チベットの教育

チベット亡命政権パリ事務所広報誌「アクチュアリテ・ティベテンヌ」

チベットの教育事情

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過去30年間にわたる中国のチベット教育政策は、パンチェン・ラマ10世の左の言葉に集約されている。1988年に開かれた中国チベット学研究センターでの第1回会合で、パンチェン・ラマ10世は次のように述べている。

7世紀以来、1300年にもわたってうまく機能してきた国が、解放後にその言葉を失いました。たとえ立ち後れた国であっても、あるいは失政があっても、私たちは世界一海抜の高い高原に住み、唯一チベット語を使って暮らしてきました。仏教であれ美術工芸であれ天文学であれ、あるいは占星術や詩歌、論理学であれ、ありとあらゆるものがチベット語で著されてきました。行政庶務もチベット語でなされました。中国チベット学研究センターが設立されたとき、私は人民大会堂での挨拶で、チベット研究の土台となるのはチベットの宗教と文化だと語りました。これまでのところ、これら2つの分野は疎んじられています。
チベット文化を死滅させるのが党の最終目標だとするならば、それは賢明とは言えないように思います。チベット語ははたして存続するのでしょうか、それとも滅びるのでしょうか。

独立時期のチベットには、6,000以上の僧院・尼僧院があった。それらは同時に学校や大学として機能し、チベットの教育需要を満たしていた。それに加え、政府や個人が経営する在家用の学校もあった。中国政府にとって、こういった伝統的な教育施設は「迷信」の源泉であり、「封建的抑圧」を醸成する土壌に他ならない。そのため中国政府は、農村・遊牧地帯のチベット人に、チベット寺の代わりに自前で「民間学校」を創らせた。建設に際して、1銭の助成金も出なかった。

この「民間学校」は、中国の宣伝工作(プロパガンダ)にとって恰好の統計数字を提供する。

教育に関する統計を鵜呑みにしてはならない。中国の説明では、「チベット自治区」に2,500以上の小学校を開設したというが、その大部分はどう見ても学校と呼べる代物ではない。そもそも先生の多くは、初歩のチベット語さえろくに教えられないでいる。生徒たちは当然ながら学校がおもしろくない。実際、かなり多くの人民学校が閉鎖されているのである。

中国の公式刊行物である『西蔵研究』(チベットレビュー)(1986年第2号)では、3人の中国人社会学者が次のように認めている。

「(「チベット自治区」には)58の中学校しかない。そのなかで本当に中学と呼ぶことができるのは、わずかに13校である。また、チベットにはあわせて2,450の小学校があるが、政府の資金で作られたのは451校しかない。じつに2,000校以上が民間によって作られている。そのような学校はしっかりした財源もなく、設備も整っていない。教育水準に至っては完全にゼロか、そうでなくても限りなくゼロに近い。したがって、理科系の知識など望むべくもない。
現在、農牧業を営む家庭の9割が、中等教育を受けていない。この数字をみれば、高等教育や大学教育について語ることは、米がないのに人々にしっかり食べなさいと言うに等しい。就学年齢に達した子どもで小学校に通っている者は、わずか45%にすぎない。そのうち卒業して中学校に進学するのは、10.6%である。つまり、55%の子どもが初等教育さえ満足に受けられないでいる。
「チベット自治区」全体で9,000人余りの先生がいるが、とても必要人数には足りていない。しかも、そのうちの半数は十分な資格をもっていない。民族の平等は、この状況が改善されてはじめて現実のものになるといえよう。」

1959年〜1966年にかけて、中国政府は多くの「思想矯正」運動を展開し、チベットにおける支配力強化を狙った。教育のあるチベット人−僧侶、僧院長、ゲシェー[チベット仏教の最高学位を持つ人。博士]、学者など−が、刑務所や強制収容所に送り込まれた。資格をもつ教育者たちが獄中つながれていた間、学校は1人2人の無資格の先生によって運営されていた。

チベット亡命政権のメンバーで構成された、教育事情調査のための第3次視察代表団は、チベットには2,511の学校があると中国政府から聞かされた。団長のジェツン・ペマさんは、次のように語っている。

英国レプトン・スクールのジョン・ビリントン校長は、1988年にチベットを広く旅したときの様子を次のように報告している。

「とくに町から離れた地方へ行くと、たくさんの子どもが外で働いているのをよく見かける。草刈り、家畜番、ヤクのフン集め、家畜小屋の仕事……。聞くと、学校には行っていないという。理由はたいてい、学校がないからだ。悲しいことに、年輩の人の話では、以前は僧院に付随して学校があったのだが、僧院が破壊されたあと、小さな分校の類は再建されることがなかったという。人道から大きく離れた所で出会った年輩の遊牧民は、読み書きができた。なのに彼の孫は字を識(し)らず、また中国政府がそれに対して無策であることに、私はいつも憤りを覚える。」

大切なことは、チベットの教育施設によって誰が利益を得るのか、ということだ。

白書の記すところによると、中国政府は、チベットの教育の発展のために11億元を投じてきたという。これが真実であるかどうかは別にして、ひとつ明らかなのは、助成金の恩恵に1番浴しているのが中国人の生徒たちだということである。

「チベット自治区」のための教育支出の30〜50%が、シェンヤンという漢族の町にあるチベット民族学院に使われている。チベット人を対象とした学校のなかで、この大学の設備が1番充実している。中国人の教官と職員の多くは、チベットの侵略に加わった第18軍のかつての兵士だった。また学生の多くは、チベットその他に住む中国人幹部の子弟であった。

チベットの優れた学校は、ラサ、シガチェ、ギャンチェ、チャムド、シリン[西寧(シーニン)]、キグド、ダルツェド、デチェンなどの町にある。ただこれらの学校は、主として中国人幹部の子弟を対象としている。中国政府が都市部に建てたこの種の学校では、チベットと中国人でクラスが分かれており、資格のある先生が中国人クラスを担当した。また、食堂もふたつあって、ひとつが「ツァンパを食べる人の食堂」、もうひとつが「白米を食べる人の食堂」と言った。そのメニューは、中国人用の食堂のほうがずっと上等だった。

公式には、大学の入学枠のうちの一定数が、毎年チベット人に割り当てられていた。その学費にも、チベットの教育費用の1部が当てられた。それでも、定員の多くは中国人学生に占められているのが実状だ。大学に進学するには、高校を卒業し、倍率の高い入学試験に合格しなければならない。入学試験は中国語で行われるため、チベット人には不利である。そのためどうしても中国人に席を譲ってしまう。近年では、地元で受験に失敗した中国人学生が、チベットに来て再受験するという傾向も増えている。一般にチベットの教育水準は中国よりもずっと低いので、こういった学生でもチベット人となら十分に対抗でき、その結果入学できないチベット人が増えるのである。

1991年にチベットと中国を訪れた第1次オーストラリア人権代表団は、その報告のなかで次のように述べている。

「チベットの教育水準を上げようとする政府決定に私たち一同は注目していたが、多くのチベットの子どもたちは、いまだ正式な教育を受けていないようだ。ラサ地区のチベット人は、小中学校で少数の科目しか勉強する機会がないようである。なかには学校に行ったことがないという子や、経済的な理由から10歳で学校をやめてしまったという子もいた。」

ラサのチベット大学で英語を教えるタシ・ツェリン先生は、1986年2月20日に中国当局に提出した嘆願書に次のように記している。

1966年以降、漢化をすることがスローガンとなった。

チベット語は仏教のための言葉だとされ、学校で教えることが禁止された。1960年代のある時期には、僧尼や免状のある俗人教師のほとんど全員が教壇から去るように指示を受けた。チベット語の文法書『三十頌』は「迷信の書」というレッテルを貼られ、教育の場から遠ざけられた。その代わりに毛沢東語録や新聞が教科に組み入れられた。

子どもたちは、チベット仏教は迷信、チベットの因習は「古く青くさい考え」、チペット語は「無用で遅れた言葉」、そして昔のチベット社会は「きわめて後進、野蛮かつ差別に満ちていた」と教えられた。中国人の言うとおりだと同意する人々が進歩的だとされ、反対する人たちは反革命分子、反動主義者、階級の敵などと、さまざまな呼ぴ方をされた。当然ながら子どもたちの世代はみな、自分たちの文化や歴史、生活様式をまったく知らないまま育つことになる。

マルクス主義的な中国風の名前がチペット式の名前に取ってかわり、建物や道路、広場などに名付けられた。また、チベット人の多くが中国風に改名させられもした。ダライ・ラマの夏の離宮ノルブリンカは「人民公園」になった。チベット語は中国語の単語と言い回しによって徐々に侵食されていった。

「チベット自治区」のある中国人官吏は、『チベット民族特集 1965〜1985』という著書のなかで、チベット語の使用と学習を妨げる政策を批判的にこう書いている。

「チベット人の先生とチベット語翻訳のできる人間が、とても少なくなっている。その結果、チベット語と中国語の両方において、公文書の利用や発行がとても骨の折れるれる作業となった。チベット語を正しく読み書きできないチベット人役人がひじょうに多い。党の政策をチベット人に布告することもできない。」

中国チベット学研究センターの発行する冊子のなかで、青海民俗学院で講師を務めるサンガイは次のように書く。

「チベット語を使うと経済発展が阻害される、と考える人たちがいる。地方当局は中国語のみを教え、中国語のみを使うべきだとしてきた。この政策が始まってからもう何年にもなる。その結果、人々は中国語はおろか、チベット語も書けなくなった。そして経済は停滞した。」

中国当局は、チベットの教育基盤を改善したがらない。1985年以降、チベット人に対して、より高い教育を受けさせようと努力が払われてきた。しかしそうした結果、中国の大学や学校に送り込まれる学生が増えることになった。成績のよいチベット人の子どもはチベットの学校から引き抜かれ、中国の学校に入れられる。チベット人は当然これに対し、チベット文化の衰退を狙った政策だとして憤慨する。パンチェン・ラマ10世は、チベットの子どもを中国に送っても、彼らをチベットの文化土壌から遠ざけるだけだと言っている。

1985年にラサで英語の教師をしていたカトリーナ・バスは言う。

「この時期、中国では4,000人のチベット人が勉強していました。その子どもたちは、勉学という意味ではまぎれもなく恩恵を受けています。チベットではいまだ設備が不十分なので、チベット人に短期で学ばせるにには、これもひとつの有効な方法であるのかもしれません。
この政策は、1950年代に始められました。現在でも、中国に送られる子どもの数は減ることがなく、政府発表では、チベットに教育費を投じるかわり、1993年には中国に送る子どもの数を10,000人に増やす計画だといいます。
私たちの会ったチベット人の多くが、この政策は、なによりもチベット文化のアイデンティティーを脅かすものだと感じていました。中国からチベットに帰ってきたとき、チベットの伝統を理解せず、むしろ嘲笑する若者が増えています。チベット人のなかには、この政策は中国政府の陰謀であり、チベット文化の価値を内側から腐食させるのが狙いだという人もいます。」

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