼らはしっかりした機構と法律制度を有していた。政府職員であったそれら貴族官僚たちは、政府の指示通りに職務を遂行できなければ、白いチュパ(チベットの衣装)を着せられ、赤い牡牛に乗せられ放遂されたものだ。もし諸君が同じような目にあったとしたらどうするだろう。キャリアというものは誰にとっても大切なもののはずだ。

17ヶ条協定の中で、チベットの近代的改革が導入されるまで、従来のチベット政府の権限は変わらないと明確に謳ってある。タシ・ルンポ僧院にも同様の約束がなされていた。しかし、その後何が行われたかは次の言葉によって容易に理解できよう。曰く、”新しいイデオロギーの見地から、旧制度を批判すること”!

こういうやり方が道義的といえるだろうか? 科学者なら、科学的に正しく検証された結論に基づいて物事を判断すべきであろう。

チベットの貴族階級は何代にもわたって政府に仕えてきた。彼らはダライ・ラマ法王を深く信奉し、現世、来世両方の拠り処としてきた。民衆もまた同様に深い尊敬と献身性を保ち続けてきた。これは否定し難い事実である。然るに後から、貴族たちは反乱の指導者として糾弾され迫害された。これは絶対に間違いであったと私は信じる。嘆願書の中で私はこのことを明記した。そしてそれゆえに責められ罰せられた。だが真実は永遠に不変である。もちろん私の嘆願書には幾多の間違いがあった。しかし明確に声を大にしたことにおいて、私はいささかの過ちをも犯してはいない。嘆願書の中で犯した間違いは過去、今日においても間違いは間違いとして変わるまい。しかしながら、何処で私が過ちを犯し、何処で私が正しかったのか区別は明らかにしなくてはならない。

最初のカムパ族ゲリラの拠点となったロカについて語ろう。ダライ・ラマ法王14世がその地を通った時、住民は心から喜び、バター、大麦粉その他の食料を自発的に寄進した。これは全く人びとの愛情の表現であった。しかしその後この人びとは抵抗運動の活動分子として処罰された。どうしてこんなことが出来るのか?これはチベット人であれば誰しもが知っている慣わしなのだ。

当時私自身同じように通りすがりの住民から手厚い歓迎を受けたものだ。それが今になって政治的陰謀だとどうしていえよう。人びとはその宗教心と習慣によって私への敬意を表明したに過ぎないのだ。チベット独自の習慣や伝統に正しい配慮がなされなくてはならない。

反乱を鎮め、改革を進めることは原則として正しい。だがそのやり方には極左的偏向が色濃かった。こうしたことは、2度とくりかえしてはならず、正さねばならない。30年間の中国共産党政権下で多くの良いことがなされ、かつ悪いことも行われてきた。

これらの事柄は、第11回中国共産党全国大会、第6回大会において検討され、国際的にも広く知られた。自らの過ちを公表することは党のイメージを損なうよりは、むしろそれを救うことになるだろう。

チベット駐留軍司令部並びに成都軍区司令部の何人かの同志は、自分たちがやったことは本当はなすべきことではなかったと私に語っている。これは健全な態度である。諸君はチベットの解放、改革で大変な努力をし、多大な成果を納め、チベット人民はそのことを決して忘れはしないと、度々言明してきた。この言葉に嘘、偽りはない。だが一方では大きな過ちを犯してきたし、チベットにおいても同様である。このことを我々は決して忘れはしないだろう。これらの過ちを正さんがために私は話しているのだ。もし過ちを改めることができれば、更に前進できるだろう。心からそうあってほしいと願うがゆえに、私はこうして発言しているのである。

このことについて、いささか私の個人的な経験を諸君にお話ししたいと思う。カシャク(前チベット国政府)は反乱の先頭にたったが、ラプラン(僧院施設)にいた我々は、騒乱には加わらなかった。

当初、我々は平和的改革、友好的関係政策についてたっぷりと話を聞かされた。しかし、いざ改革が始まると政府関係者は筆舌に尽くし難い目に遭った。人びとは愛想をつかし、不信感で一杯になった。そのため旧チベット政府のほとんどのメンバーは国外に逃亡したほどである。後に残った僅かな人びとだけが賞賛され、輝かしい進歩的分子の模範として政府の職を与えられた。中国との連帯のために残った関係者は考えられないような辛酸をなめさせられた。その当時ラサにいた私はそれほどひどい目には遭わなかったが、私の一族全員はいわゆる“タムジン=人民裁判”にかけられたのである。

私の側近の妻の1人も逮捕され、ある時取調室で、”パンチェン・ラマという男のお陰で、絶望のあまり死んでしまいたいほど辛い目に遭った”と思わず呟いた。この1言を官憲は彼女を私に罪を被させる絶好の道具に仕立てられると思ったのである。彼らは私を処罰するまたとない機会が訪れたと思い、早速筆記者を呼び彼女の口述書を取らした。ところが彼女はこう続けた。

”パンチェン・ラマという男のいうことを信じ、中国と戦わないというとんでもない間違いを私たちは犯してしまった。もし彼が中国に抗して反乱を起こすよう我々を導いたなら、今日我々の状態はずっとましなものになっていただろう。何故なら最初にできる限りたくさんの中国人を殺してから、インドに逃げればよかったのだ。インドは村から近いのだからその方がもっとたやすかったのに。だのにあの男は私たちに進歩的で、愛国的になれと教えた。それで彼の忠告に従ったのだ。今となってはインドに逃げることもできない。私たちは、男も女もこうして迫害され、地獄を生きねばならなくなった。”

リンジン・ワンギャル同志よ、君は、チベットに残った者の方が、インドに亡命した連中よりましな暮らしをしていると言った。その通りだ。私自身の経験を語るなら、1979年にダライ・ラマ法王の5人の代表がチベットに派遣されてきた時、たまたま私の父は私用でチベットに行かねばならなかった。しかし彼のことを構ってくれる者は1人もいなかった。彼はチベット自治区内に入ることすら許されず雨に打たれて待つしかなかったのである。一方、代表団一行は各自運転手付きの車を当てがわれ、通訳と護衛までつけてもらったのである。かってのチベットでは、私の父はその代表たちよりずっと高い地位にあった。”クン”の地位にあった者は2人しかおらず、1人はダライ・ラマの父、もう1人は私の父であった。だが、父は進歩的分子であったがゆえに、こんな屈辱的扱いを受けねばならなかったのである。昔の恨みを晴らしたくてこんなことを言っているのではない。我々の政策を実行に移す時にはこうした事柄総てを念頭に置いて考慮すべきだと忠告しているのだ。

青海省で犯された残虐行為一切を記録したフィルムがもしあれば、それを観た人びとを戦慄させずにはおかないだろう。ゴロク地区では、大勢の人が殺され、その屍体は丘の斜面から深い凹地に転げ落とされた。そして中国兵士たちは遺族に向かって反乱は一掃されたことを喜べといった。人びとは死者の体の上で踊ることを強制され、しかもその後で機銃の一斉射撃によって瘧殺され、その場で埋められたのである。

現実にこれら地域総てに反乱が発生したわけではなかった。が、カム地方ではもちろん方々で反乱が起こった。アムドのジローン・パルポ、ミリでは、遊牧民たちは武器をまとめて中国軍に差出した。彼らは賞賛され、特別な催しまで行ってもてはやされた。だがそのお祭り騒ぎが終わるや否や村に追い返され、そこで逮捕され長期間投獄された。その中には相当な老人たちがたくさんいたのである。

アムド、カム地方ではいい尽くせぬほどの残虐行為が行われた。人びとは10人、20人と1まとめにして射殺された。このようなことを喋るのは好ましくないのは重々承知している。しかしこれらの無数の残虐行為がどれほどチベット人民の心に深い傷を与えたかを告げたいのだ。

自分たちのやったことをそのままに放置してゆく役人も少なくない。何のためにそういうことをするのか?もちろん罪は罰されなくてはならない。だが悪い遺産を放置することに何の益があるというのか。捲いた種は刈らねばならぬと主張する人間はきっと愚か者であろう。しかし、そのように主張する人間こそ本当に賢明で有能な人だと考える者も少なからずいるのだ。

同志伍精華は、チベット人の反乱鎮圧に際して中国当局者たちが取った手段、過ちを調査しようと計画している。この調査は最大限の綿密さでなさるべきだと信じている。

ドルジェ・ツェテン(現北京チベット研究所々長。前チベット自治区人民政府議長):

あの当時3つの重大な過ちがなされたと私は考える。先ず、人びとを無差別に逮捕したこと。第2にチャムド、ナチュ、ロゾンといった地域で大規模かつ実に残酷な行為がチベット人民に対し行われたこと。第3に、集会に出席した旧チベット政府の役人総てが、反乱に加わったか加わらないかに関係なく逮捕されたことである。

パンチェン・ラマ:

もし人びとが投石しなければ、サンポですら集会に出ただろう。役人は総て集会に出席しなくてはならなかったのだ。そうするよう命令されたのである。それを反乱に加わったとするのは不当であり、言語道断である。

ドルジェ・ツェテン(現北京チベット研究所々長。前チベット自治区人民政府議長):

先程私のあげた3つの過ちは極めて重大である。その当時、“大蒋介石は台湾に逃亡したのだから蒋介石共は抹殺しなくてはならない”という命令が出されていた。

パンチェン・ラマ:

毛沢東は彼の演説の中で、“蒋介石だけでなくそれに従う者たちも殺す”と明言していた。大パンチェン・ラマたる私は何とか生き延びたが、多くの小パンチェン・ラマたちは殺されたり、刑務所で拷問された。

ドルジェ・ツェテン(現北京チベット研究所々長。前チベット自治区人民政府議長):

当時ある当局者はこういうことを言っていた。“中堅的指導者共を消してしまえば、民衆は絶対反抗できなくなる。”つまり反乱に加わったかどうかに係わりなく彼らは処刑されたということなのだ。この事実は、極左的傾向が当初からチベットでは強かったことを物語っている。

1959年ワン・タイホゥ同志が失脚してから、全国的規模の反右派闘争が展開された。この時から左派分子の種が播かれ、それが盛んになっていたのである。自分としては、我々は幾つもの過ちを犯してきたと思う。だが1959年に大量の中堅党員がチベットに送りこまれ、この時から左派的傾向がしっかり根を下ろしたのである。この連中は民主的改革が完遂するずっと以前、チベットに入ってくると直ちに、コミューン(共同体)制度を導入した。私が思うには、このコミューン制度は随分と前から計画されていたはずであり、慎重に調査する必要がある。恐らく中共軍は何も分かってはいなかったのだ。

ガポ・ガワン・ジクメー(全国人民大会副議長兼チベット自治区人民大会議長):

中共軍当局が何も理解していなかったとは思わない。昨年第6回総会の第4回大会を持ったとき、デン・ミニン(軍高級幹部)が私の家にやってきて、1959年の掃討作戦について会議参加者たちはどう考えているのかと尋ねた。それに対し、特に意見はない。ただ作戦規模が大袈裟すぎたのだと私は答えた。デン・ミニンはその言葉にこう言った。“パンチェン・ラマはあれは正しい手段だと言ったのではないか? そしてある情報誌でそう言っているのを読んだ事がある”といった。それで、中共軍は明確な考えを持っていなかったのだなということを、その時はじめて知った。事実、反乱を鎮圧したのは少しも間違ってはいない。ただ残虐行為の規模が大きすぎただけである。

パンチェン・ラマ:

たとえば青海省には、3〜4,000の村や町があり、そこではそれぞれ3〜4,000世帯が、4〜5,000の家族と共に暮していた。この各村や町の100人から1,000人が投獄され、その内少なくとも300ないし400人が獄死している。つまり投獄された者の殆ど半数が獄死したということだ。反乱に加わった者はその中の一握りにすぎないことを、去年我々は知った。大部分の人間は全くの無実だったのである。70,000語に及ぶ嘆願書の中で、チベット人口の約5%が投獄されたと指摘した。だがその当時私の手もとにあった情報では、全人口の10%ないし15%ものチベット人が投獄されたのである。しかしその時、数字の余りの大きさに私はそれを公表する勇気が持てなかった。もし本当の数字をあげれば“人民裁判”で殺されていただろう。これがチベットの偽らざる姿なのだ。もしこのような過ちを口先だけでごまかし、過ちを正さなければ、いずれ同じように深刻な事態を招くことになるだろうが、私は祖国を愛するがゆえにあえて真実を語っているのだ。

東トルキスタン(新彊ウイグル自治区)に滞在していた時、党幹部たちにこう言ったことがある。“もし東トルキスタンに外的が侵略してきたなら、その時こそ君たちのこれまでの業績が問われる時だ。集会などで東トルキスタン人が言っていることは総て大嘘なのだ。彼らを信用してはならない。もしこの地区にソ連の軍隊が侵攻してきた時、東トルキスタン民族が人民解放軍を支持して立ち上がったら、君たちは立派な仕事をしてきたのだと認められるだろう。”

私はここで2つの歴史的教訓を挙げよう。レーニンはかって、ロシア10月革命が成功したのは、革命が人民大衆の益になったからだと言った。一方スターリンは大衆の幸せになるような仕事をしなかった。その結果、ナチスがソ連を侵略した時、少数民族共和国の民衆はソ連邦を防衛するためにロシア軍を助けようとはしなかったのである。ベトナム戦争の映画を観た。その中では、少数民族は解放軍戦線を歓迎し、道案内を買って出、水を補給していた。それも、その人びとが、多数派のチン民族に有利なことばかりしてきた圧制にうんざりしていたからにほかならない。チン民族は実に残忍であった。もし他民族が彼らに従わなければ、50、60歳の年配者をも容赦せず射殺したのである。我々はこれらの歴史的事実から教訓を学ばねばならない。

1964年、北京に呼ばれた時、指導者たちは私にこう言った。“貴方は母国に反旗を翻そうとするつもりか? 分裂主義者の反乱を起こす気なのか? たとえチベット全人民が武装したとしてもその数は高々300万人に過ぎない。そんな数などは少しも恐れはしない”。この言葉を耳にした時、私は実に悲しく思い、自由を奪われているということがどんなに惨めであるかを改めて思い知った。先ず第1に、私はそんな考えは毛頭持っていなかった。第2に、彼らの言う分裂主義的運動を起こしたいと思ったとしても、私にどうやってチベット全人民の支持を獲ち得る手段があるというのか? 現状下では誰がそんなことを企てようか? もし誰かがやったとしたら即座に消されてしまうのがおちだ。

反乱は、自宣をわきまえない、政治、軍略に全く無知な僅かな人間によって引き起こされたのである。もし戦争をしようと思えば、先ず自宣をわきまえねばならない。そして十分に強力でなければならず、己の力と敵の力の両方を知っていなければならない。これらの要素を欠いては戦いに勝つことなど思いもよらない。僅かな旧式ライフルで戦いに勝つことは不可能なのだ。当時の反乱軍は馬鹿馬鹿しいほど無邪気だった。だが、外国の軍隊が攻め込んでくるような事態がもし出現したら、わが国は由々しいことになるだろう。

それゆえにこそ平和な時に少数民族の幸せに気を配っておくことが肝要なのだ。少数諸民族が母国の1部として間違いなく幸せであるようにしてやらなくたはならない。もしそうであれば、国の発展のために人びとは喜んで中国人と協力するだろう。だがその反対に、少数民族を常に支配し圧迫し続けるなら、将来に大きな禍根を残すことになるだろう。さきほどあげた幾つかの例はこのことと関連している。こうした可能性が今日拡大しているものとして戦争について考慮することは大切である。もちろん我々は戦いを阻止する力を持っている。だがもし今戦争が始まったら我々はどうするだろう?

1962年の中印国境紛争では人民解放軍は幸いにして勝利したが、それは主としてチベット民衆が自ら荷物を背負い、家畜を動員して兵站線を確保したからである。最近、ありそうもない対印戦争の可能性を口にする人びとがいる。しかし、万一そういうことが起こったとしたら、1962年の時のようにチベット民衆が人民解放軍を援助するかどうか甚だ疑問である。

我が同志の中には新しい政策の実行に躊躇している者がいる。この人びとは軍略というものが全く分かっていない。政治に対しても然りだ。チベットに変事が発生したら、政府は緊急会議を開き、ガポと私に事態収拾を命じるだろう。もちろん我々は喜んで出来るだけのことをしよう。しかし人民を常に無視し続けた状態の中で、一体我々に何がやれるというのか。

私は不躾に物を言い過ぎているかもしれない。しかし、それは国を思うがゆえである。こういうことを喋って自分に何の得があろう。私個人は何不足なく幸せでいる。中国一の果報者だと思っているくらいだ。だから諸君はもっと広い見地から考えてもらいたい。

チベットでの左派的行動から我々はどんな益を得るというのか。そういうイデオロギーを持つ者たちは一切を抑圧しているに過ぎない。胡燿邦同志が最近失脚した時、左派分子共は爆竹を鳴らし、祝い酒を飲んで大喜びした。彼らは、チベット民衆の頑強な支持者は敗北した。伍精華やパンチェン・ラマ、ガポたちは2度とチベットには戻ってこれまいと公言して憚らなかった。どうして我々が自分の祖国に帰れないというのか? だが事態は、彼らの祝い酒がいささか早まったことを示している。チベット人民と中国人民の間にくさびを打ち込もうとしているのはこの連中なのだ。我々は1つの家族の1員であり、チベット人民の支持者たちが敗北したなどとどうして言えよう。

チベット民衆の幸せのために注意を払い、進めるよう総ての人にお願いしたい。チベットは常に経済的困難に直面している。飛行便にも不自由している。2台の旅客機を購入するのに我々はどんなに苦労をしたことか。だが諸々の問題があって、この飛行機は未だ飛んでいない。

周恩来元首相は色々の面で我々を援助してくれた。チベットに石油パイプラインを敷設してくれたのも彼であった。だが政府は今石油価格を再度上げようとしている。そうなれば我々の運輸事業は行き詰まってしまうだろう。

我々は幾つかの過ちを犯している。政府はチベットに大きな予算を組んだ。だが、その資金はいったい一体何処へ消えてしまったか?

役人や技術者たちがその金を着服したというのが真相ではないか。そのため多くのプロジェクトが実現してないのである。チベット人民は肉体労働で生きてゆくしかない状態なのだから、彼らをもっともっと援助しなければならない。

ガポ・ガワン・ジクメー(全国人民大会副議長兼チベット自治区人民大会議長):

チベットには製造業は皆無であり、工業らしいものはほとんど無い。チベットが生産しているのは農作物だけである。

パンチェン・ラマ:

我々には出来ないことが余りに多すぎる。やりたくともその能力を奪われているからだ。チベット語の学習と使用にまるで関心が払われていない。チベットが最も宗教性の深い地域であるというなら、当然チベット語をもっと普及さすべきである。だが多くの過ちがなされている。1958年、私が青海省にいた時、こういう公文書に接した。“先ず反乱を鎮圧すべきだ。そして今後反乱が再発しないよう運動を押し進めるに当って、明確な民族的、宗教政策を確立しなくてはならない。”

思うに、我々はこのような政策を将来に向けて考慮すべきであった。現時点では、暫しの平和と安定が存在しているかのように見えるが、これからも多くの小規模な動乱が発生することだろう。

しかし問題全体について考えることが大切だ。今は民族的調和、平和と安定が存在するが、これに満足していてはならない。将来動乱が起こったとしたら我々はどうしようというのか?

政府は民族問題解決のために十分な資金を提供していないが、自由化政策において少数民族に対する多少の柔軟性を示していることは確かである。


チベット亡命政権 情報・国際関係省 「The Panchen Lama Speaks
日本語翻訳者:山際素男

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