チベット問題解決の中道政策とその他の関連資料

序文

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2010年8月15日

中国共産党は1949年の権力掌握直後にチベットに軍事侵攻し、その結果、1951年に、「チベットの平和的解放の措置に関する17ケ条協定」が課されるに至った。この協定は、チベット全体を中華人民共和国の主権下にある民族自治区の地位に格下げした。ダライ・ラマ法王とチベット地方政府は、この協定が確約した約束された自治を堅持するため真摯にあらゆる努力を行ったが、無駄であった。

そのために1959年、チベット政府とチベット人は民衆蜂起を行うことを余儀なくされた。チベット人の民衆蜂起には強硬な弾圧が加えられたため、ダライ・ラマ法王とその政府、チベット人たちはインドへ亡命することとなった。

亡命後数年間、ダライ・ラマ法王と中央チベット行政府は、失われたチベットの独立を回復しようとする政策を堅く保持しつづけた。しかし時が経るにつれ、国際的および国内的に優勢となっている現状に合わせた政策を採るようになった。

ダライ・ラマ法王の指導下で、カシャク(内閣)、チベット亡命議会の議長や副議長といったチベット民主政府の政策決定体の一部を形成する人々によって、一連の討議や諮問が行われた。

1974年、ウー・ツァン、カム、アムというチベット三地方に住む全チベット人のための実質的な自治に向けて働きかけることが最終決定された。中国政府との妥協策を模索するチベット側のこの努力は、後に「中道政策」として世界に知られることになった。

すでにこの政策は決定ずみだったため、中国最高指導者である鄧小平氏が、1979年にダライ・ラマ法王との対話を提案した時、チベット側は直ちに応じられる態勢にあった。

この中道政策は、チベット内外に在住するチベット人の大半が支持しており、亡命議会も全会一致で支持していることから、その細部にはいくつか漸進的な変更が加えられてきたものの、分離を求めないという全体の枠組み、あるいはチベットの現状にはいくつかの変更が加えられるべきであるとするという立場は今日まで堅持されている。チベット側がこうした政策を堅持していることは、国際社会だけではなく、中国世論の強い支持を受けている。

このように、中道政策がチベット側を大きく利することは実証されている。それゆえ、カシャクは、ダライ・ラマ法王がこのような政策を打ち出したことに大いに感謝するとともに、より広範なチベット人コミュニティがこれを支持することで示した叡智も評価している。

しかしながら、中道政策についての近年の進捗状況を良く理解していない人も一部おり、またこうした進捗状況について、わざと知らない振りをする人さえいる。その結果、チベットの一般大衆のあいだには、中道政策についての多くの憶測、誤った解釈や懐疑が存在しているのである。

これらすべては、ダライ・ラマ法王とカシャクの声明や、立法府に対し責任を負った行政府による議会答弁や説明義務の履行などにより、すでに明確になっている。しかしチベットの諺「重要なことは反復して強調すべき」に従い、チベットの一般大衆が具体的にこの政策の性質や進捗状況を十分に理解できるよう、カシャクは「中道政策の性質、進展状況と、成果に関する序論」と称する詳細な覚書を発行することにした。

この覚書によって、亡命チベット人コミュニティが、中道政策が実際には何を意味するかより明確に理解できるようになり、その結果、この政策を支持したり拒否する人が、「闇雲に撃つ」という諺まがいの態度で行動するのではなく、この政策の真の意味を理解して決定を下せるようになることを願ってやまない。

カシャク(内閣)
2010年8月15日

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