カルマ・ゲレク・ユトク師の仏教基礎講座シリーズ

私は、ここに仏法について短い法話を載せることを嬉しく思っています。この記事が、興味をお持ちの読者の皆さんに、真に有意義で価値のある釈尊の尊い教えを理解するうえで助けとなるよう、心から望んでいます。仏教の教えの基本的要素を簡単な言葉で説明するよう努力致します。もちろん、これは私が受けた伝統、すなわちチベット仏教に基づいてお話し致します。

カルマ・ゲレク・ユトク(元日本事務所代表)

まずすべきこと/法について学べる資格のある師を見つける

ある人が法(ダルマ)に真の興味を持った時、まずすべきことは、法について学べる資格のある師を見つけることです。はじめの段階で適切な師を探し出すことが、最も重要なこととされています。その理由は納得できるものです。なぜなら、私たちを取り巻く日常でも、不適任でひどい教師によって生徒の一生をだめにしてしまうことがあるからです。ある教師がある生徒の一生をだめにする一方、不適任な法師(ダルマの師)は私たちの何百という生涯を簡単に滅ぼしていくといわれます。法(ダルマ)をマスターすることは、歴史や心理学のような一般の科目を学ぶこととはだいぶ違うのです。

こうした理由で、法師(サンスクリット語でグル:チベット語でラマ)の役割と働きは、仏教において大変重要と見なされ強調されています。特に高等仏教教義では、法師は1番大切な役割を担っているのです。まさにこういった教えから、有名なインド仏教の聖者ナロバ・マハーパンジッドが忠実なチベット人弟子のマルバ・ロツァワに次のことを告げたといわれています。

「師の存在以前には、ブッダという名前さえ存在しないのである」

大部分のチベット仏教における教義、祈りは、師をたたえるスタンザ(連)から始まります。最も基本で一般的な仏教修行である三宝(仏:ブッダ、法:ダルマ、僧:サンガ)の帰依にさえ、チベット語版の解釈では、4番目の宝「ラマ」が三宝の前に加えられています。それゆえ、全ての実践において、チベットでは「ラマ」と呼ばれる法師が、仏以上に尊重されているのです。これらのはっきりと目に見える修行を見て、専門的な知識にひどく欠ける昔の近代作家らが、風変わりにもチベット式の仏教を「ラマ教」と名付けたのです。もっと不思議なのは、日本を含むいくつかの国で、チベット仏教伝統の50歳にもなるこのあだ名を、正しく学術的な名称であるかのようにまだ使用していることです。全てのチベットの師は、この「ラマ教」という名称を大変嫌がっております。彼らが嫌う理由は、この名称が、深遠なる伝統について非常に誤った印象を作りあげたからに他なりません。その理由を挙げると、

  1. チベット仏教は、その内容と実践において完全で純粋なオリジナル仏教である。
  2. 法師の大切さについて強調される点は、ほとんど全ての高等仏教教義の中に明示されており、チベットの師(ラマ)が自らの利益のために後から作り出したものではない。
  3. 法師を強く信頼することを強調したからといって、三宝の信頼が二の次であるということではない。
  4. 三宝の対象以上に法師を優先的に崇拝するのは、それが分離した、または4つ目の宝の対象だからではなく、弟子にとって、法師は三宝が1つに合体した生身の代理人だからである。
  5. 法師に対して高い尊敬の念を与えるのは、彼個人より彼が担っている精神的役割とイメージがとても重要だからである。
  6. 法師に欠点を見出すことなく、完璧な存在として見るよう指示しているが、これは客観的事実とはほど遠く、本来、弟子の主観的自我を清めることを意図したものである。
  7. 師と弟子は厳粛な関係であるゆえに、法師を目指すものに対して出される戒めの内容は非常に厳しいものである。
  8. 人間社会のあらゆるレベルにおいて地位を濫用した重大な過失はごく一般的なものになり、チベットのラマたちも同様である。最近、多くの不適任でインチキなラマが増えている。彼らが自分たちの生活を営むために法(ダルマ)を口にしてあらゆることをなしている。

ある人を自分の師とするにあたって、慎重かつ注意深くやらなければなりません。急がずに、十分に時間をかけて、法師の行動、性質に常に注意をはらうことが、基本として挙げられます。師の候補となる人についての情報を信頼する人から聞くこと、関わりを持つ以前の彼のスピーチやダルマ説法を聞くこと、彼の日常の生活や行動をきちんと吟味すれば、これから自分の法師になろうとする者について知ることができます。大変立派な師として有名でそのような基本的調査の必要がないといった場合があります。このような場合、唯一のテストは、自分と師との間に過去において精神的なつながりがあったかどうかです。偉大な師であることは疑う余地はなくても、ある人には師としてふさわしくないこともしばしばありうるのです。これは、師にその資格がないということではありません。師に対して不必要で行過ぎた調査は避けるべきとされています。それは大変美味なものの中に刺激物を加えたり、煮過ぎてしまうようなものです。同様に、ある者が何の調査もなしに自分の精神的師にすることは、未知のもの、生のまま何かを口にするようなものです。

仏教の法師に対して定められた条件は、厳しいものです。ここで細かく述べることは不可能で、またその必要もないと思われますので、もっとも簡単な要約を下記に述べます。
その条件を有する法師は、

  1. 学識かつ経験を積んだダルマを体得した人であること。
  2. 正直で平静かつ謙虚な者。
  3. 最高の真理を会得し、それに従って生きる者。
  4. 生きとし生けるものに溢れる慈悲の心を持つ者。
  5. 精神的な師としての務めに常に励む者。

または、

  1. 法(ダルマ)においてふんだんな知識と経験を持っている者。
  2. この世の営利に執着を持たない者。
  3. 自分自身より他者の利益を大事にする者。
  4. あらゆる機会に対し、完全な慈悲心と誠実さを持つ者。
  5. ダルマ研究に忍耐強く勤勉な者。

もう1つは、

  1. 真の倫理を守っている者。
  2. 真の分別の知恵を守っている者。
  3. 真の利他主義を守っている者。

上記の条件に十分相当する師は、この世でどんなに貧しい身分でも、たぐいまれな精神的師と言えるのです。


(原文英語より和訳)

– 人間の命 最も尊い生命体 –

仏法(ブッダダルマ)の準備段階の教えの基本の1つに、人間の命の価値とその性質について深く考察し探究するということがあります。これは、近代において人間の生命の目的とは何かと問うことと一致するものであるように聞こえます。しかし、この2つが追求するものはそれぞれ物質と精神という相対するものが論点となっているのです。仏法では、まず私たちが人生の目的を決める前に、私たちがこの世で授かった命が、本当に何か価値のあるものであるのかどうかを深く考え探求すべきであると説かれています。そして、もし価値のあるものであるならば、私たちはいかにしてそれを自分たちに有利となるようベストを尽くすことができるのでしょうか。学術的もしくは宗教的な諸研究には、人間の生命は運命として意図することがあるのかどうかということを追求し偉大な価値観を持ったものがありますが、ここでは触れないことにします。

仏法によると、人間としての命は価値があるだけでなく、非常に尊いものなのです。そのように考えられる理由は、他でもなくそのまれでユニークな性質によります。あらゆる人間の性質において最も偉大なことは、知性の力―考える、知る、そして分析する、があります。ここでもう1つ大事なことを付け加えなければなりません。それは、人間の命の尊さは絶対的なものではないということです。その尊さは、生命の真の価値を知り、出来る限りベストを尽くすよう専心する人にのみ与えられるのです。不幸にも多くの場合、人間の存在は明らかに諸悪の根源や悪の道具となります。もちろん、この場合、非難の対象となるものは人間の命そのものではなく、その命を扱う者にあるのです。

仏法では、第1に人間として生を受けることは極めて難しいことであり、それを得ることは最も価値のあることと説いています。例えば人口の問題について考えてみましょう。これは大変現実的で真剣な問題です。しかし、人類の数と魚類の数を比べて、それは比較にならないことが簡単にわかるでしょう。ですから、限定された生命の総数で人類の割合が大きく占めるという観念、事実、人間として生まれてくることは大して難しいことではないというような考え、これらを打ち消すものです。数だけを考えても、人間としての生を獲得することは不可能に近いことは確かなのです。

それではちょっと、私たちのこの小さな惑星、地球に限定してみましょう。この地球上に存在する生物の数を推測する研究は昔も現代もなされていません。私が思うには、私たちはある限定された数字よりもむしろ「無限の」「無数の」「無限に近い」などで表すほうが適しているかもしれません。それでもここで仮に、この地球上の生物の数は1万兆であると想定してみましょう。そして全人類の人口も倍にして百億と想定しましょう。すなわち、100万の生物の数に対して1が人間の数になるのです。言いかえれば、この地球上の生物の総計において人間の数は100万分の1なのです。ゆえに、ランダムにこの地球上で人間として生まれてくる確率は100万分の1になります。

いずれにせよ、人間としての命を確保することの難しさは、その数字ではなくその条件と原因にあると言われています。大多数の生き物は常に悪しき考えと行いに明け暮れ、来世に下界で苦しみ生きていくことの原因と条件を確実に作っていると言われています。人間としての生命体は天上界(上界)の1部分であり、この世界の生き物の中で善き考えと行為を持つことが可能な、自然が生み出した唯一の存在なのです。しばしば仏法は、後悔を招く根本となる状況を認識し言及しています。その状況とは全ての生き物は幸せを願い、苦しみを望まないにもかかわらず、結果として大部分は実際に幸せを招くことを打ち消し、苦しみを招くようなことを行っている有様です。言いかえれば、人間は幸せを望むが、いかにして幸せをもたらすかを知らなければ、苦しみを望まないが、いかにしてその苦しみを乗り越えられるかを知らないのです。仏法の総括的で唯一の使命とは、悟りと智慧の道に至る教えを通して、この根本的無知の状況を覆すことにあるのです。上記に述べた事柄を考えると、人間がまれで且つ尊い生命体であるという真実については、疑いの余地は無いはずです。

何故、人間が並外れて尊いのか、その究極的な理由は、ただ単に類まれであるからではなく、あらゆる生き物に対して、どのようにして悟りと解放への偉大なる使命の土台となり、その担い手となるかにかかっているからです。仏法を学ぶことで無知を悟りへ、悪しき行いを善き行いへ、そして人間の生命体としてふさわしい土台をなすもの(命)とその媒体(自己)を通してのみ、苦しみを幸せへと変えることを始めることができ、発展させ、そして完成させることができるのです。それはすなわち、私たちの長い精神的旅(spiritual journey)の過程において、荒々しい海を渡る船であり、山頂を制覇するためのベースキャンプのようなものです。私たちはこの一生の間、限られたこの宝にベストを尽くすべきではないでしょうか。

現在の人生を些細な目的のためだけに費やすことは、天才に家の下働きだけに従事させたり、高価な白檀の木を薪にしてしまうような愚かな行為に例えられます。

人生を最良に活用することとは、仏法によれば、あらゆる悪しき考えと行いを捨てることであり、善き行いと徳を積み重ね、この人類の時代の仏(ブッダ)である釈尊によって説かれた4つの聖なる真理(四聖諦 ししょうたい)を修行し、動揺しやすい自分の心を完全に平常心にすることにあります。この4つの聖なる真理のうちの最初の2つを正しく修行することで、来世でのより高い生まれ変わりを確実のものとし、3つめを正しく修行することで徐々に悟りと解脱に到達するのです。これでいかに人間の命が偉大なる価値を持つものか、おわかりいただけたでしょう。


(原文英語より和訳)

– 死 根本的で重大な問題について考える –

前回は人の命がいかに大切か話をしました。本当に自分にとって有益である大切さが分かれば、それがある限り、私たちは最大限に利用し、それに害を及ぼそうとするものから守ります。命において、最も不安定、または弱いのが、死です。一般的には、死は考えたり話題にすることではない、とされています。死について私たちが出来ることは何もないとか、死について考えても得るものは何もない、というのなら、それは明らかに賢明なアプローチといえるでしょう。

しかし、仏法(ダルマ)においてそれは全く正反対になります。仏法においては、死とは、私たちの日常生活の中で重要な問題として考えるべきなのです。さらに仏法によれば、常に死を意識することで、人生がほとんどといっていいほど変わるのです。例えば、無知から自覚へ、錯覚から理解へ、困惑からから幸福へ、束縛から自由へと変化します。別の表現に置きかえると、死を意識することは崇高で永遠に不死の状態につながるということなのです。それゆえ、私たちの日常の中で死を考えることは、最も価値のある精神修行である、と言われているのです。

このテーマについて仏法の教義を論じる前に、一般的で世俗の観点から、死に関するいくつかの基本的な疑問をちょっと考えてみましょう。一般の人は誰でも死を忌み嫌い恐れます。全ての人は、遅かれ早かれ死に直面することはよく知っています。こうした状況において、確実に自分の死が訪れることを考えるようになったり、それに対して準備することがあるのかどうか考えてみたりすることが、より確実で賢明であることは疑う余地がありません。通常の生活においてでさえ、疫病や災害のようなどんなトラブルでも身近にせまっていることが分かれば、私たちは皆、普段どうすべきかということを考え、全力を尽くしてそういったトラブルに備えます。それは、差し迫った不測の事態に備えるという人類の良識です。死が人生最大の痛みとして一般に恐れられているので、死について考え準備することには、多くの理由と必要性があるのです。

「死についての思索」は、仏法の教義では、広範で相当の数に上ります。ここで詳細に論じることは不可能ですので、それらの本質の概略を以下に述べることにしましょう。

その1

ここでの「死についての思索」とは、各人が死の状態を記憶しじっくり観察しヴィジュアル化するという一定の思索の流れに焦点をあてるものです。この思索の対象となるものは、死の本質や過程よりむしろ、主に死そのものの現象です。例えば、亡くなった子どもの個性など特におぼえていないのに、その子どものことを鮮明に思い出すようなことです。もっとシンプルに言うと、自分の死が確実なものであると心の中で強く思い出し、且つ、その緊急事態に対して強い関心をもつようにすることです。その思索における最高の形とは、人がすぐに必ず死ぬ場合と同じように、強烈なものであるべきものなのです。そういう意味で、今まさに死刑が執行されようとしている人間の精神状態に比較できるかもしれません。生きている間にそうした強烈な「死についての思索」の一定の流れを発展させると、人はじっとしてはいられません。まるで頭に火がついたように感じ行動するでしょう。

その2

「死についての思索」を発展させなかったり、別の言葉で言いかえれば、生涯、死について考えないことによって引き起こされる危険性や損失は思いもよらないほど大きいものである、と言われています。「私は絶対に死なない」という自分を偽った考えは、一般の人々の心の中に自然に起こります。良識ある人間が、「自分はいつかは死ぬのだ」ということを知り認識しているとしても、常にその人の心の中では「今日は死なないだろう」と信じているのです。この偽った考えは、実際に最期の瞬間まで続くと言われています。この「今日」という日は、各人の最大限の人生の長さと等しいので、「今日は死なない」という考えは、その内容や結果において、「自分は死なないだろう」という考え方と同じなのです。それゆえ、この根本から誤った考え方が、私たちを永久に生の幻想へと導いているのです。生きていくことに備える過程で、私たちは自分自身をあらゆる有害な考え方や行為で束縛し、それによって何千もの人生を思いもよらない苦しみの世界へと陥れさせているのです。これ以上の危険と損失があるでしょうか。

その3

反対に、もし私たちが毎日死について考え、前述した「死に対する思索」を強烈に発展させようと努力するなら、そこから得られる価値と恩恵は多大なものである、と言われています。例えば、ある人が数日後に死ぬことがわかっている場合、彼は生涯を通じて蓄えてきたことが全て無駄であったと強く感じることでしょう。同様に、ある人が「死についての思索」に強く心を動かされ追求すれば、利害関係や富といった世俗的なものがいかに無駄なことか気付くはずです。そうして、死や苦痛の恐怖におののき、人は今の状況から自分を救い出してくれる人やものを必死になって求めるのです。そして、彼は仏法と出会い、永遠の至上の幸福へ向かうのです。これ以上の価値と恩恵が他に得られるでしょうか。その理由として、釈尊は、説法の中で以下のことをおっしゃっています。
「無常と死について思索することは、思索の中でも最上のものである。なぜなら、その思索は、存在の三つの領域―煩悩、無知、利己心―の全てを排除するからである」

その4

「死についての思索」は、死に対する恐怖心を鍛えること(陶冶とうや)によってもたらされます。しかし死に対する恐怖心とは、死ぬ時にその人にとって大切なものを失うことで認識されるものではありません。「死についての思索」での過程を通して鍛えられる恐怖心とは、避けられない存在である死の性質に対するものです。しかし、この最終対象―死に対する恐怖心はすぐに対処できるものではないので、過去の悪行を正すことができず、あるいは十分な善行を積むことができずに、死に対して恐怖をおぼえることになるのです。しかし、死ぬ前に過去の悪行を正し善行を積むことは可能なので、最期の瞬間に恐怖から逃れることができます。

その5

実際、どのようにして死を瞑想し実践するのかと言いますと、通常、仏教の教義、特にチベット仏教の教えでは、12の教えに従って、精神修行することを指摘しています。
そこには3つの基本と9つの動機というものがあります。その3つの基本とは、以下の通りです。

  1. 死は確実に訪れる、と考える
  2. 死はいつでも訪れる、と考える
  3. 死ぬ時には救いは仏法以外にない、と考える

 

これら3つの基本は、いくつかの動機とリファレンス(参照)によって考察、確認されます。ここで紹介することはできませんが、3つの基本となる真理は全く明らかなことです。しかし客観的な事実としてそれらを知ることは、教えの意味でも目的でもありません。動物園でライオンを眺めることと、誰もいない場所でライオンに出くわすこととは、全く異なる体験でしょう。これらの教えによってこれから何をしようとしているのかというと、私たちの心の方向性とプランを変えることです。それはつまり、生きるために備えていたことから、死ぬために備えることへと心を変化させることです。3つの基本のうち、2つめの「私はいつでも死ぬ可能性がある」、これは日常の実践の中心となる教えである、と言われています。


(原文英語より和訳)

– 転生と化身の仏教的概念 –

転生と化身の概念は、仏教と共に始まったものではありません。2587年前に仏教教義が出現する以前に、いくつかの主だった東洋の宗教的伝統の教義に含まれていました。そのような古来の宗教伝統で我々チベット人が知っていた最も良い例は、釈尊(紀元前623~544年)の出現以前にインドに在ったものでしょう。それらのインド古来の宗教的伝統は、現在では総括してヒンズー教、ヒンディズムと呼ばれています。ヒンズー教と仏教とは基本的に2つの全く異なった宗教ですが、教義的にも倫理的にも幾分の基本的な原理を共有しています。そのような共通の見解の1つに、転生論を信じることがあります。ヒンズー教、仏教、双方の教義においても、化身は単に、転生論をさらに拡大したものです。

仏教における転生の概念は、単なる信仰などといったものではありません。その原則の上に、仏教の教えの全ての意図と体系が説明されなくてはならない極めて重大な教義なのです。言い換えると、苦、解脱、涅槃といった基本的な仏教の教えのどれも、転生の連鎖という土台無くしては説明され得ないのです。故に、転生の現象を把握しないうちに、様々な複雑で高度な行を実践しようとすることは、宗教劇を演じる役者にとても似通うことと言えるでしょう。この比較は、形式上のことではなく、事実なのです。なぜなら、釈尊が、3つの最も深刻な誤りの見解として、三宝の帰依、カルマの法則、転生の概念を信じないことであるとしたほどの重大な問題だからです。

これらの理由のために、少なくともチベット仏教では、転生の現象の真実に踏み込んだ徹底的な研究は、仏教教義全体の学習と修行において中心となります。しかしながら、外界的な性質を持つ対象ではないため、論理的推論によらなければ、転生を分析し立証することはできません。実際、解脱、悟り(仏性)、無我といった基本的な仏教概念の多くは、論理的推論を通して研究され確立されなければなりません。

仏教用語では、知覚されないことを論理的な推測を通して知る過程を比量(ひりょう 注1)と呼びます。そのため、転生の現象を知る事に興味を持つ人々は、まず、この推論のプロセスに親しんでおかなければいけません。その仏教の比量の形式は、いくらか西洋の3段論法に似ているように見えます。しかし、2つの体系が同じであると言えば、誤りでしょう。私の知る限り、仏教の推論方法は、はるかに洗練されており、決まりきった答えを引き出すものではありません。それによると、結論を引き出す決定的な力となるのは、理性を使うことではなく、心で推測することにあります。

正当な推論方法のシンプルな例として、煙があることで火を推測することです。しかし、どこであろうとも煙を見るたびに、火を推測するのは誤りでしょう。このことをはっきりと物語っているのは、煙が火の正統的な理由となるには、確かな方法で手がかりを心で掴まなければ、煙で火があると結論付けることはできないことです。ある人は、どのようにしてチベット仏教の論理学を修得するのだろうと思うかもしれません。これは、チベット仏教で5つの主要科目の1つとして、因明(いんみょう 注2)と呼ばれているものです。チベット仏教の教育では、この科目を鍵として主要な仏教教義の錠を開けなければならないとされています。故に、この因明の重要性は異論の余地の無いものです。

話を転生に戻すことにして、煙から火を推測するようには容易にはいきません。似通った論法が用いられているとはいえ、その不明瞭な性質のため、はるかに複雑なものになっています。このような短い文章の類では、転生現象の真実性を確立した伝統的な論拠の詳細を述べ得ません。それでも、入り組んだ論理の過程の大筋を掴むことは難しくありません。私は、読者の皆さんがここにあげる略説でこの伝統的信念の基本的な認識を得ることができればと思います。

個人の命や誕生について語る場合、その人を認識するものとなるのは、その個人の身体と心です。今の身体が今の生涯のみとあることを皆よく知っています。今の身体を過去生から持ってきたのでもなく、また来世に持って行けるものでもないことは明白です。ある人の幾多の生涯を通じて継続する何かがあるとすれば、それはその人の心ということになります。仏教における心とは、意識や自覚の特性を持つものとされています。 転生の問題があがった背景にある基本的な主張とは、「心は永続する」というものでした。

過去生と来世についての伝統的理論の実際の陳述は、以下のようなものです。

  1. 全ての心は、その前の人生の心を引き継いでいる。新しく懐胎された子は、すでに1つの心を持っている。よって、新しく懐胎された子の心は、以前の心から続いているものである。
  2. 執着ある人々の全ての心は、次の生の心に続く。死の床にある平凡な人間の心は、執着心を伴っているものだ。よって、息を引きとろうとしている平凡な人間の心は、そのまま次の心へと続くのである。

このように、新しく懐胎された子供の心が以前の心より続いているものだと確証できれば、その子供の過去生の存在を立証できることになります。同じように、亡くなりつつある平凡な人間の心が次の心へと続くことが確証できれば、その人物の来世の存在を立証できることになるのです。

けれども、ここで難しい点は、最終的な結論を導かないことです。代わりに、まず、その根拠の真実性を立証しています。3つの概括的なものと、2つの詳細な立証されるべき主張があります。

  1. 心ではない現象は心に変化しえない
  2. 人の意識の本流は永続する
  3. 意識は個的存在と離れることなく留まる
  4. 全ての心は以前の生の心より引き継がれたものである
  5. 全ての平凡な人々の心は次の心へと続く

適切な論理により転生を確信する前に、転生を信じる心を発展させることができます。しかし、そのような信仰は浅く不安定であると言われています。論理を把握して発展した信仰は、堅固で確かなものであると言われます。だからこそ、釈尊は理解を通じて信仰を発達させることを強調されたのです。

すでに述べましたように、化身の概念は、一般的な転生の概念が高度化あるいは特殊化したもの以上の何物でもないのです。教義上では、化身と転生、この2つの用語は同義であるともとれるでしょう。しかし、慣例では、両者の間にはいくらかの差異があります。主な違いは、死につつある人が自身の意思と選択によって次の誕生を決めるか否ということです。自身の意思と選択によって誕生する人が、化身と呼ばれるのです。このように、化身は1種の特殊な転生なのです。

ほとんどの生き物は、自分の意思や選択によってではなく、過去の行為(カルマ)の力によって誕生します。この一般的な種類の誕生を単に転生というのです。もちろん、現実には常にこの区分けの通りではありません。多くの偉大な化身が一般的な転生者として現れ、多くの普通の転生者も化身者の名をとりました。つまり、これらの名称にはそれほどの意味はないのです。仏教徒の観点から何が重要かと言うと、全ての生けるものを最も尊敬する導師や愛する人の真の化身であると見なすことにあるのです。

注1)比量

推論。推知論。推理。ただし論証の意味をも含めている。仏教の論理学は、それを「自分のための推理」(推論的思考)と「他人のための推理」(論証)とに分けている。三量(3つの認識方法)の1つ。我々が1つの事象によって他の事象を正しく推知すること。サンスクリット語で、anumana。

注2)因明

理由(因)の学問(明)という意。仏教の論理学。五明の1つ。その形式は、論証する命題としての宗と、その成立理由である因と、例証としての宗と因の関係を明らかにする喩とから成る。この中で因が最も重要であるから因明と称する。インド一般に行われていた論理学のことを、仏教側で「因明」と呼んだが、中国・日本では仏教の論理学を「因明」と呼ぶに至った。サンスクリット語で、pramana。

(東京書籍・「仏教語大辞典」より)

(原文英語より和訳)

チベット仏教

チベットについて

チベットの文化と習慣