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チベットの現状/チベット人の基本的権利の迫害

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チベット人権・民主センター発行
「ヒューマンライツ・アップデイト」2000年9月号より

青海省チベット自治州


クンチョク(27歳)は、チューロン村出身である。7人家族で、牧畜を生業としている。クンチョクと4人の兄弟姉妹は学校に行ったことがない。街には1つだけ小学校があり、そこには3名の教師がいる。施設は教育のためには十分とはいえず、規律もきちんとしておらず、教師の能力も低いため、親たちは子供たちを学校に通わせるのを控えている。現在、チューロンの学校には20名ほどの生徒が在学しているが、地域には約80家族、およそ100人の学齢期の子供たちがいるものの学校の評判がそのようなので、ほとんどの子供たちが2,3年の内に自主的に退学してしまう。郡や県内にはもっと良い学校はあるのだが、これらの学校への入学許可を得るのは大変困難なことである。村の幹部の子供や裕福な家の者などだけが郡内の学校に行くことのできる幸運を手にしている。村の幹部の子供たちはさらに進学する。

毎年10月に家族一人あたり700元を税金として村に支払わなければならない。クンチョクの家族は、50頭のヤクと3頭の馬を飼っている。農牧民が税金を支払う十分なお金を持っていないときは、彼らは飼っている動物で支払うこととなる。この現金による税金支払いの方式は1999年に導入されたものだ。それ以前は、当局は税金として家畜を徴収していた。クンチョクの村では、少なくとも30家族が極端に貧困な状態にある。そしてそれらの家族は支払うためにたいてい借金をしている。

不妊化政策も大きな問題の一つである。3人目の子供が生まれると女性は避妊手術をされる。もともとチベットの遊牧民は多くの子供を産み、よほどの貧困でない限り子供が多いことは問題とされない。毎年、町当局は避妊手術をするべき女性の数の調査を行う。そして、それに従って不妊化治療を行う。村では毎年、およそ8〜9人の女性が強制的に避妊手術を受けさせられる。十分な技術を持った医者も無く、医療器具や方法もきちんとしていないために深刻な傷害を負うこともある。

1998年8月、3人の子供を産んだ28歳のヤンゾが避妊手術を受けた。手術後、彼女は病床につき、1ヶ月後に死亡した。多くの過疎地の村や郡のように、保健所さえ無いことは深刻な問題である。重症の場合、医療を受けるためには郡外へ行かなければならない。かなりの額のお金、たいていはこれまでの貯金すべてを使うこととなるのだ。

チベットにおいて中国政府が運営するほとんどの学校でそうあるように、郡での初等および中等学校の教育課程における思想教育は徹底している。まれなケースかもしれないが、音楽と中国語以外の学科はチベット語で教えられている。最近ダラムサラに来た19歳のイタム・カブは、ギュシャの小学校で3年学び、郡の中学校で2年間学んできた。郡内の町立小学校全部の中で、ギュシャの小学校は他のどこよりも上だと考えられている。良い教師とスタッフがそろっているからだ。合計およそ300名の生徒のうち、中国人の生徒はたったの約30名で、チベット人生徒の家はすべて農民か畜産業である。学校にはおよそ40名の教師がいて、その半数が中国人である。学費は年間500元で、一学期250元である。しかし生徒たちの宿泊施設はない。学校で教えられている科目には、中国語、チベット語、数学が含まれている。郡の中学校では、生徒は中国語とチベット語以外に十教科勉強しなくてはならない。歴史の授業では主に中華人民共和国の成立、文化大革命などが扱われ、チベットの歴史について説明することは許されていない。社会主義の概念とマルクス・エンゲルス主義とレーニン思想が政治の科目で扱われている。音楽は中国の文化・伝統として教えられる。

学校には約600人の生徒がいて、費用は入学金の300元に加えて、年間400元(1学期200元)かかる。600人の生徒のうち、チベット人生徒で郡から高校入試に受かったあと、入学手続きまでできるのは約20人だけである。何人かはチベット自治州の教員養成課程に進むが、他の者は故郷に戻って両親と共に働き、また次の年に挑戦する。イタムは2000年7月に国境からネパールへ逃げた。

農村地帯では、学校は農牧民の親たちに対して、さらに500元を入学金として、さらに2匹の羊を授業料として課金する。それに加えて両親は、当局に500グラムのバターとチーズを差し出し、子供たちのために学校の制服も買わなければならない。

学費が準備できないために、多くの貧しいチベット人の生徒は中途退学する。多くの数の小学校卒業者、中学校卒業者の職に就けない若者たちが広く蔓延する貧困層に加わることになる。こうした若者たちは他の村で職を探しながら、両親とともに農業か畜産業を営むことになる。

ケセのツォカ村全部で150世帯のチベット人家族の中でたった10人の子供たちが学校に通っている。ツォカ村には学校が無いが、ケセには小学校がある。学校までの距離と学費の問題のため、親たちは子供たちを学校に行かせる気にならないのである。他の子供たちは彼らの親たちと畑や家畜の世話をして働いている。チベットの遊牧民が住んでいるケセの4つの村には学校が無い。当局もこれら4つの村の子供たちのうち50名しか学校に通っていないことを認めている。

ティンレー(18歳)の家族は5人兄弟の12人家族である。両親はケセで牧畜を営んでおり、ヤク100頭と羊500頭を飼っている。一番上の兄以外は家族の中で学校に通った者はいない。両親はティンレーに勉強のためラサに行かせたが、彼は20日間ラサにいただけで、ネパールに逃げ出してしまった。

デチェンには、約40世帯が暮らしており皆農業を営んでいる。以前デチェンにいたツェリン・トゥンドゥプ(28歳)は、村を出て1ヵ月近くの旅の後、2000年9月にダラムサラに着いた。現在、両親と二人の弟妹と暮らしている。

デチェンでの一般的な住民の生活水準について、トゥンドゥプは自身の体験を引き合いに出している。収穫にかかる税のほか、飼料税として、一頭あたり100元が課せられた。この徴税システムでは、政府がある程度の金額を生産物の代金として支払うことになっていたが、その金額は市場の価格よりはるかに低いものだった。この金額は肥料の経費を補うことができ、農民にとっては必要な金額である。このような徴収システムは収穫の状態にかかわりなく行われ、家族数は農民の生活にとって負担となっていた。

そのため、多くの農民が薬草を集めたり、工事現場で働いたりというようなほかの仕事をしている。農民たちはこのような臨時の仕事で得たお金で市場でもっと高い価格の食料を買っているのだ。

デチェンでの医療費も、村民の収入とはかけ離れたものであり、村人が本来可能であるべき医療サービスを受けることができなくなっている。重症な場合は、村民はもっとお金のかかる郡の病院へ行かなければならない。「郡で医療を受けるには最低1000元を持っていなくてはならない」とトゥンドゥプは語る。しかし産児制限処置は、無料という。政府は夫婦あたりの子供の数を2人に制限している。3人目を産むと、500元の罰金である。たいてい、二人目の子供を産んだ後、母親は避妊するように求められる。こうした理由でデチェンでは毎年5、6人の女性が避妊処置を受ける。これは町・村の医者、二つの役所の長が入ったグループにより厳しく管理されている。

このグループは「子供が多いから貧しいのだ」という考えを村民に浸透させている。技術面で劣っている医師や医療従事者が行う不完全な手術による傷害例は多い。1977年に他の村のドルジェ・ドルマ(28歳)は不妊手術後、死亡した。

医療にかかる費用は高い。例えば、静脈注射は140元かかる。これは1家族の年間収入がおよそ2000元の地域でのことである。

デチェンにはおよそ70人の子供がいるが、小学校は1つしかない。教育システム、特に将来的な展望など全く見えない教育課程に高い学費などの問題が重なって、親たちは子供を学校に行かせることをためらってしまう。1年2,3人の子供しか中学校に合格しない。残りは農場の仕事に戻るのである。子供たちが結局また農民になって、親たちは努力が無駄に終わったことに気づく。

デチェンの住民はダライ・ラマの写真を所有することも、ダライ・ラマの写真のついたペンダントを首にかけることも禁じられてきた。トゥンドゥプは2000年7月に出て、ヒマラヤをおよそ1ヵ月歩いてネパールに着いた。

デュッカ尼僧院の尼僧ペマ・ドルジェ(29歳)は、故郷デカでの強制的な不妊治療や避妊について語っている。

デカでは、産児制限政策が1993年に導入され、すべての夫婦に対して子供は2人までと制限された。デカには約45世帯の農牧民の家族がいた。当局は命令に従わなかった場合の処置を明確にしていた。発令後、3人目を産んだときは2000元(300ドル)の罰金が、そしてさらに産んだときはより高い罰金が課せられたとドルジェは回想している。

3人目の子供にはその子が13歳になるまで毎年500元の罰金が課せられたという。罰金を払うお金の無い者には、保健所によって農産物や家畜が徴収された。ドルジェは、「中国の保健所は私たちの村を訪れ、すべての家族を計画的にチェックしていました。強制的な不妊手術(卵管切除手術)は、主に年2回、4月と8月に行われていました。当時およそ16人の不妊手術に「適格」で、私は当時お腹にいた3人目を堕胎するように言われ、妊娠したことにより、2000元が罰金として課されました。お金が無かったので、当局は家畜を徴収していきました。しかし、私は中絶を逃れて、密かに母の故郷ので出産したのです」

「私の故郷では、町には一つしか診療所がありませんでした。医療費が高かったため、多くの村人は家での治療薬をもらってました。ダライ・ラマ法王の写真を飾ってはいけないと厳しく指導されました。私たちの村長は中国人でした。私たちの村で商売をしている中国人商人もたくさんいました。中国人の子供たちは簡単に町の学校の入学許可を取れるのですが、チベット人の子供たちにとっては遥かに難しいことでした」

ドルジェの家族は6人で4人の子供のうち、彼女が1番上である。彼女には2人の弟と1人の妹がいる。ドルジェの妹には2人子供がいるが、これは産児制限の政策のためである。彼らは牧畜を生業としている。50頭のヤクと200頭のヤギがいるため、家畜所有の税金だけでなく、えさのための土地税も町の役人に支払わなければならない。一頭のヤクには6元、羊には5元、馬には8元である。その後、ドルジェは尼僧院へ入った。

シガツェ

シガツェのシェカの地方当局は、18歳以上のチベット人に対して道路の建設、灌漑工事、建物の建設などの強制労働をさせている。強制労働に従事する間に費やされる食事、旅費などはすべて労働者の負担で、当局は一切何も支給しなかったが、1998年以降、当局は労働者に対し1日6〜7元を支払い始めた。しかし、強制労働の期間中に自分たちの家族の割当が完成しなかった場合、1日あたり14元の罰金が課せられる。このような高額な罰金のため、貧しいチベットの村民は病気の時でも休むことができない。

また、物乞いに関するシェカのペルボル村での報告も届いている。シェカには9つの村落があり、およそチベット人家族85世帯、650名が暮らしている。ペルボル村の35家族(190名)は貧しく、家族を食べさせるために他の村の農民たちから穀物を借りたりもらったりしている。そのうちの幾人かはお金を返すためにラサまで物乞いに行く。地方当局は物乞いを禁止している。物乞いを「国家の恥であり不名誉な行為」と考えているからだ。そう考えながらも地方政府は、貧困者たちに数袋の穀物と数枚の衣類以外には援助を与えず、村からラサやシガツェへ生活のために行くことを禁じている。

1999年10月、郡当局は子供たちをインドの学校に行かせることを禁止する旨、発表した。インドに子供たちを行かせた場合、割当の土地と家畜の没収、厳しい罰金が課せられる。過去20年間、郡からは15人のチベット人学生しかシガツェとラサの高校の課程を終了していない。しかも、彼らは郡か町の官僚の子供たちである。シェカのすべての村には小学校があり、また郡には中学校もあり、農民の子供たちもそこで基本的な教育を受けることができる。しかし、貧しい農民層では、進学のための高額な経費を賄えないため、チベット人学生が中学校卒業までに退学してしまう率が大変高い。

ドルジェは農民に課せられている様々な税金について語ってくれた。ドルジェ自身はシェカ出身の農民である。ドルジェの家族は年間およそ500グラムの穀物を税として中国の地方政府に納めている。この徴税のやり方は、年間の穀物生産量に関わらず、すべての農民から徴収している。その地方の農民は主に穀物、豆、菜種を彼らの土地で栽培している。

1985年、1ヵ月のインド滞在の後、いったんチベットに帰ったものの、17歳の娘と一緒にネパールに逃れた。郡当局の命令と脅しに関わらず、ドルジェは娘をインドの学校に行かせることを望んでいる。2000年7月に彼はネパールに到着、娘を学校に入学させてチベットに帰るつもりでいるが、当局が彼の逃亡と娘が亡命政府の学校に入学していることを知ったなら土地と家畜が没収され高額の罰金を払わなければならないのではないかとドルジェは危惧している。