パンチェン・ラマについて

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パンチェン・ラマ10世の告発


序文

1991年11月
チベット亡命政権 情報・国際関係省(外務省)タシー・ワンドゥー

1949年の中国によるチベット侵略以来、チベットの不法占領、チベット人民に対する非人間的扱い、チベットの文化的遺産の組織的破壊に対して何百回とないデモや抗議行動が行われてきた。しかし、1987年9月27日の抗議行動は、当時大勢の外国人旅行者がラサに居合わせたお陰で、これまでにない国際的注目を浴びた。だがいつもの如く、中国当局者はその抗議行動を情け容赦無く弾圧しただけではなく、その事件全体を“外部からそそのかされた一握りの分裂主義者”によるものであると非難した。

このデモに先立つ6ヶ月前、パンチェン・リンポチェ(パンチェン・ラマ)他幾人かのチベット人政府要人は、北京で開かれた全国人民代表大会小委員会で、チベットの状況に対する思い切った忌憚のない論評を行った。

パンチェン・リンポチェはその演説の中で、チベット人民の大量虐殺、虐待、チベット文化、自然環境の破壊、大量の人口移動、中国共産党支配者によるチベットの経済発展に対する一貫した無視といった恐るべき実体を生々しく描いてみせた。彼はまた、このような非道が改められなければ、必ず深刻な結果がもたらされるであろうと警告した。

中国政府はそれに対し、中国語に翻訳した演説の写しを中国共産党最高幹部達に“秘密書類”として配布した以外何の措置も講じなかった。

中国政府に対し、これらの問題を我々が提示しても常にそのような問題を提起する権利が我々にはないと突っぱねられ、その正当な関心は“一握りの分裂主義者、反動分子”による宣伝に過ぎないと無視されてきた。

パンチェン・リンポチェは、文化大革命が始まるずっと以前、1960年代の初頭に中国政府に提出した“70,000語に上る請願書”の中で悪化する一方のチベットの状況を訴えたことに言及した。彼はこの“請願書”のゆえんに、9年8ヶ月もの間投獄され、その大半を独房で過ごさねばならなかった。しかもその間度々拷問され、ひどい辱めを受けねばならなかったのである。

パンチェン・リンポチェはまたこの小委員会において、チベット国民が引き続きひどい扱いを受けていることに大きな苦痛を抱いていると語り、チベット人の不満が益々増大していると警告した。

1989年3月6日、中国政府はチベットに戒厳令を布いた。1年以上経ってその布告は公式には解除されはしたが、今年、1991年7月、チベットと中国を訪れたオーストラリア国会議員人権調査団は、戒厳令は依然として実質的に存在していると報告している。

1989年1月、チベットを訪れたとき、パンチェン・リンポチェが中国のチベット政策を痛烈に非難したことはよく知られている。そしてその僅か数日後、かれは不可解な死に方をした。その悲劇的最後の真相と彼の化身探しを巡る論議は今も謎に包まれたままである。

最近中国政府は、中国における“人権白書”なるものを発表した。その“白書”に述べられている虚偽を暴くために、我々はこの報告書を公表することにした。本報告書は彼ら自身の間で回覧されたものなのだから例によって“分裂主義者と外国の手先”による宣伝文書として否定することは出来ない。彼らは報告書にのべられている厳しい告発に答えねばならない。今は、自らのチベット政府に対し中国政府は答えるべき義務があるはずである。


チベット亡命政権 情報・国際関係省 「The Panchen Lama Speaks
日本語翻訳者:山際素男

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