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チベット亡命政権 情報・国際関係省著 「チベット入門」より抜粋

毛沢東が1976年死去すると、中国の政策に変化が現れた。変化の兆しは経済の自由化と開放にみられ、政治囚の扱いもいくらか緩くなったように思われた。

だが経済の自由化と開放が進んでも、政治的自由につながるような変化は、チベットではついにみることができなかった。1982年5月には、115人のチベット人活動家が逮捕され、「犯罪者」や「闇商人」の汚名を着せられた。逮捕と公開処刑はその後も続く。1983年11月末には、ラサだけで750人ものチベット人が政治活動家として獄につながれていた。

1987年9月27日、ラサにおいて200人を超えるチベット人がデモを敢行した。同年10月1日や翌88年3月5日のデモをはじめ、相次ぐデモに公安は発砲し、路上に多数の死傷者を残した。武器を持たないデモ参加者が、2,500人以上検挙された。

1988年7月、公安の責任者であった喬石は、「チベット自治区」を視察の途中、中国のチベット統治に反対する行動には、いかなるものであれ「断固とした措置」を取ると発表した。
この方針は、ただちに実行に移された。

1988年12月10日、チベットで最も神聖視されるラサのジョカン寺においてデモが発生した。そのときの鎮圧の様子を、オランダ人旅行者クリスタ・マインデルスマさん(当時26歳)が目撃している。

前触れもなく、公安が群集にむけて無差別発砲を始めました。ただやみくもに撃っていた感じです。私は背中を向けて逃げようとして、肩を撃たれたのです。

その場に居あわせた西側ジャーナリストの話では、上官が部下に対して「チベット人を殺せ」と命令するのが聞こえたという。その日は少なくとも15人が死亡、150人以上が重傷を負い、また多くの逮捕者が出た。

それでもなお、1989年3月5日から3日間にわたり、ラサは再び騒然とした。デモが繰り広げられ、チベット旗が舞い、独立が叫ばれた。鎮圧の際には、家の中にまで銃器が撃ち込まれたという。
死者の概算は80〜400人と幅があるが、中国の公式発表はわずかに11人だった。当時ラサにいた中国系ジャーナリスト、タン・ダーシエン(唐達献)によれば、400人ほどのチベット人が殺害され、数千人が負傷し、3,000人が逮捕されたという。同年3月7日午前零時、ラサに戒厳令が敷かれた。

それから約1年後の1990年5月1日、中国は戒厳令の解除を宣言した。しかし、1991年7月にチベット入りを許可されたオーストラリアの第1次訪中人権代表団は、次のように報告している。

戒厳令はたしかに1990年5月1日に解除されていますが、実質は解除されていないも同然です。

アムネスティ・インターナショナル[以下、アムネスティ]は、その1991年のリポートでこの件を確認し、次のように付け加えている。

公安と武装警察は、いまだに広範囲な権力をもっている。任意に逮捕したり、裁判なしに拘束したりすることができる。

チベット併合40周年[中国ではチベット平和開放40周年という]を記念する中国側の記念式典の準備期間中、1991年4月10日に146人の「犯罪者」が逮捕された。つづく公開判決集会では、その後も逮捕者の出たことが明らかにされた。記念式典の当日は、ラサに夜間外出禁止令が出されている。

また1992年2月に突然始まった取り締まりでは、10人1組の中国人検官がチベット人の家々に押し入り、反体制的なものを持っていた人間をことごとく逮捕した。反体制的な物とは、たとえば、ダライ・ラマの写真や、ダライ・ラマの演説・法話を収めたテープ、ビデオなどである。逮捕者は200人を超えたという。

あらゆる手段で弾圧が行われたにもかかわらず、1987年以降、あいかわらずチベット全土でデモが続いていた。これまでに入手した情報によれは、1987年9月27日〜1993年末にかけて、大小あわせて200件以上のデモがチベット全土で発生している。

1989年3月の激しい弾圧の記憶がまだ新しい1993年5月24日、多数のチベット人がふたたび街頭に集まった。旅行者など目撃者の話では、おそらく10,000人以上がいたという。デモはその日1日続き、翌日、デモ隊が家路につく黄昏をねらって鎮圧された。

1997年〜98年にかけては、農村部でのデモが増えていると報告された。カムとアムドでは、デモや壁新聞がさかんになりつつあるという報告がある。カルゼ、ラギャ、キルティ、ツァワ・ポムダ、チャムド、レコン、チャプチャ出身のチベット人が、デモや壁新聞に関係したかどで、刑務所や強制収容所に多数収監されている。

チベットでの人権侵害としてアムネスティが心配しているのは、不公平な裁判によって良心の囚人(注1)や政治囚が拘禁されたり、囚人が拷問や虐待を受けたり、あるいは死刑や超法規的処刑(注2)を受けたりすることだ。
チベットの憲法や法律では住民の基本的な自由が制限されており、国際的な基準に合うような人権保護が盛り込まれていない。

アメリカの人権団体アジアウォッチは、その報告のなかで次のように書いている。

中国の支配に対する、これらすべての不満の表明(デモ、政治上の乖離)は、平和的なものであれ何であれ、中国当局には「違法な分離活動」と映るようだ。そしてその指導者や参加者への懲罰は、どんどんひどいものになっている。「断固とした措置」という指令は、チベットにおいていまだに生きている。

またアムネスティは、1993年のリポートのなかで次のように述べている。

チベット人政治活動家の逮捕は、今もなお続いている。政治囚が200人を超え、そのうち良心の囚人は100人を下らない。チベットの独立を平和的に主張しただけで僧尼たちが捕らえられ、また、民族主義者だとわかる物品を所持していたとして拘束されるチベット人もいる。不公平な裁判によって服役している囚人がおり、正式な裁判のないまま『労働再教育』に服する囚人もいる。

(注1)良心の囚人 – 暴力を行使・唱導することなく、その信念、宗教、人種、性、言語ゆえに投獄、監禁されている人々

(注2)超法規的処刑 – 法による裁きを待たずに私的に処刑すること