ダライ・ラマ法王

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ダライ・ラマ法王とチベットの軌跡

転生者の発見

幼少時のダライ・ラマ法王14世

現在のダライ・ラマ法王14世は、1935年7月6日、チベット東北部アムド地方のタクツェルという小村で貧しい農家の子として生まれた。この活発で可愛いらしい2歳の幼児ラモ・トゥンドゥプが、先代ダライ・ラマ13世の生まれ変わりと認められたのである。

1939年、4歳になった生まれ変わりの子供は、チベットの首都ラサへ迎えられる。翌年には、ダライ・ラマ14世として正式に即位し、ポタラ宮の玉座に着く。その際、名前もテンジン・ギャツォと改めた。

ダライ・ラマ法王は、6歳のときから僧院教育を受け始め、24歳のとき仏教哲学の最終試験を受けた。この試験は、毎年チベット暦の正月に実施される祈願大祭の期間中、ラサのチョカン寺で行われるもので、これに優秀な成績をもって合格。ゲシェー・ララムパという仏教哲学最高位の博士号を取得することになる。
当時のチベット政府は、仏教の非暴力思想に基づき、必要最小限の軍備しか持たず、第2次世界大戦でも厳正中立を守っていたが、アジア文化の1つの極みとして繁栄を続けていたチベットの歴史は、俄かに暗転する。

共産中国のチベット侵入、15歳の国家元首

ダライ・ラマ法王13世

第2次世界大戦後、チベットに隣接する中国で国共内戦が勃発し、それはチベットにとって、未曾有の悲惨な運命の幕開けを告げるものとなる。1949年、内戦に勝利を収めた共産党の人民解放軍が自国内を掌握すると同時に、隣国チベットへ侵攻を開始すると、いまだ弱冠15歳の法王は、法王としての政治上の全権限を一身に帯びるよう朝野をあげて懇願され、1950年から国家指導者としての役割を担うことになる。1954年、法王は北京へ赴き、毛沢東をはじめとする中国の指導者らと和平交渉を行う。しかし、中国との国境地帯にあたるチベット東部は、たちまち人民解放軍によって席巻され、数多くのチベット人が命を奪われた。ダライ・ラマ法王は、和平交渉に懸命の努力を重ねてきたものの、圧倒的軍事力を誇る中国側の強硬姿勢の前に、全ては空しい結果となる。

民族蜂起と法王のインド亡命

扮装してインドへと亡命途上の法王

そして1959年3月10日、ダライ・ラマ法王の身を案じたラサ市民が一斉蜂起し中国軍が容赦無き弾圧を加えた。法王は中国軍の撤退とチベットの主権、独立を訴え、これに対して、中国側はさらに徹底的な弾圧を加え、ついに法王は国外亡命を余儀なくされる。法王の後に続いて、約10万人のチベット人たちが祖国を離れ、インドやネパールなどへ亡命した。それは、チベット人としての民族のアイデンティティーを守り抜き、自由の地で本物のチベット文化を保存し、他日を期そうという悲願を込めての逃避行であった。

チベット亡命政権樹立、和平への道を模索

ダライ・ラマ法王は、インド北部ヒマチャルプラデシ州のダラムサラに本拠を構え、その地でチベット亡命政権を樹立した。その後、チベット本土は中国によって完全に占領され、過酷な植民地支配のもとで、チベット人たちは筆舌に尽くし難い苦難を味わってきた。そうした状況は、基本的に今日でも変わりない、人民解放軍のチベット侵攻以来、およそ120万のチベット人が命を奪われたが、それはチベットの全人口の5分の1にも相当する数である。そして、6,000ヶ所以上もの仏教寺院が破壊されるなど、中国はチベットの民族文化を根こそぎ抹殺しようとしてきたのである。

中国の侵略を受けた後、法王は国連に対して、チベット問題の平和的解決を訴え続けている。1959年1961年1965年の3回、チベットの人権と民族自決権を尊重するよう中国に求めた決議が、国連総会の場で採択された。

1963年、法王は、民主主義に立脚したチベット憲法の草案を公表した。そして1992年1月、「将来におけるチベットの政治形態の指針と憲法の基本要点」という文書を発表し、その中で法王は、チベットが本当の自由を回復した暁には法王としての伝統的政治権限を手放し、新政府の公的な地位にも就かない旨を表明した。これは、真の民主主義の実現へ向けた、法王の並々ならぬ決意の現れに他ならない。

1987年、悪化の一途を辿るチベット情勢の平和的解決へ向けた第1歩として、法王は五項目和平プランを提案した。その中で、チベット全土をアジア内陸部における平和の聖域とする「アヒンサー(非暴力)地帯」の構想が、明らかにされている。この聖域においては、生きとし生けるもの全てが調和のうちに生存できるようにし、環境の保全も図ってゆこう…というものである。しかし、中国側はこれまでのところ、法王が提唱してきた様々な提案に対し、前向きな反応を示していない。