ダライ・ラマ法王

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ブッダガヤ・カーラチャクラ ダライ・ラマ記者会見全内容

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(2003年1月16日ブッダガヤ)

ダライ・ラマ法王:

皆さんがカーラチャクラに大変な熱意を持って集まってくださったことを心から感謝しています。もちろん皆さんがご存知のように、ブッダガヤは、仏教徒にとって最も重要な聖地であり、この地でカーラチャクラが開催されるのは、3度目です。私は、チベット人だけではなく、インド北部全体、ネパール、そしてブータンから来た多くの人たちに説法を行う機会を得たことを大変嬉しく思っています。基本的に、この地域の人たちは、同じ精神世界、そして同じチベット仏教を信仰しています。また、モンゴル人、韓国人、ベトナム人、そして中国人も参加しています。中には、シンガポール、台湾、そして、中国本土から来た人たちさえいます。ヨーロッパ、ラテン・アメリカ、そしてアメリカからの参加者もいます。

ご存知の方もいるでしょうが、私は、カーラチャクラの潅頂の儀式よりも、仏教、特にチベット仏教の講義と紹介を行う 3日間のほうが重要であると考えています。この講義は非常に大切なものであると感じています。実際、仏法の内容は、四つの聖なる真実(四聖諦)の概念にその基本を置いています。残念なことに、私たちは否定的な感情を変えようとする努力を怠り、巡礼、五体投地、読経だけで仏法を理解しようとしてしまうことがあります。私は、仏教徒にとっての本当の修行とは、人間の知性を最大限活用することで否定的な感情を変換させることだと考えています。つまり、慈悲のような肯定的な感情を育み、憎しみや嫉妬などの否定的な感情を滅することです。これは、知性を利用して感情を変化させる仏教独自の方法です。このような修行を通じて、最終的には自分の心を浄化することができるようになるのです。このように完全に浄化された精神的な段階を仏心と呼んでいます。しかし、釈尊の基本的な教えがないがしろにされてしまうことがしばしばあると感じており、仏教の教えを説くことに主眼を置いています。それは、私が最も力を注いでいることです。

もう一つ強調しておきたいことは、これだけ多くの人々が一つの場所に集い、慈悲心を念頭に置いて瞑想した時に、ある種の肯定的な波動が間違いなく生まれるということです。これは、瞑想によって平和的な雰囲気というものが少なくとも生じることを意味しています。

先ほども申し上げたように、ブッダガヤでカーラチャクラの灌頂の儀式が開催されるのは、今回で3度目です。今回の灌頂は、例年になく非常に寒い気候の中で行われました。私自身、これほど気温が低くなるとは考えもしなかったので、十分な衣服を用意していませんでした。実際のところ、薄着しか持っていませんでした。ここに到着してはじめて寒さに気付きました。一晩中、寒さは続いています。これは、仏様の祝福であると考えています。それでは、ご質問にお答えしたいと思いますが、できれば、この灌頂に関係のある、政治以外の質問をしていただきたい。もちろん、どのような質問をされても構いませんが。

── 私はヒンドゥスタン・タイムズ紙の記者です。猊下が台湾のように自治権を要求されているのかをお伺いしたい。

ダライ・ラマ法王:

皆さんがご存知のように、私は、中国政府と相互に合意した形での解決を目指して努力を続けています。そのため、私は独立を求めてはいません。私は過去の歴史とは関係なく、国家の分離を求めてはいません。私が求めているのは、真の意味での自治権です。

── タイムズ・オブ・インディア紙のアブダル・カディルです。現中国の政治機構の中で、真の自治を獲得するということをどのように受け止めているのでしょう。 それが可能だと考えておられるのでしょうか。中国で、猊下の目標が実現に近づくような変化が将来起こると思われますか 。

ダライ・ラマ法王:

過去10年、ないしは20年の間、世界中で多くの変化が見られたと思います。中華人民共和国においても、過去20年間に少なからぬ変化が起きました。今日でも中国は変化し続けています。中国では、同じ体制、制度が存在していますが、現実には大きく変化しており、現在でも変化は続いています。全体主義制度、ある場合には恐怖統治、これらにはもう未来がないことは明らかでしょう。先見の明がある現在の中国指導者たちは、この傾向を理解しているようです。彼らは変化を求めてはいるものの、急激な方法では実現したくないのです。劇的な変化には、時に状況が混沌としてしまう危険性があります。それは望ましい状況ではありません。むしろ、非常に悪い状況と言えるでしょう。円滑な変化は、中国だけではなく、アジア全体、ひいては世界全体にとって有益なものとなります。結論を言うと、事態は変化していると思うのです。そして、望ましいのは緩やかな変化であると思います。チベットの問題に関して言えば、チベットだけに限定すると、困難な状況に直面していると思います。チベット地域では、失望させられる事件が多発しています。しかし、チベットの問題をより大きな視野でとらえるなら、希望の兆しは間違いなく存在するのです。チベット人は、それを確信しています。

── 私はイタリア・ラジオ局からきた者です。アメリカでは児童の五十パーセントがうつ病と注意欠陥障害に悩まされています。ブッシュ政権は、問題を薬物によって治療しようとしています。教育システムは、西側だけではなく東側でも崩壊の危機に瀕しているようです。このような危機を回避するための児童の疾患の治療方法は何でしょうか。

ダライ・ラマ法王:

このことは、私も非常に憂慮しています。ヨーロッパ、アメリカ、そしてインドの教育機関で講演する機会があるたびに、私は、現在の教育システムと呼ばれるものが主として外の世界にのみ重点を置いていることに対する警鐘を打ち鳴らしています。内面の価値については、あまり考えられていないようです。教育機関が教会や僧院を母体として設立された3000年ほど昔には、内面の価値が尊重されたことは想像に難くありません。しかし、現代の発展した教育機関では、知力を育てることだけに重点が置かれています。かつては、このような教育だけで十分であったかもしれません。しかし今、時代は変わってきています。現代社会では、信仰に対する関心は少しずつ薄れています。18世紀、19世紀、そして20世紀の初頭にかけて、科学と技術が私たちに良い結果と利益をもたらしたことは間違いありません。科学と技術の分野に私たちの思考や努力が注がれています。そのため、ほかの価値はおろそかにされてきました。

先ほど述べたように、その結果として、物質的に非常に繁栄し必要なものが手に入るようになった社会でも、人々が精神的に満ち足りていない状況が多くあるようです。これは、物質的な繁栄というものが不十分であり、人類に完全に応えてくれるものではないことを物語っています。私たちを構成しているものは、身体と精神です。肉体の快適だけを考えるなら、物質的な発展は非常に重要で有益です。しかし、精神的な要求を考えたとき、物質は人間に愛情を供給してくれるものではないことが分かります。例えば、ダイヤモンドの指輪は非常に高価なものですが、どれほど高価なダイヤモンドでも、愛情を見せてはくれません(笑)。見せてくれるのはその輝きだけです。命を持つものであれば、子猫や子犬といった、高い代価を払わなくても手に入る生き物でさえも、愛情を示してくれます。このような生き物を飼えば、私たちの愛情に忠実に応えてくれることが分かるでしょう。内面的な価値とはこのようなことを意味するのです。億万長者と呼ばれる人は、持ってないものはなくても、精神的な孤独を感じている場合があります。お金で愛情は買えないのです。物質的なものをすべて手にしたとしても、肯定的な感情を身に付けていることにはなりません。先ほども言ったように、物事は変化し続けています。

インドでは、村落またはもっと貧しい地域で物質的な開発が早急に求められています。その一方で、物質的には既に満たされた人々が、内面的な価値に関心を示し始めています。私は、これとまったく同じことが中国でも起こりつつあると考えています。だからこそ、教育システムで道徳的な教育を取り入れる必要があるのです。私は、このような教育を「世俗的な道徳倫理」と呼んでいます。このことは、宗教や信仰について語らずに、慈悲、愛、思いやりといった、人類の肯定的な価値をそのまま教えることを意味しています。私は、このような価値は、幸せな人生、幸せな家庭、幸せな社会、そして最終的には人類の幸福の基礎となりうるものと考えます。人類の基本的な内面の価値は、人類全体が存続する上で非常に重要な意味を持ちます。このような教育方針が重要であるのは、キリスト、釈尊、アラー、(ヒンズー教の)ブラフマンたちが「道徳倫理が重要」と教えているからではありません。私たちが内面の価値を必要としているのは、心が落ち着いた状態にあるとき、脳の鎮静化、血流の安定化、睡眠や消化の活動の正常化が保たれることが、科学的な研究によって明らかにされているからです。興奮した精神状態は、健康を損ねる原因となります。考えなければならないのは、人間の幸福であり、肉体と精神の快適さなのです。このことから、人類の基本的な内面の価値は、不可欠なものであると言えます。子供たちに教えることができると思います。私は、教育システムで科学的な発見を基礎として、道徳倫理を教育に取り入れる必要がある、と提案しています。

── 私は、スイス在住のチベット人でケルサン・ツェリンと言います。両親は、猊下を神様のように崇めています。私を含め、国外に暮らす若い世代のチベット人にとっては、猊下は指導者ではありますが、ひとりの人間です。チベットの伝統、信仰、文化の将来に関する状況、そして、一般的な世代の違いについてはどうお考えになりますか。

ダライ・ラマ法王:

文化という言葉を使うときには、ふたつの分類を考える必要があると思います。まず、あまり重要ではないと分類される文化です。現代社会、または現代という時代において、ある種の生活様式はそれほど重要ではなくなったと思います。こういった文化は貴重なものではないので、保存するために努力を払う必要もないでしょう。それらは、仏法とは何も関係がないものと思います。いくつかの文化は時代遅れのものであり、もう使うこともなく、重要でもありません。

これとは別に、チベットには誠実さに根ざした文化というものがあります。例えば他者に否定的な考えを伝えてしまったとき、自分自身も不愉快な感情を覚えるでしょう。そのような感情は、肯定的な文化によるものと呼べるでしょう。チベット文化は、仏法、釈尊の教え、無限の利他主義、人間のみならず昆虫のような生物に対する慈悲心に溢れた態度の影響を受けています。このような教えのおかげで、多くのチベット人は動物に対して思いやりを示しています。動物に対して慈悲心を示すことのできる人間は、ほかの人間に対しても同じような態度で接するでしょう。これとは対照的に、動物に関心を示すことがない文化では、人間に対する態度にもそれほどの慈悲心は見られないはずです。それは、身体に何かが起きて、初めて感情が生まれるようなものです。しかし、釈尊の教え、そして、その他の宗教伝統には、他者、そして動物の利益を大切にする考えがあります。このような態度は、調和の精神、そして友好関係の精神の源となります。チベット文化は平和を重んじることを真髄とした慈悲心に溢れた文化だと思います。だからこそ、動物との愛情に満ちた関係も存在するのです。チベット人の生命に対する態度は、一般的に非常に肯定的です。そこから、他者、人類、動物、そして環境との平和的な関係が生まれるのです。チベット文化のある側面は、私たちの日常生活にとって非常に有益なものです。特に、困難な状況に直面するときには、このような文化が私たちに内面的な強さを与えてくれるでしょう。

一つ、例を挙げましょう。1958年、アムド地域のある僧院で起きた出来事です。多くの僧が中国軍によって刑務所に送られ、何人かは処刑されました。偉大な学者でもあった一人の僧は、処刑される直前に祈祷を行いました。その内容は大体こういうものでした。
「一切衆生のすべての苦しみ、困難を私自身が引き受けることができますように。私のすべての平和、そして幸福を他者に分け与えることができますように」
彼は、死を迎える直前でさえも、このような肯定的な態度を見せることができたのです。この僧は、このような態度を保つことで、死ぬ間際でも心の平和、そして慈悲心を間違いなく持つことができたのです。このような慈悲心の実践は、彼の命を救いはしませんでしたが、少なくとも、怒り、憎悪、または否定的な感情から彼を救ったのです。このような文化は、非常に有益であると思います。だからこそ、保存する価値もあるのです。

では、どのように保存していくべきでしょうか。仏教を学ぶことによって保存すべきだと思います。チベット人の中には仏教や信仰について考えるとき、仏教劇の仮面や憤怒の表情、また宗教的舞踏を直ちに思い浮かべる人がいるかもしれません。信仰とはそうしたものでありません。仏法とはそうしたものではありません。仏法とは現実の理解に基づいて思考を実践する、精神的なある種の方法のことを言うのです。仏教徒にとって、現実は四つの聖なる真実によって説明されます。苦しみを望む人はいないでしょう。誰もが幸福な人生を望み、誰もが困難を乗り越える権利を持っています。

では、困難はどのように乗り越えたらよいのでしょうか。それは、心の鍛錬によって乗り越えられるのです。その心の鍛錬が、仏法なのです。仏教徒は、創造主、神、釈尊に祈りを捧げるのではありません。釈尊とは教師なのです。彼の教えは、彼自身の経験に基づいています。釈尊、つまり釈迦牟尼仏陀は、私たちと同様に、衆生の一人でした。修行によってこの地ブッダガヤにおいて最終的な悟りを開いたのです。釈尊は悟りへの道を説きました。仮面でも、宗教的な舞踏でも、耳に鳴り響く銅鑼の演奏によってでもありません。(悟りとは)そのようなものによってではないのです。心静かな瞑想によって到達するのです。人里離れたところで瞑想を行ったミラレパが良い例です。ミラレパは、何年もの間、瞑想を行いました。これこそが、仏法を身に付ける真の方法です。チベット人は、何でも様式化してしまうきらいがあるようです。ここで重要な点は、チベット人は仏法を完全に把握しないまでも、基本的な内容を理解する必要があるということです。つまり、仏法を構成する基本とは何であるかを学ぶ必要があると思います。これにより、何らかの有益なことを受け取り、修行にも一層の熱が入ることでしょう。

私は、こうした態度こそがチベット文化を維持する適切な方法であると感じています。文化とは、主に社会、共同体と関係のあるものです。信仰は、個人にかかわるものです。この例は、チベット人が信仰するイスラム教が挙げられます。イスラム教であって仏教ではありませんが、この宗教を信仰する人々はチベット文化が存在するチベット社会で生活を送っています。そのため、これらのイスラム教徒の生活様式は、仏教徒の文化の影響を大きく受けているのです。このことから、一般的な仏教文化は、一般人の倫理と同等であると言ってよいと思います。

── 私はクロアチア人です。昨年、猊下にクロアチアをご訪問いただき、感謝しております。クロアチアとユーゴスラビアの地域では、過去数百年にわたり、三つの戦争がありました。また、過去数千年までさかのぼると、数え切れないほどの戦争がありました。一人の人間が他者を苦しめたいという否定的な感情に囚われないようにすることがいかに難しいか、充分噛み締めております。このような国に暮らす人間が、国家が背負うカルマを変えることはできるのでしょうか。それともほとんど不可能なことなのでしょうか。

ダライ・ラマ法王:

先ほども若干触れましたが、20世紀に世界は大きく変容したと思います。特に、20世紀の初頭と終わりに大きな変化が起きました。東欧諸国では、ある時期、人々の憎悪の感情が抑え込まれました。これは、自由がなかったせいです。自由がもたらされたときに、このような抑えつけられた不満、そして憎悪が噴き出したのです。不幸なことに、この時期、関係者の中に、過激な行動をとった人々がいました。その結果、流血の惨事を招くことになりました。

時代を経るに連れ、人間も成熟した存在になるのだと思います。戦争を例に挙げてみましょう。20世紀の初頭には、ある国家が近隣の国に戦争を宣言した場合、その国家のすべての国民は、愛国心の名のもと、疑うことなく喜んで戦闘に参加しました。しかし、20世紀の後半になると、このようなことは起こらなくなりました。その良い例は、ベトナム戦争です。アメリカ人が戦争に反対した結果、この戦争は突然終わりを告げました。このように、現実は変えられるのです。数年前、ヨーロッパ諸国がコソボで武力を行使したとき、戦争に参加した諸国の国民の多くが戦争に反対しました。現在、国家が戦争を宣言するとき、その国民は、「なぜ」という大きな疑問を投げかけるようになりました。これは、大きな変化です。ナチスやスターリンの統治下、また中国においても、一人の指導者が熟考することも調査することもなく、ほとんど盲信的にスローガンを叫んでいたようです。このようなことは、現在ではなくなりました。何かが起こった時、何か間違ったことが行われる時、報道機関が一般の人々に正確な情報を伝えることを私は確信しています。人々も疑問を表明する機会を持っています。これが今日の世界の状況であり、健全な兆候なのです。

また、二つの国が人種や信仰の違いによって困難に直面した時、対話を重ねる必要があると思います。違いは何なのか、問題は何なのかを理解する必要があります。こうしたことを実行することが重要です。非暴力を実施する最も効果的な方法は、和解の精神に基づく対話を持つことです。私は、この方法しかないと思っています。

── NDTVスター・ニュース局のマヘシュ・クマールです。二つ質問があります。最初の質問は、法王猊下はチベットの自治権について何度も意見を述べられているようですが、中国からは応答がないことに関してお聞きしたい。中国は大きな関心を見せていないようですが。第二の質問は、昨年、健康を害されたことから、後継者に関して大きな議論が沸きあがっていることについてです。法王猊下の健康には、現在まったく問題がないことは聞いております。後継者に関しては大きな関心が寄せられていますが、法王猊下自身は、この件について何か意見を持っておられますか。

ダライ・ラマ法王:

(笑)昨年の9月、中国政府からの肯定的な対応を受けて、代表団が北京へ派遣されました。(亡命政府情報国際関係省の事務次官補のソナム・N・ダグポを指しながら)彼も代表団の一員でした。言うまでもなく、私たちは常に対話を望んでいます。中国政府側から積極的な対応があった段階で、私たちはすでに訪問の準備を整えました。そして数名が北京を訪れ、会談を行うことができました。その場の雰囲気が肯定的なものであったのは幸運なことだと言えるでしょう。良い始まりだと思います。しかし、チベットの問題は非常に複雑なものであることは間違いありません。そのため、時間が必要です。最適な方法は、対話を持つことです。それも、顔と顔をつき合わせて話をすることです。これが最も効果的な方法です。チベットの現状は、チベットだけでなく中国にとっても望ましい状況でないことは明らかです。中国が一番求めていることは国家全体の安定と統一で、最優先すべき課題でもあります。この課題を解決してこそ、物質的により大きな繁栄を実現することができるのです。現在の状況は、新しい道路が作られて自動車が増え、ホテル、遊園地が続々と建設されていますが、水面下には脅威、それも大変深刻な脅威が潜んでいます。中国政府は、外国人、そして報道関係者を招待していますが、彼らが訪問できる場所には大きな制約があります。特に報道関係者や外国人が訪問する前には、中国当局は、「川が流れても橋は残る(話した内容は残るの意)」とチベット人に警告します。つまり、チベット人が外国人に会ったり話をしたりするときには気を付けるようにと警告しているのです。このようなことは日常茶飯事なのです。真実が明らかにされていないことが分かるでしょう。これは、安定した状態でも健全な状態でも全くありません。中国政府がチベットに本当の自治権を与えることが真の安定と統一をもたらす最高の方法なのです。この方法を実行することで、チベット人の要求が満たされるのです。その結果、より大きな安定と統一がもたらされるでしょう。私は、これが両国にとっての利益になると考えています。より多くの中国人、特に知識層と呼ばれる人たちや中国の実業家たちは、チベットに大きな関心を示しつつあります。彼らは、私の考えるチベット自治の構想を理解すると、私を全面的に支持してくれます。もちろん、時間はかかるでしょうが、より肯定的な段階が始まると確信しています。

第2の質問に答えましょう。チベットでは、ダライ・ラマ転生制度などの一つのイデオロギーやシステムを巡る争いは起きていません。1969年の初めに私は、ダライ・ラマ転生の制度の継続はチベット人の決定に委ねられるべきだ、と明言しています。チベット人の多くが古い制度など今世紀にはもはや重要ではないと考えるのなら、そうした制度は自ら姿を消すことになるということです。もし私の存命中にそのような状況になったなら、私は最後のダライ・ラマとなるでしょう。まったく問題ありません。チベット人がダライ・ラマ転生の制度の継続を望むのなら、ダライ・ラマを任命する方法がまた議論の的となるでしょうが(笑)。

── ご存命中にご自身が後継者を指名するおつもりはないということでしょうか。

ダライ・ラマ法王:

まず理解してほしいのは、このような制度の継続はチベット人に委ねられるということです。決定するのは、チベット人なのです。私とは無関係なことです。また、輪廻転生に関して、誰が転生者であるかという質問は、普通は前世が終わった後に人々が考えるものです。私はまだ生きていますよ(笑)。

実際、チベット人の闘争とは国家のための闘争であって、特定の世代、制度、イデオロギーのためのものではないし、仏教徒の闘いという訳でもありません。チベット人の闘争運動では、非仏教徒の共産主義者のチベット人も関係していました。彼らにとっては、チベット国家がもっとも大事な存在でした。共産主義のイデオロギーは二の次だったのです。チベット人の闘争は、制度、イデオロギー、仏法のために行われているのではありません。だからこそ、1960年代に次々とインドに亡命した当初から、我々チベット人は40年以上にわたり民主主義政策を推進してきました。2年前から、政治的指導者は、私が任命するのではなく、選挙によって選出されるようになりました。この制度が実現し、今や私は、理屈では半分引退したような身です。これが私の今の状況です。すべての主要な問題と最終的な決定は、選出された首脳陣に任せています。政治的事項は、個人でなく5年ごとに選挙で選出された首脳陣が扱うのです。私はこの状況にとても満足しています。

── 私は、ブリヤート共和国のテレビ会社の代表を務めております。ロシアの国内で釈尊の真正の法を普及することに貢献しておられるゲシェ・ジャムパ・ティンレーの教え子たちもこのカーラチャクラに大勢来ております。法王猊下が、このような素晴らしいゲシェを遣わしてくださったことに感謝しております。ブリヤート共和国、そしてロシアのその他の様々な地域では、多くの対立が見られます。例えば、現地の当局、仏教僧、学生、様々な人たちの間で対立が起こっています。良い環境であるとは言えません。これに関してアドバイスをいただけないでしょうか。ブリヤート共和国が存続するためには、どうしたらよいでしょうか。ブリヤート共和国に限定してこのような質問をしましたが、実際にはロシアのすべての仏教徒にとって非常に重要な質問だと思います。

ダライ・ラマ法王:

十分な情報なしに、コメントを述べるのは難しいですね。私には答えることができません。一般的な話ですが、主として自分の利益のために信仰を利用する人がいます。宗教ビジネスまで発達しているぐらいです(笑)。経典の販売も、菩提心ではなく、金銭的な利益を主要な目的として行われています。また、堕落、性的な虐待、収賄や職権乱用などが起こっています。このような問題に対しては、報道機関が一般人に、誤った行為であることを指し示すよう明確に報道すべきだと思います。仏教僧や仏教を学ぶ学生が仏教に誠実に従い、仏教を真摯に実践するなら、このような問題が発生する原因はなくなるでしょう。

── 台湾では、多くの人が法王猊下を信奉しています。法王猊下が台湾を再訪問されるのはいつ頃でしょうか。

ダライ・ラマ法王:

初めて台湾を訪問して以来、2年ごとに訪問を果たしたいと希望してきました。最初の訪問から1年後に2度目の訪問が実現しました。2003年の今年、台湾を再び訪れることになると思います。すでにご招待をいただいているので、3度目の訪問が実現するでしょう。

── パンチェン・ラマに関する新しい情報はありますか。

ダライ・ラマ法王:

パンチェン・ラマに関する新しいニュースはありません。幸運にも、彼はまだ生きているようです。パンチェン・ラマに関する問題の原因は、中国政府とチベット人との関係に存在する困難さにあると思います。パンチェン・ラマの問題は、これが原因で起こったのです。つまり、中国政府との関係が改善されたなら、パンチェン・ラマの問題を解決する方法も見つかると思います。

── アメリカのイラクに対する立場について、ご意見をお聞かせください。

ダライ・ラマ法王:

2001年9月11日に、あの悲劇的な状況が起こったとき、私はブッシュ大統領に書簡を送りました。私は、憂慮していること、そして悲劇の中で死亡した人たちに対する哀悼の言葉とともに、このような暴力的な悲劇に立ち向かう最善策は非暴力主義を貫くことであるという意見も記しました。結局、アフガニスタンにおいて軍事力が行使されました。しかし、あの当時、アフガニスタンの国民は、旧体制に満足していなかったことが後で明らかにされました。そのため、ある意味においては、あの戦争は解放のようなものとなりました。アフガニスタンの戦争は、少なくとも今までにないものだったと思います。それは、攻撃に際して、人権侵害はないか、一般市民に犠牲者はいないか、こうしたことに最も配慮していたからです。

イラクに関するあなたの質問に答えましょう。第一に、私は、イラクの国民が実際にどう考えているのかという情報を持っていません。繰り返しますが、私は暴力や戦争が起こらないことを望んでいます。他の方法を通じてでも、解決を実現することはできるはずです。しかし、大量破壊兵器の開発も良いことでは決してありません。このような開発を停止する方法もあるはずです。そうすれば、イラク国民、そして中東地域全体にとって、良い結果をもたらすことになると思います。この問題をどうやって対処したら良いのか、私自身にも分かりません。

しかし基本的に、私は常に戦争には反対です。なぜなら、戦争とは法的に正当化され組織化された暴力だと見なしているからです。暴力に反対する人間が、どうして法的に正当化され結集された暴力を支持することなどできましょうか。そのようなことは思いもよらないことです。戦争は古い概念であるとも思っています。人類、個人、社会、国家が程度の差こそあれ、他国に依存しない時代には、戦争という概念は重要性を帯びていました。敵国を破滅に追いやることは、自国の勝利を意味していました。今日、そのような状況はもはや存在しません。隣国を破滅に追いやることは、自国の破滅につながるのです。このことから、イラクを攻撃すれば、多くの国家、多くの国民に影響を与えることになるでしょう。戦争とは、殺人だけではなく、家々、工場施設などの破壊をも意味します。