チベットの郵便制度

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1959年、中国共産党に支配され現在のダライ・ラマ14世がインドに亡命するまで、チベットは完全に独立国だった。チベットは、独自の文化、言語、宗教、政治制度、貨幣、郵便制度、法律、生活習慣などを持ち、ネパール、モンゴル、英国とも条約を結んでいた。ダライ・ラマ13世の時代には、海外に留学生を派遣し、小型の水力発電所もあり、郵便、電信サービスを導入し、郵便切手や金銀で出来た貨幣や紙幣を発行している。チベットの郵便制度は1956年まで機能していたとされる。

チベット古代王国の時代


遡る7世紀、ソンツェン・ガンポ王がチベット全土を統治した後のチベットは、社会、経済、政治、軍備など全体において、最も繁栄した時代であった。また、チベットが西暦781年から848年までの67年間、チベットが敦煌を支配し、敦煌から毎年、チベット政府に税金が納められていた。敦煌にチベット軍隊が駐屯する他、一部のチベット人が住みついて、農業を営んでいたという記録が残っている。またその当時、チベットの首都ラサと敦煌間の郵便制度も充実していた記録が残っている。

チベットの首都ラサから敦煌までは数千キロあり、高い山々や河川、砂漠、森林に囲まれ、交通の不便さは想像に難くない。この時代、ラサと敦煌を結ぶ唯一の連絡方法は郵便であった。郵便にも伝言を持ち込む郵便人と現代のように文書を持ち込む郵便人の2種類があった。チベットに文字が現れる前の連絡方法は口伝のみだったが、文字ができた後は文書が中心に変わっていった。

主な手紙のやりとりは、王と大臣、王と将軍、王と地方の総督、大臣と大臣の間だけで行われ、民衆の間で手紙がやりとりされることはほとんどなかった。その頃、百キロごとに郵便局が設けられ、区間ごとに郵便局長と職員がいた。郵便局長は、郵便配達人の食料と交通用の馬と宿を準備した。郵便配達人は、手紙を失くすことなく正確に目的地に配達することが要求された。郵便配達の発展に伴って、地方と中央、王と将軍、貴族と貴族、寺院と寺院の連帯が強くなった。

郵便物に切手を貼る習慣がなかった時代、封筒は封をし、その上に溶けたロウを垂らし、個々の印鑑を押して郵送するのが一般的だった。郵便物を利用する役人や個人は、常に印鑑を所持する習慣があった。また、手紙を書き終えた後、サインの代わりに印鑑を押したりするので、印鑑の使用は盛んだった。印鑑は、銀や鉄製のものが多かった。もし押してあったロウがはがれたりした場合、郵便配達人が責任を負っていた。

英国、チベットに郵便局を開設

チベット語で、郵便局のことをダックカン、郵便物のことをダックイク、郵便箱のことをイクガム、郵便配達者のことをダックパと言う。チベットに英国の郵便制度が始めて導入されたのは、1903年である。この当時、インドを支配していた英国は、チベットに侵入し、チベットと英国の間で条約を結んだ。この英国のチベット侵入とともに、英国は重要地域に郵便局を設け、チベットとインド間の郵便に利用した。

1903年、英国は初めてチベット国内に郵便局を開設する。場所はインド国境近いカンパジョンであった。英国軍は、名ばかりのチベット軍を破り、1904年、チベットと英国間で条約を結んだ。条約後、英国は試験的にヤトゥク(Yatung)、パリジョン(Pharijong)、ギャンツェ(Gyantse)、ガルトク(Gartok)、ラサ(Lhasa)の区間に郵便局を設けた。ギャンツェとラサ間の郵便は、3日おきにに郵便物が回収された。

英国は、郵便配達のみならず、チュンビとギャンツェに電報機械も設置した。これは、チベットに持ち込まれた最初の電報機械であった。ラサとインド間に電報はもちろん、電話も使われた。ラサからカルカッタに手紙を送った場合、17日間で返事が届くほど郵便は発達した。1947年、インドが英国から独立した後、すべての権限はインド政府に渡されることになる。

中国、チベットに郵便局を開設


1909年10月、中国軍はチャムドでチベット軍隊を破り、1910年2月、チベット首都ラサに侵攻する。この時、ダライ・ラマ13世ははインドのダージリンに亡命を余儀なくされ、2年間、インドの来賓として滞在する。

中国はラサを拠点に2つの郵便ルートを開設した。1つは、首都ラサからシガツェ、ギャンツェ、パリジョン、ヤトゥク、シリグリからインドへ向かうルート。もう1つは、古代からあったシルクロードで、チャムド、バタン、タシェンル、ヤチョウフ、チェンテゥと2,000キロ近くに及ぶルートである。この2つの中で、前者の郵便ルートが便利で時間も短くてすむため、多く利用された。

1910年頃の中国による郵便制度は、能率が高く、送金まで可能になった。しかし1911年、中国国内で起きた辛亥革命によって混乱が起き、これを機会にチベット国内にいる中国軍は追われることになる。その時にチベットにあった郵便局などはすべて閉鎖され、首都ラサに在住していた中国人は、インド経由で追放されたのである。

チベット最初の郵便切手(1912〜1956年)


ダライ・ラマ13世は、2度にわたってモンゴルとインドに亡命した折、チベットが周囲国から立ち遅れていることに気づき、チベットの近代化に向けて努力した。英語学校を設立し、軍隊を組織し、郵便制度を敷き、通信機関の普及に努め、チベットの青少年を留学させたり、外国から教師や技術者を招いたりなどした。特に、ダライ・ラマ13世は、英国の郵便制度に大変関心を持ち、1912年、英国の郵便制度を取り入れることにした。その後、1912年12月、チベット独自の切手の製造と各区間に郵便局開設の着手に取り掛かった。切手印刷の機械がなかった時代で、切手製造用の木版を作った。シート1枚に12枚の切手が印刷された。これがチベットの歴史上、はじめて製造された切手である。この切手はロンドンで開かれた国際切手展示会に出展されたこともある。切手の色は、青、茶色、黄色、緑、赤で、形は4角である。切手の上にチベット語で「チベット郵便」、下の方に英語で「チベット」、雪山を背景に白い獅子の絵を刻み、左右にタム一、タムニ、タム三と切手の価値が記されていた。

これらの切手は、チベット国内においてのみ使用され、外国に手紙を送る場合、再度インドで切手を貼らなければなかった。なぜなら、当時、チベットは、国際郵便協会(Universal Postal Union)に入っておらず、正式の会員ではなかったからである。1959年、中国共産党がチベットを支配するまでは、この方法で外国に郵便物を送ることができた。
当時、チベットと交流のあった国々に送られた手紙には、チベットの切手を貼って郵送されたものが多く発見されている。

1912年発行の6枚切手シリーズ

チベットで最初に発行された切手は1912年にラサで発行されたものである。これらは、それぞれ印刷用として木版に刻まれた。木版は手彫りのため、さらに印刷された時期も異なったりするため、それぞれの切手は少しずつ違いがあり味わいがある。

1サンク切手が発見されたのは1950年である。郵便には使われなかったこの切手が、いかなる目的で使用されていたかについては未だにはっきりしない。しかし最近の調査によると、こうした切手は電報の目的で使用されていたらしい。

1914年発行された青の4タンカ切手と赤の8タンカ切手シリーズ

1914年発行の切手は2種類のみで、6枚つづりのシートとして印刷された。また、これらの木版は、以前に発行されていたものと同様に木版に手彫りのものである。これらも必要に応じて印刷された。

1933年発行の五枚つづりの切手シリーズ

これらの切手の印刷に要する木版は、12の部分からなっている。何度か印刷を重ねた後、版が古いインクによって目詰まりを起こすことから、版をきれいにして再びひとつに組み立てなおすため、版は分割されていた。しかし、各々の分割された版は手彫りであるため、各々の印刷ごとに細かい違いが生じ、アラビア数字の表記にもはっきりわかる違いが出た。

1933年発行版からミシン目が入った切手が登場するが、公式に使用されたのはごく限られた初期のものだけで、後に発行された切手については個人的な目的に利用された。

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