ダライ・ラマ法王

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ダライ・ラマ14世の第二回ゲルク派会議におけるシュクデンに関する演説

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2000年12月6日
ダラムサラ

本日は、ジャムゴン・ギャルワ(訳注:ゲルク派の創始者ツォンカパ大師)の後継者であるガンデン座主が参加されています。セラ、デプン、ガンデン、タシルンポの寺院、ギュトゥーおよびギュメーの密教道場を代表する皆さん、および、それ以外のさまざまなゲルク派の寺院を代表する僧院長および、元僧院長も参加されています。ただし、マナリの代表の方はお越しになれなかったようですが…(笑)。いずれにしても、私も皆さんと共に、ゲルク派会議に参加することができました。ゲルク派の皆さんの国際会議の開催にかかるご尽力、および、教えを守り、発展させていこうとするとする日ごろの努力は賞賛に値します。この困難な任務に取り組む皆様に感謝します。この会議の重要性に鑑み、これから数日のあいだは、見かけにこだわった空虚な儀礼は排して、物事の本質にせまるようにしましょう。われわれは過去の会議でも経験を積んでいます。経験を生かして、直面している問題に集中し、どうやったら現状を改善できるかということを、注意深さを失わないように、考えていきましょう。この場が重要問題を討議するための開かれた場所となり、会議が成功裏に終わることを確信しています。

ツォンカパ大師がチベットに生きていた時代からおよそ600年が経過しました。大師の時代の300年ほど前には、ディパンカラ・アティーシャが偉大なるカダム派を創始しました。ツォンカパ大師はこのカダム派の教えを基盤とし、グヒヤサマージャ(秘密集会)、ヘルカ・チャクラサンヴァラ(最勝楽)、およびヤマーンタカ(金剛怖畏)の三大本尊の行法による密教修行を重視する教えを創始しました。

静かで統御の行き届いた外見と
ヨーガの二つの階梯につながる内的態度を教え
顕教と密教を相互に補完的な道として位置づける
征服者ロサン・ダクパ(訳注:ツォンカパ大師のこと)のこの教えに
栄えあらんことを

そして、この修行を通じて達成される内容について、次のような詩があります。

征服者ロサン・タクパがはじめられた
般若乗に説かれた空の思想(顕教)と
真言乗の実践を通じて得られる法悦(密教)、
そして、84,000の経典の本質に栄えあれ

ツォンカパ大師の始められた教えは、実に見事に完璧なものでした。学習・思索・瞑想を、バランス良く偏ることなく組み合わせており、配合の妙にその素晴らしさがあります。主要経典に対する詳細な研究という点では、サキャ派とゲルク派が双璧といえます。厳密には、ゲルク派の伝統は、サキャ派から派生したものです。しかし、ゲルク派の経典注釈は、最も深遠な、最良のものといえるでしょう。チベットのすべての仏教の宗派は、空性の理解を目的とした修行に加え、縁起(=事象の相互依存性)の理解を重要視しています。しかし、空性と縁起の二つの概念の関係の論理整合性という点では、ツォンカパ大師の教えは卓越しています。ゾクチェン(ニンマ派の学説)の伝統は、統一された世界観の一部として、空性を特別に取り扱っています。無上ヨーガタントラも、空性に特別の位置を与えています。しかしながら、ツォンカパ大師の教えは、縁起(事象の相互依存性)とは、具体的にはどのようなことを指し、それが、どのようにして究極的に空性につながっていくのかを明快に説明しています。なにも、ツォンカパ大師が特別に想像力に富んでいて、新しい考えを創造した、ということではありません。ゲルク派の伝統を継ぐ後世の人々は、これから新しい考えを付け加えていくことも可能でしょう。しかし、ツォンカパ大師がなさったのは、そういうことではありませんでした。大師が説いていることは、ブッダパリタの著作や、入中論、プラサンナパダなどの中論の注釈書に書いてあることと同じです。ツォンカパ大師は、それらの著作で説かれている考え方を整理して明快に提示したのであり、異なる考え方を提示したわけではありません。チャンドラキルティ、ブッダパリタ、そして彼らの師であるナーガルジュナ(龍樹)がもし生きてここにいたら、ツォンカパ大師による物事の説明に、十分、満足して、心から同意したに違いありません。その中観に関する著作は、ナーガルジュナ、アリヤデーヴァ、そしてとりわけ、チャンドラキルティの思想の本質をまとめたものにほかなりません。経典の原本、たとえば、プラサンナダなどは、非常に分厚いものです。それに比べると、ツォンカパ大師の注釈書はすっきりしています。ボリュームが薄いからといって、内容が貧弱なわけではなく、要約は正確です。ですから、われわれがブッダパリタの著作を読むと、あたかも、ツォンカパ大師の著作を読んでいるような感じにとらわれるのです。これは、ツォンカパ大師ならではの特徴であり、他には見られないものです。大師の書かれた宝行論の教え Golden Rosary of Eloquence などを読むと、インドの般若波羅蜜(=智恵の完成)の注釈の伝統を深く理解し、それを要約する能力が光っています。ツォンカパ大師の著作は非常に深遠であり、この領域に深く分け入ろうとする者にとってかけがえのないものであります。ゲルク派の伝統の核にあるのが、このツォンカパ大師の著作なのです。

一方、密教の側には、グヒヤサマージャ(秘密集会タントラ)、ヘルカ・チャクラサンヴァラ(最勝楽)、およびヤマーンタカ(金剛怖畏)の三大経典があり、カーラチャクラ(時輪タントラ)があります。このなかで、中心的位置を占めるのが、グヒヤサマージャです。ゲルク派には、『動いていれば、それはグヒヤサマージャであり、止まっていても、グヒヤサマージャである。瞑想するときは、グヒヤサマージャについて瞑想する』ということわざがあります。経典の勉強をしていようが、修行をしていようが、グヒヤサマージャこそがその対象なのです。ツォンカパ大師の著作全集18巻のうち、5巻はグヒヤサマージャに割かれています。このグヒヤサマージャの実践の伝統は、ツォンカパ大師とその一番弟子であるイェツン・シェラブ・センゲを通じて伝えられ、ゲルク派でも圧倒的に重要な場所を占めています。大師は、初期カダム派の教えを基礎として、グヒヤサマージャの研究と実践を強調することで、ゲルク派の教えを完成しました。グヒヤサマージャのおかげで、ゲルク派が今日に至るまで600年間、伝統を保ち、古の霊的指導者の教えが後世に伝えられ、今日まで続いているということは、非常に喜ばしいことであります。

では、ゲルク派の学問の場として、伝統の継承に重要な役割を果たしてきた機関を見ていきましょう。中央チベットにおいて最重要なのは、セラ、デプン、ガンデン、およびタシルンポの寺院です。アムド(そしてカム)においては、タシーキル寺が主要なものです。クンブン寺も、主要な学問センターの一つで、学者を輩出したものの、その後、衰退してしまいました。モンゴルも、ツォンカパの思想を研究し、広めようとする多くの学者を輩出しました。ツォンカパ大師の時代からしばらくして、ダライ・ラマ五世(1617-1682)は、デプン寺のゲシェ(仏教哲学博士)に就任しています。デプン寺のゲシェが、国家権力も掌握していたということは、とりもなおさず、ゲルク派の伝統にとって、著しく有利なことでした(笑)。ダライ・ラマ五世自身、ゾクチェン(ニンマ派)とサキャ派の Non-Ascertainment within Appearance and Emptiness の両方の修行を行いましたが、後半生の修行の主眼はゾクチェンだったようです。ダライ・ラマ五世自身、ゲルク派、とりわけ、デプン寺院に大きな貢献をしました。ダライ・ラマ五世の摂政だったサンギェ・ギャツォは、セラ寺院をテコ入れしたいと望んでいたようですが、時間切れになってしまったようです。かわいそうなセラ寺院(笑)。

いずれにしても、多くの寺院でゲルク派の教えが伝えられ、学者が生まれ、伝統は引き継がれました。これらの寺院で学んでいた僧侶の数ですが、デプン寺では7,700人程度だったといわれていますが、実際には、8,000人ほどが学んでいたと考えられます。ロスリン寺の旧管長のペマ・ギャルツェンによれば、ロスリン寺だけで、5,000人ほどの僧侶が在籍していたそうです。しかし、その5000人のうち、本当に学問していたのは、1,000人程度だったといいます。では、残りの4,000人は何をしていたかといえば、ただ、そこらへんをうろうろして時間を潰していたようです。ペマ・ギャルツェンは、綱紀粛正し、教育を強化しましたが、それでも、本気で学問に取り組んでいたのは、1,000人足らずであったといいます。亡命後、こうした僧侶の中で、ブッサ(訳注:インドアッサム州の地名。チベット動乱後、最初のインド国内の亡命チベット人キャンプのあった場所)に集まってきたのは、どれくらいでしょう?大変、悲しいことではありますが、最後のほんの少しの生き残りしか、集まってきませんでした。しかし、亡命後もペマ・ギャルツェンは、しっかり自分の手で物事を成し遂げようとしました。たとえば、ドゥギャル・シュクデンに対する彼の対処法を見てもわかります。当時、ドルギャルの信仰に反対の声を上げたのは、彼だけでした。私でさえ、当時はドルギャル供養を行ってきたのです。リン・リンポチェも申し立てを行ったものの、その行動はためらいがちなものでした。ティジャン・リンポチェは、個人的には特殊なドルギャル信仰を実践していましたし、ゾン・リンポチェも、やはり、ドルギャルと関わっていました。ペマ・ギャルツェンだけが、はっきりとドルギャルに反対していたのです。当時、ペマ・ギャルツェンには右腕がいました。たしか、その者は、シャルツェの僧院長で、名前をゲン・カルーと言いました。当時、ブッサの僧侶たちは、哀れな状態にありました。多くの者が病気を持っていました。しばらくして、私が立て直しを提案しました。建て直しをしようとした者もいますし、何もしない者もいました。状況は、本当にひどいものでした。ブッサは、遠く離れた場所にあって、周囲の環境は厳しく、寝泊りをする施設は実に貧弱でした。困難な状況のなかで人々はがんばりました。誰もが、ダライ・ラマを信仰し、信頼していたのです。私自身はブッサには赴きませんでした。リンポチェ、あなたは行かれましたよね。可哀想な、老年の宗教担当大臣が、ブッサをたびたび訪れていました。誰もが一生懸命働きましたが、結局、居住地をさらに南に移すことになりました。僧侶以外の人々もよく働きました。居住地がそれなりに機能するようになり、肉体労働の必要性が低下すると、僧侶たちは、怠け始めました(笑)。というか、僧侶たちは、最初のうちは、過酷な野良仕事をしていました。ゴマンという場所で、アムド出身の僧侶と会ったことがあります。彼は、心と意識について問答をしていました。純粋なアムド弁で大変、巧みに自分の意見を述べていました。後に、彼は、トラクターの運転手になり、還俗したと言います。なんと勿体ないことでしょう!当時、おそらく、彼はたった一人のアムド人でした。その後、彼と再会することはなく、消息はわかりません。当時は、宗教的訓練を積んだ人間も、つらい農作業に従事しなければなりませんでした。その後、徐々に状況は良くなり、人々の生活は楽になりました。ようやく、新たにやってきた僧侶を受け入れ、彼らが真剣に学問をするための場所が用意されたのです。ほとんどの新しい僧侶は、チベットから来た人々でした。新しくやってきた僧侶によって、僧院の規模は拡大し、新しい僧侶は学問の面でも大きな貢献をしました。

さて、(チベットの各宗派という形での)仏教、およびボン教は、徐々に世界中に広がりつつあります。そのなかで、ゲルク派もまた、チベット以外の地域で大きな勢力となっています。今となれば、それは、良いことだったといえます。ゲシェ・ゾパは、外国で仏教を布教した最初のチベット僧侶の一人でした。彼は、外国でも、常に法衣をまとい、僧侶らしく振る舞いました。彼はしっかりとした信念を持っており、外国に行ってもそれは変わりませんでした。とても、素晴らしいことです。ゲシェ・ゾパをはじめとする布教僧は、仏教の教え、とくにツォンカパ大師の伝統に対し、大いなる貢献をしています。「仏陀の直弟子のように静かで統御の行き届いた外的姿勢」と先ほど申し上げましたが、彼は、純粋な道徳的規律を守り続けました。一方、内的な面では彼は、菩提心とマントラ修行の二つの段階に進んでいましたが、そのことに関しては、まあ、深入りするのはやめましょう(笑い)。重要なことは、彼をはじめとする僧侶が保ち続けた純粋な道徳規律とは、仏教伝統の基礎そのものであり、根本だということです。自らの行為を通じ、彼らは仏教に多いに貢献し、その教えを守り、広めていくことに役立ちました。彼らの行いと貢献に、感謝の意を表します。

われわれが亡命生活を始めて41年になります。亡命地で生まれた第一世代のほとんどが、子供の親となり、中年に近づこうとしています。時の流れとは、そういうものです。ところで、時計の針は本当に前に進んでいるでしょうか?電池が切れてしまっていたら?先ほどは何時だったのでしょう。先ほど6時でしたが、もしかしたら今もまだ、6時のままかもしれません。もし、私たちの命もそういうものだとしたら、物事は昔のままでしょう。しかし、そうではありません。人生は進んでいき、物事は変わり続けます。ゲン・ペマ・ギャルツェン、ゲン・ニマ・リンポチェなどの、チベット仏教の昔の偉大な僧侶や学究者のことを考えて見ましょう。彼らは、われわれと同じ時代を生きておらず、われわれの記憶の中に生きているに過ぎません。彼らの人となりや、親切な心について思いを馳せることはできますが、それには限界があります。では、彼らに敬意を払うためにわれわれにできる最上のことは何かというと、残されたものを守り、伝えていくことなのです。皆さんがこの仕事をしっかりやって下さることを希望します。われわれは、経験から学び、どこに過ちがあり、何が正されるべきか、加えられるべきか、取り除かれるべきかを見極めなければなりません。

次に、ドゥギャルの問題です。昔から、こういうことを言う人たちがいます――「ダライ・ラマの命令だから従わなければならない」、と。しかし、単にその人が権威を持っているから、その言葉に従う、ということでしたら、私は困ります。お釈迦様の教えも、仏教徒は、盲目的に信じてはならないと習っています。自分で調べてみた結果、それが丸ごと賛成できる意見であって初めて、それに従うべきなのです。もし、そうでない場合には、教えの意味を解釈してみる必要があります。ですから、私がなぜそうしたことを言うのか、理由を考えないまま、ただそれに従うのは、仏教の精神、とりわけ、大乗の教えからは逸脱しているように思われます。問題は、人々が、私の教えを守っているかどうか、ということだけではありません。教えの理由について考えてみて下さい。私は、これまで見過ごされてきたことについて、注意を喚起しました。人々は、私がそうした理由を理解しなければなりません。

ここで、よりよく分かっていただくため、この問題に関する詩の引用を行います。この一連の問題は、われわれが360年、もしかしたら、400年近くも引きずっている問題で、今起きた、新しい問題ではありません。ここで、私は、日ごろ申していることに、今日は、少し付け加えをしたいと思います。ギュンタン・リンポチェ(本名トパ・ドン・デルマ)の著作(意味ある賞賛)に、次のような一節があります。

父の伝統が素晴らしいものなのに
今、それは、黒い塵で汚されている
多くの偽りの宗教的指導者が
人々を嘆きと災厄の淵に追いやっている

ギュンタン・リンポチェ(1762-1823)はどの時代の人でしょう?彼は、カチェン・イェシェ・ギャルツェン(1713-1793、ダライ・ラマ八世の個人教師だった人)の同時代人です。

ギュンタン・リンポチェは、コンチョク・ジグメ・ワンポ(1728-1791)の弟子で、コンチョク・ジグメ・ワンポは、チャンキャ・ロルパイ・ドルジェ(1717-1786)の弟子でした。この詩は、どういう意味のことを言っているのでしょう?父(ツォンカパ大師)の伝統は素晴らしいと言っています。これは、カギュ派、サキャ派、ニンマ派の伝統ではなく、ずばりゲルク派の伝統のことを指しています。当時のゲルク派の指導者は、チャンキャ・ロルパイ・ドルジェ、ギュンタン・リンポチェ、ギャチョック・ケルサン・ギャツォと言った人々でした。

では、こうした偉大な宗教指導者のいた時代、人々が道を踏み外すような方向に導いていると非難された人物は誰だったのでしょう?私が知りたかったのは、そのことです。当時は、ミワンの問題(1727-8年にチベットで起きた内乱のこと)がちょうど解決したころでした。当時、レルン・シャイパイ・ドルジェという人物がいました。彼は、ゲルク派に属する、デプン寺の僧侶でした。彼は、あるとき、密教修行で一定のレベルに達し、寺内の弟子に、規則に反した修行を教えはじめ、これを原因として腐敗が始まりました。これを批判したのは、プチョグ・ンガワン・ジャンパ(1682-1762、ダライラマ八世のもう一人の師)だったと思います。ブチョグ・ンガワン・ジャンパは、自分が達した修行のレベルを省みず、非常に尊大に振舞っている者がいる、と指摘しました。また、そのせいで、多くの僧侶が本来、関わるべきでないものとかかわり、汚されている、と非難しました。これは、(プチョグの)伝記に出てくるくだりです。これは、おそらく、ドルギャル信仰の一連の出来事を指しているのではないかと思います。

もしくは、別の状況を指している可能性もあります。プチョグの書いたことと、トリチェン・ンガワン・チョグデン(第54代ガンデン寺座主で、ダライ・ラマ七世の教師。ドゥギャル信仰に反対で、ガンデン寺からドルギャル信仰を排除した)の行動とのかかわりです。チャンキャ・ロルパイ・ドルジェはドルギャルという名前を残しているし、カチェン・イェシェ・ギャルツェンもまた、この新しい悪霊のことに触れています。これらを総合すると、これは、(パンチェン・ラマが座主である)タシルンポ寺にドゥギャルが浸透していたことを指しているのかもしれません。このことは、しっかり調べて確認するべきことですが、こうした話が聞ける古い世代の人々が少なくなってしまった今、確かめるのは困難です。パンチェン・パルデン・イェシェ(パンチェン・ラマ六世。1738-1780)は、ダライ・ラマ七世(1708-1757)の弟子でした。このパルデン・イェシェがトリチェン・ンガワン・チョグデンと直接の関係があったかどうかはわかりませんが、後者の行動を見ると、当時、ドルギャルの信仰はすでに存在していました。また、若き日のパンチェン・テンパイ・ワンチュク(パンチェンラマ八世。1855-1882)が、タシルンポ寺で学んでいたころ、(ドルギャルと関連あると目された)家が壊された、という話があります。確実なことは、そのころには、ドルギャルの信仰は、タシルンポ寺に達していたということです。パンチェン・パルデン・イェシェの時代には、おそらく、ドルギャル信仰はなかったと考えられます。カチェン・イェシェ・ギャルツェンのコメントがはじめてでてくるのは、パンチェン・テンパイ・ニマ(パンチェン・ラマ七世。1782-1853)が若かったころです。彼はタシルンポ寺の、人々を迷わす精霊崇拝について触れています。その悪霊が、(ゲルク派の他の守護神である)ベグツェや、パルデン・ラモのことを指しているとは、とても思えません。プラーマ神については、パンチェンラマ七世が、この神に対する信仰儀式について多くのことを書き残していることから考えても、ここで批判されている悪霊ではないと思われます。守護神のベグツェは、ジョウォ・チンガと同一物であるかどうかについては諸説ありますが、ベグツェ信仰は、ダライ・ラマ一世(1391-1474)の時代からありました。ですから、カチェン・イエシェ・ギャルテンが触れているのは、やはりドルギャルのことだという結論に至るのです。

では、ドルギャル信仰が発祥したのはいつでしょうか?カチェン・イェシェ・ギャルツェンによれば、腐敗はタシルンポ寺ではじまったようですが、プチョグ・ンガワン・ジャンパによれば、発祥はガンデン寺のようです。しかし、どの寺でも設立当初は精霊崇拝のような儀式は全くなかったようです。ツォンカパ大師の(誕生日の)守護神は、マチェン・ポムラと言いますが、この守護神に対する信仰でさえ、ガンデン寺内では認められず、外で行われていました。こうした信仰が徐々に浸透するようになったのは、もっと時代が下ってからです。プチョグ・ンガワン・ジャンパは、ドルギャルへの全面的信仰が拡がり、ガンデン寺での教育にさまざまな問題が発生していると書いています。トリチェン・ンガワン・チョグデンとチャンキャ・ロルパイ・ドルジェの伝記にも、ドゥギャルへの言及があります。ですから、ギュンタン・リンポチェの言葉も、こうしたことすべてを指しているのかもしれません。このことは、今後の歴史的検証が必要ですが、おそらく、そう考えるのが適当であると思われます。

主要な寺院でのドルギャル信仰を広め、(かつ、それをドルギャル信仰の正当化に利用したのは)、パボンカ・リンポチェ(1878-1941)だという人がいます。これも、検証が必要でしょう。パボンカがドルギャル信仰を実践していたのは、正確にはいつの時代だったでしょうか?彼は晩年にそれを行ったのでしょうか?おそらく、それは、前半生の出来事だったということが、たとえば、ティジャン・リンポチェ(1900-1981)の伝記を読むとわかります。伝記によると、ティジャンは、とても若いころ、(チベットの)チュサンというところにいて、そこで、パボンカ・リンポチェが、秘密のハヤグリヴァ(馬首観音)の静修を受けていた、と書いています。パボンカ・リンポチェは、この修行の後、沢山の赤い丸薬を配っていたといいます。つまり、前半生に、パボンカは、宗派を超えた修行をしていたということです。彼は、サンワ・ギャチェンの教えも取り入れ、金剛杵の灌頂(dojoi bumsang empowerment)も行っていました。金剛杵は純粋にニンマ派の修行法です。サンワ・ギャチェンは、ニンマ派ともゲルク派ともつかない教えです。いずれにしても、パボンカ・リンポチェが、その前半生に、宗派にこだわらないでさまざまな教えを学んでいたことは確かです。それが、ドルギャルにかかわりはじめてから、ニンマ派の教えを否定するようになったのです。知りたいのは、ドルギャルとのかかわりが、彼の功績にどのような影響を与えているか、ということです。それは、より良い影響を与えたのでしょうか、それとも悪い影響を?考えてみましょう。その前半生において、 パボンカ・リンポチェはダライ・ラマ十三世から大いに期待され、特別な地位を与えられていました。だが、そののち、批判されるようになりました。ダライ・ラマ十三世が彼を批判したのは、嫉妬のためだ、という人もいます。だが、問題の根源にドルギャルがあったのは明らかです。パボンカのドルギャルとの関わりは、彼の業績の助けとなったのか、あるいは、妨げとなったのか?これが、一番大切なポイントです。パボンカの弟子のうち、その正当な後継者とみなされるのは、ティジャン・リンポチェです。この二人の師がドルギャル信仰を推進したのは事実なのだから、ドルギャルの重要性には疑いがなく、その二人が認めた信仰を自らも信仰するのが筋である、という人もいます。こうした人たちの言うことを聞いていると、この二人が生前に行った仕事のうち、ドルギャル信仰がもっとも重要なもので、彼らの主要な貢献はドゥギャル信仰であるかのような印象を受けます。実際は、それは事実に反するどころか、滑稽な考え方です。パボンカやティジャンのラムリムに少しでも触れたら、彼らがゲルク派の伝統の正当な後継者であるとことがわかるでしょう。私自身、ティジャン・リンポチェのラムリムから多くの教えを受けました。彼は、他には真似のできない卓越した説法をしました。密教においても、彼は特に、ヘルカ・チャクラサンヴァラの師であり、偉大な密教修行者であるということは、一般に認められています。ですから、これら二人の師の真の功績と貢献は、ラムリム、ロジョン、および、へルカの修行に習熟していたことであり、ドゥギャル信仰は、ほんの二義的なものに過ぎないのです。

ここでもう一つの問題があります。たとえ、過去の偉大な宗教指導者が行ってきたことでも、それが、総合的に見て教えの精神に反することであれば、捨て去るべきだということです。これは、ツォンカパ大師は、「師から個人的な教えを受けるの目的は、(仏教の教えを、導師の言葉によって)消化しやすく、適切に要約したものを受け取るためだ」、と繰り返し言い、この点を強調しています。主要経典の本質を歪曲することは許されません。私が繰り返し申し上げたいのはこの点です。師から個人的に教えを受けた結果、独自の教えを作り上げる者がいます。仏教の教えをまとめあげるにあたって、ナーガルジュナ(龍樹)や、アーサンガ、そしてその弟子たちよりも優れた者がいるでしょうか?もし、そうだとして、正統な教えとは異なる、独特の教えがあるのだ、という者がいるとしたら、われわれは警戒し、慎重になる必要があります。師から直接教えを受ける伝統は、われわれが主要な経典を理解するのを助けるために存在します。仏陀の教えの裏にある真意を理解する助けでなければならないのであり、その教えに反するものであったり、傷つけるものであってはなりません。こうしたことは、もう一度、深く考えてみる必要があります。師から教えを受ける伝授の伝統は、物事の核心に迫り、教えの意味を理解するのを助けるために存在します。たとえば、アビサマヤランカラ(現観荘厳論)は、あくまで、仏陀の教えの意味の深さを測る助けとなるものであり、仏陀の教えと異なる教えを示したものではないのです。

私のヴァジュラヨギーニ(瑜伽空行母)に対する考え方もこのことと関係しています。ツォンカパ大師は、密かにこれを実践しており、それが彼の行の主要なものだった、という人がいますが、私はそれを否定します。それは、私がヴァジュラヨギーニを信仰していないという意味でありません。私自身、ヘルカ・チャクラサンヴァラのマンダラ修行を行いますし、その有効性を認めています。とんでもなくものすごいというわけではありませんが、そこには、何かがあります。たとえば、身体の内なる炎の取り扱いなど、深遠な行も含まれています。ミラレパ(1052-1135 カギュ派の宗祖)は、それを道の基本と考え、とくに内なる炎を重視しました。内なる炎の瞑想は、無上ヨーガタントラの修行のすべてに出てきます。視覚化と、マントラを唱えた後の内なる炎の取り扱いについては特別な章が割かれていて、その重要さが伺われます。ヴァジュラヨギーニに出てきますし、それ以外の階梯でも出てくる、深遠な修行です。私自身、それを信仰し、実践しています。しかし、人々のなかには、ヴァジュラヨギーニは、本当はサキャ派の修行法ではないという人がいるのです。その人々は、では、ツォンカパ大師とその弟子たちの著作のどこにヴァジュラヨギーニのことが出てくるのかを、明言できません。彼らは、他の密教修行法を一つ一つ、シラミツブシにつぶしていった後で、結論として、ヴァジュラヨギーニは、大師の主要な修行方法だったが、それを秘密に行っていた、という理屈を作ったというわけです。実際には、ヴァジュラヨギーニはサキャ派の修行なのです。伝統的な声明であるラマチョッパの中に、Yi ong lang tsoi and Drib drel lhen kye(=ヴァジュラヨギーニ修行への言及)というくだりがあるのも不思議ですが、ここで深く立ち入るのはやめましょう。ですが、一体、いつ、誰が、こうした文言をラマチョッパに入れたのかは、興味深いことです。こうしたことについては、日本在住の研究者であるツルティム・ケサンが始めた研究例がありますが、ちゃんと調査する必要があるのです。同様に、ドルギャルに、『征服者、文殊菩薩(ツォンカパ大師のこと)の教えの守護尊』というあだ名をつけたのは誰か、ということを調べてみる必要があります。こうしたことがなされたのは、どんな状況においてだったのでしょう? それは、権威のある宗教指導者が、しっかりとした手続きを踏まえて、命令を出して、任命したものなのでしょうか?それがパボンカだったとは思えません。彼は、このような手続きは踏みませんでした。それどころか、ドルギャルからの攻撃を受けて、彼は、金剛杵の修行をやめてしまいました。それほど威張れることではありませんね?私は、この件について、リキャ・リンポチェの第一従者と話し合ったことがあります。リキャ・リンポチェは、ドルギャル信仰に深くかかわっていました。最近、従者は、私に、リンポチェは、ドルギャルの儀式を止めた、と告げました。そもそも、リキャ・リンポチェは、問題のある状況のもとで、ドルジェに関わりをもったのだ、と言いました。それによると、リキャ・リンポチェは、ドゥギャルから罵声を浴びせられ、これ以上の災厄が及ぶのを防ぐため、しかたなく、ドルギャル信仰を始めたというのです。ひどいことですね?本来あるべき姿のまるで逆です。修行を積んだ人間は、屈服するのではなく、恐れを持たずに、行いに分別を持って、精霊を自分に引き寄せ、精霊に任務を与えるべきなのです。では、ドルギャルにゲルク派の守護尊という通称を与えたのは一体誰なのでしょう?ツォンカパ大師の後継者である歴代ガンデン寺座主でないことは確かです。ツォンカパ大師本人でも、その弟子たちでもないでしょう。アムドのタシーキル寺の僧院長や、その弟子たちでもないでしょう。ガンデン寺や、タシーキル寺ではドルギャル信仰はまったく行われていません。クンブン寺は、模範的、とまでは言えないものの、トンポン・リンポチェのような人は、まったくドゥギャルには関わりを持っていません。私の弟のタクツァ・リンポチェは長年、クンブン寺の僧院長でしたが、彼がそこにいたあいだに、ドルギャル信仰は全くなかったそうです。故キルティ・リンポチェは、信仰にちょっと手を出しましたが、心から信奉していたというよりも、彼の周りの者の伝統にただ従っただけのようです。クンブン寺で調査が行われたことがありますが、どのようにしてドゥギャル信仰が起きたかは、曖昧模糊としており、信頼できる情報源はないようです。

次に、ティジャン・リンポチェのことを話したいと思います。彼は、カルマパ・リンポチェと親密な関係にありました。彼は、亡命後に起きたある事件にかかわりをもっていました。彼は、「昨日、ショッキングな出来事に遭った」といいました。ティジャン・リンポチェがドルギャル供養をしているとき、突然、カルマパ・リンポチェがやってきたそうです。カルマパ・リンポチェが来たと聞いて、ティジャン・リンポチェは、供養のための捧げ物を急いで隠しました。なぜかというと、カルマパ・リンポチェがドルギャルを嫌っていたからです。考えても見てください。カギュ派の僧侶がやってきたからといって、隠さなければならないゲルク派の守護尊とは、一体、何なのでしょうか? ゲルク派は、六臂マハカーラー(大黒天)を守護尊としています。ダムチェン・チョギャル(ガンデン寺の護法像)も、ゲルク派の守護尊です。そこにマハカーラーの像があったとしたら、カルマパ・リンポチェは喜んだでしょう。あるいは、マハカーラーに献酒したかもしれません。ダムチェン・チョギャル(カラルパ)でも同じように喜んだかどうかはちょっとわかりません。ニンマ派では、ダムチェン・チョギャルのことを「動物の顔をした守護尊」と呼んでいます。

アラク・ジグメ・サムテンの話をしましょう。彼の生前、アムドのリゴンという場所には、他人に唾を吐いている密教修行者がいたそうです。アラク・ジグメ・サムテンは、ヤーマンタカ(怖畏金剛守護尊)とその儀式 Yamantaka protection-circle ritual をすることにしました。そこでは、ゲルク派と対立しているロンポ・レゴン・ギャウという者が唾を吐いていました。アラクがヤーマンタカのマントラを唱えながら瞑想をしていると、ロンポ・レゴン・ギャウの弟子の一人が夢を見ました。夢のなかでは、ある老僧侶が馬に乗っていました。彼は帽子をかぶっていました。ところが、突然、カラスが急襲し、彼の帽子を持っていってしまいました。弟子は、この夢を、師のロンポのことだ、と思いました。彼は言いました。「ゲルク派の奴らが唾を吐いている。だが、彼らは Gonpo Phulug ゴンポフルンを打ち負かすことはできない。奴らは動物の頭を守護尊としているが、俺の敵ではない」。しかし、彼はゲルク派の護尊神の恐ろしい力を過小評価していたのでしょう。ほどなく、彼は、普通ではない死に方をしました。話は反れましたが、大事なことは、ゲルク派の守護尊とは、ツォンカパ大師によって承認された手続きを踏み、任務を与えられ、任命された守護尊のことだけを指すのです。これこそが、正式の守護尊です。こうした神々は、公に、誇りを持って供養してかまいません。カギュ派にも、サキャ派にも、ゾクチェンの修行者にも、誰に隠す必要もありません。暗い隅の方にこうした守護尊の像を隠す必要は一切、ないのです。ティジャン・リンポチェが、慌てて動き回りながら、従者に、「これを」隠して。あれも。あれも」と従者に命令しているところを想像すると、笑いたくなってしまいます。しかし、このように隠さなければならないという事態は、喜劇というより、むしろ、嘆かわしい事態といえます。

パボンカ、ティジャン・リンポチェ、ゾン・リンポチェといった師がドルギャル信仰に与していたのは事実だとしても、ゲルク派にとって、ドルギャル信仰によって蒙る利益は一つもないと私は考えます。利益どころが、損害が大きいです。現に、ドゥギャル信仰の結果、ゲルク派を批判し、悪口を言う人の数が増えました。僧院内での教育、仏教の教えを守り、広めていくというという観点から見ても、ドゥギャル信仰から得るものは何もありません。もし、ドルギャル信仰に本当に利益があるものだとしたら、ツォンカパ大師とその宗教的後継者たちの学説を守り、引き継いでいこうとしていこうとしている人々が、何かドゥギャル信仰の利点について語るはずだと考えるのが当然ではないでしょうか?しかし、デプン寺の故デンマ・ロチョ・リンポチェ、トンポン・リンポチェや、それ以外の名僧からも、こうした声明は出てきていません。つまり、この信仰を推進したのは、学識に優れ、高い倫理観をもった人々ではなく、学識に劣り、低い倫理観しかない人々だった、と言えるのではないでしょうか。とにかく、私は、パボンカとティジャン・リンポチェによるドルギャル信仰の推進は、間違ったものだったと考えています。だが、彼らの生涯において、ドゥギャル信仰は、ほんの少しの部分を占めるに過ぎません。彼らの、ラムリム、ロジョン、および、密教修行の分野での貢献は非常に大きなものです。そのことに疑いはなく、ドゥギャル信仰によっても一向に傷つけられるものではありません。

私は、自分が学識や人格の面で重要な人物だと主張するつもりはありません。それでも、私のこの問題に対する姿勢(特定の事項について意見が異なるものの、その人物に対する尊敬の念は持ち続ける)は、過去の偉大な人物が採ったやり方と同じだと感じています。私は、よく、こんな詩を味わいます。

ヴァスバンドゥは、つねに、生きとし生けるものの幸福を考えていた
自らの性向にしたがって
(般若波羅蜜多とアビサマヤランカラを)、すべての者の心のなかにあるものと
説明した

ヴィムクティセナはアーリア階級に属し
「自由の人」として知られていた
ヴァスバンドゥの行いは、あるべき姿ではないと思い
「中道」の判断方法に従って丹念に調べた

アーリア・ヴィムクティセナは、ヴァスバンドゥを師としていましたが、師匠のアビサマヤランカラの説明は、個人的な立場に対するバイアスによって偏っていて、著者の真の意図を汲んだものではないと考えていました。それで、彼は、師の考え方を論破する注釈書を記し、師の解釈を中道の解釈によって置き換えました。アーリア・ヴィムクティセナは、霊的な師弟関係の理想の姿から逸脱したといえるでしょうか?ヴァスバンドゥに礼を失したことを行ったと考えるべきでしょうか?そのいずれでもありません。

今度は、ジョウォ・ジェ・アティーシャと、その師であるサリンパとの関係を観ていきましょう。アティーシャは、サリンパは菩提心の探求において最大の助けであったと認めています。この分野で、サリンパはアティーシャの根本のラマだったといえます。しかしながら、哲学的には、二者は異なった意見を持っていました。サリンパは、唯識論的立場に立っていました。サリンパは、アティーシャの菩提心の修行の成功を祝福したものの、アティーシャの哲学的見地は間違っていると告げたと言います。アティーシャは、それに対して、サリンパの教えは、自らの中観的立場の正しさに対する確信を強める役割しかしなかったと言っています。

さらに、ダルマキルティの例があります。先ほどのヴァスバンドゥは、沢山の弟子を持っており、そのなかにディナーガ(陣那)がいました。ディナーガは智慧の理解において、師匠を上回っていたといいます。その陣那は、イシュヴァラセナという弟子を持っていました。そのイシュヴァラセナはダルマキルティという弟子を持っていました。ダルマキルティは、イシュヴァラセナから、ディナーガの著作である『プラマナムカヤ』の注釈の教えを受けましたが、イシュヴァラセナの解釈は間違っているとして、受け入れませんでした。その結果、ダルマキルティは自著『プラマナヴァティッカ』において、イシュヴァラセナの見方を攻撃材料として使いました。ここで見られるのは、教義を明確にして、作り上げ、間違いを矯正していく作業においては、自らの師匠でさえ批判の対象となるということです。これは、師匠が、数人の特定の弟子に向けて(違ったメッセージが必要とされていたのにもかかわらず)的を得ていないメッセージを含んだ教えを授けたケースです。こうしたことは、たびたび起きることとはいえ、ヴァスバンドゥのケースは苦々しさが残ります。(上記の詩を作った)ハリバンドラによれば、(弟子のことを思いやってそのような言い方をした、というよりは)ヴァスバンドゥの個人的な偏りそのものが、彼の解釈を生んだということです。ある種の解釈が、特定の弟子に対する配慮であろうと、それ以外の事情によるものであろうと、あるいは、単なる誤解によるものであろうと、後世の人間が物事を明らかにすることは大切です。学識ある人間が、改定したり、明確にしたりすることは認められた手法であり、教えに対する一般的に正しい手法と矛盾するものではありません。むしろこうすることで衰退を防ぐことができるのです。では、ギュンタン・リンポチェは、その後、どのようなことを詠ったでしょうか?彼は、このように詠いました:

ああ、開花した豊かさのあと、
ゲルク派には
貧弱な教えと修行しか残されていないことを考えると
私は絶望にとらわれる

ずいぶん、悲しいトーンですね。 でも、その後、励ましの言葉が続きます。

この深く、広い教えを
正確に説明するものを見つけるのは容易でないが
あなた(ツォンカパ大師)が作られた誤りのないこの教えは
安堵と慰めをもたらす

ツォンカパ大師は、その業績を成し遂げるのに大変な努力をし、学習と瞑想の双方に偏りなく、偏見を持たずに取り組みました。その結果、仏陀の教えの全体像を理解したのです。そして、理解の後に著作に取り掛かりました。もし、われわれの側で、それを理解する準備ができていないとしたら、それはわれわれの問題です。すべては、考え、瞑想できるように、目の前に用意されているのです。先ほどの詩の最後の行はそれを語っています。たとえばカンサ・チャンという人は、毎冬にチャサムチョーという場所に赴き、1ヶ月そこに滞在しているあいだ、ツォンカパ大師の著作に取り組み、大変な注意を払って、それを読み込んで暗誦しました。これこそが、われわれが見習うべきことであり、真の賞賛に値することです。きょうび、実際には、われわれは、時折、ちょこちょこと読むだけです。大師の全ての著作をあらためて読破することは、時間があれば、ぜひ、私がやりたいと思っていることです。私も、おそらく、一回切りしか読んでいません。ツォンカパ大師の18巻の著作の内容を常に身近において、伝統を守ろうと言うとき、私が申したいのは、こういうことです。

その点で、トンポン・リンポチェが行った、次のような批判は的を得ていると思います。チョパ・ドンデンという偉大な宗教家がおり、弟子の性質に合わせて適宜、指導を行っていました。たとえば、彼は、リン・リンポチェに、 チョド(ヨーガの一種)の教えを授けました(ただし、どの経典が使ったのかは不明)。ところが、チョパ・ドンデンに指導されて、修行に就いた僧侶は、大声で声明を唱えて回りに迷惑をかけるなど、かなり滅茶苦茶なことをしたようであり、デプン寺全体での学習と修行に害をもたらしたようです。その結果、とうとう、トンポン・リンポチェは、このチョパ・ドンデンに異議を唱えました。私は、彼がそうしたのも無理はないと思います。ゲルク派に所属しながら、ツォンカパ大師の18巻の著作を横に置いておいて、それとは関係のない、個人的な教えを授けるというのは、正しいことでしょうか?私はそうは思いません。ヴァジュラヨギーニの修行についても同じことです。それは、当然のことながら、重要な修行ではありますが、密教学校のやり方は感心しません。これだけ詳しく方法が決められている三本尊の行法を打っ遣っておいて、耳聴こえの良いヴァジュラヨギーニの詠唱ばかり行うことの意味はどこにあるのでしょうか?ゲルク派に所属する者が、一番、大切にしなければならないのは、ツォンカパ大師の残されたものです。その著作のなかから、我々が汲み取ったことこそが重要なものとして大切にされなければならず、瞑想や思惟は、これらを対象としたものでなければなりません。

このことに触れたあとで、一つ、申し上げたかったことを思い出しました。もちろん、時間の制約という問題は常にあります。しかし、教師が特定の経典を取り扱うときには、常にリンポチェ大師の著作を媒介させつつ、(インド)の原典との関係を説明することは、とても大切なことです。たとえば、中観とは何かを教えるには、チャンドラキルティの「入中論」に対するツォンカパ大師の注釈書である「中観密意解明」から入るのが、一番分かりやすいのです。原典と注釈書の文言を照らし合わせながら、注釈書の意味の完全理解を目指すのです。同様に、プラサンナパダーに対するツォンカパ大師の注釈書は、ブッダパリタの著作や注釈書をまず読み進んでから、どの部分が、ツォンカパ大師の注釈書のどの部分に匹敵するかを解き明かさないといけません。ツォンカパ大師の著作は、すべての学習の基礎であるべきなのです。もちろん、ナーガールジュナの智慧についての原典も、理解を助けるものとして併用できるでしょう。インドの原典も勉強の基礎として使わなければならない、ということです。ツォンカパ大師は、非常に説明がうまいので、それを読むことで、これらの経典の本質をわれわれは理解することができるのです。必要なときには、ブッダパリタ、チャンドラキルティ、およびバヴァヴィヴェカの注釈書も読むべきでしょう。このようにして、中観についての学習を進めると、ナーガールジュナの原典をわれわれが深く、広く理解するのに、いかに『入中論』が役に立つかということが分かるでしょう。入中論を読んではじめて、ナーガールジュナが理解した核心部分の本当の意味を理解することができるのです。それが出来たとき、われわれは、ツォンカパ大師に一種の精神的絆を感じるようになり、その名前を聞くだけで、特別な感情が湧きあがるようになるでしょう。私は、大した経験があるわけでもなく、特別な理解に達しているわけでもありませんから、絶対にそうだと言い張るわけではありません。しかし、ツォンカパ大師による空性と縁起の説明は、ナーガールジュナに対する信頼の念をもたらし、彼が次のように言った気持ちを、理解できるのです。

私は、愛と慈悲により、
あらゆる思想を退け
聖なる仏法を説いた
仏陀の前にひれ伏す

ナーガールジュナは、単なるお人よしでも、頭の弱い人間でもなく、彼の言っていることは正しい。学ぶことで、「ナーガールジュナのような素晴らしい師が仏陀の教えと、縁起を称賛するのだから、そこには何かがあるはずだ」、という感情が湧きあがるようになります。

仏教の勉強をするとき、ツォンカパ大師が精魂を傾けた(インドの)原典に当たることは、本質的なことだと感じています。ツォンカパ大師の教えは、いかに正確にナーガールジュナの教えをなぞるものであるかということは、細かく、ひとつひとつ説明されるべきです。ところが、実際のところ、『中観密意解明』は良く使われていますが、時間がかかるせいか、他の理由でか、『プラサンナパダー』はあまり、頻繁に使われていないようです。

これが、トンポン・リンポチェのやり方であり、われわれに対する遺言でもあります。このことは良く考えてみる価値があります。それ以外に、本日、私がお話したいことはそれほど多くありません。ここに皆が集まったのは、これらのことを良く思い出し、新鮮な気持ちで胸に刻み直すために他なりません。われわれは、これまでに起きた重要な出来事に思いを馳せ、それらからどのような教訓を学ぶべきかを考える必要があります。そのために私は今日、長い時間をとってお話をしているのです。ここにおられる多くの皆さまはすでに分かっていらっしゃることではありますが、非常に遠くから沢山の代表の方々がお見えになっていることを考えると、今いちど、こうしたことに触れる意味はあると思っております。なぜ、ドルギャルを規制するのかということに対する私の考えは、このことと関係があります。単に私が言ったから、それが義務だ、とは思わないでいただきたいのです。私は、人々が盲目的に受け入れることが良いと思っていません。それは、民主主義の精神に全く反しています。仏教伝統の中で良いとされてきた手法にも反しています。知性を使って論証する、ということが大切です。どうやっても、偏りのない公正な決断はできない、という場合には、こうしてみましょう。一方には、パボンカ、ティジャン・リンポチェ、ゾン・リンポチェが、そして、もう一方には、プチョグ・ンガワン・ジャンパ、ティチェン・ンガワン・チョデン、チュンキ・ロルパイ・ドルジェ、そして、カチェン・イェシェ・ギャルツェンがいます。双方を秤にかけてみましょう。どちらのグループの意見がより重みがあり、信頼が置けるでしょうか?答えは明らかです。ティジャン・リンポチェと、パボンカ・リンポチェが、ンガワン・プチョク・ジャンパの言葉を深く受け止めていたら、それを無視するどころか、同意せざるを得なかったでしょう。同様に、パボンカの根本ラマであった、ジャンペル・ンゴルブ・ギャツォのことを考えてみましょう。彼は、時折、ドルギャルに献酒供養をしていたかもしれませんが、ドルギャル信仰に深入りはしていませんでした。同一地域の南北の二つの僧院がジャンペルの管下に入っていたことがあります。そのうち一つはドルギャル信仰をしており、もう一つはしていませんでした。彼が居を構えていたのは、後者でした。ドルギャル信仰に反対の声が上がったとき、彼は、ドルギャルの像を僧院の外に置くよう命じ、儀式を僧院内部で行わせないようにすることで解決しました。このような小さな証拠をひとつひとつ積み上げていく必要があります。1年に一度、私はネチュンの信託に質問をします。ドルギャル信仰に付随した「守護尊に自らの命を捧げる儀式」の一連の伝統は、タピュ・ドルジェ・チャンが夢の中で見たヴィジョンを元にして広まった、との声を受け、そのことを調べてみたいと思いました。それで、ネチュン(訳注:ネチュン神からの神託をダライ・ラマに伝える神官)に、このような夢が風習の起源であるなら、それは信頼の置けるものかどうか、質問してみました。それに対する回答は、夢のヴィションには二つのタイプがある、ということでした。高い霊性を持つ者からのものであれば信頼できるが、邪魔立てする邪悪な者からのヴィションもあり、この場合は後者からのものだということでした。物事はここから始まったということが、これで明らかになりました。こうしたことをすべては、調べあげなければなりません。ガデン・ポドラン(訳注:ダライ・ラマを元首としたチベット政府)は、過去300~400年のあいだ、ドルギャルとどのような関わりをしてきたのでしょうか? いや、政府とのかかわりは、少し横に置いておきましょう。摩擦が起き始めたのは、ダライ・ラマ五世が宗派を超えた信仰を行ったためだと考える人々がいます。他の例を見てみましょう。もう一度、プチョク・ンガワン・ジャンパに戻りましょう。彼は、デュカン・ゲレク・ギャツォ(1641-1713)の主要な弟子のひとりでした。ラムリムの教えの正当な後継者であり、学習においても修行においても、大変な達人でした。彼はまた、ゲルク派の教えに強い情熱をもった人でした。こうしたことを踏まえて、彼のドルギャル信仰に対する意見を考えてみる必要があります。そして、ドルギャルに関わる最近のさまざまな事件が果たしてゲルク派のためになったかどうか、考えてみましょう。(ドルギャル信仰によって)ゲルク派に対する批判は高まりました。今ではゲルク派は原理主義者の集まりだと考えられています。このような強硬な態度の背景には、ゲルク派の人々はニンマ派の教えとは一切関わりを持ってはならないと精霊が命令を出したためだと考える人もいます。一種の強迫に近いことが行われていると見られているのです。

皆さんの中には、私が数日前に話した話を聞いた方もおられるでしょう。宗教、信仰の自由ということに関する話です。私の経験をお話します。若いとき、菩提心の観相に対する信仰を強く持ったとき、クンヌ・ラマ・テンジン・ギャルツェンから教えを伝授しました。まず、私は、彼から『入菩薩行論』の教えを受け、その後、偉大なる十三の経典について習いました。個人教授から受けた伝授とは別に、テンジン・ギャルツェンからも習ったのです。私は、グヒヤガルバ(ニンマ派の修行法)の教えも彼から受けようと考えていました。ある日、リン・リンポチェにそのことを話すと、彼は、私にやめろと言いました。それは、ちょっと微妙な問題だから、辞めておいた方が無難だと言ったのです。怖がり屋の気があった、リン・リンポチェは、私がそのような伝授を受けたら、怨念を持ったドルギャルから仕返しをするのではないかと考えたのでした。だが、私は、テンジン・ギャルツェンからの教えを受けたかったのです。グヒヤガルバは、ブトン・リンポチェ(訳注:チベット大蔵経の主要な編纂者)が、カンギュール(経部)の全集からはずしましたが、ニンマ派とカルマ・カギュ派は正統な経典として認めていました。いずれにしても、リン・リンポチェがこのタントラの伝授を私が受けることに反対したのは、ドルギャルを恐れてのことでした。つまり、何が起きたかというと、私はこのタントラ修行を行いたかったのに、ドゥギャルを恐れる者がいたために、宗教的な自由の権利という正統な権利を侵され、修行を受けることが出来なかったのです。後に、ドルギャル問題を詳細に考察し、調査した結果、私はドルギャルへの関わりを絶ちました。ドルギャルへの関わりがなくなるやいなや、私は宗派的アプローチへのこだわりが減り、他の宗派の教えも取り入れるようになりました。とくに、私は当時、金剛権灌頂(訳注:ニンマ派の修行とされている)に興味を持っていました。金剛権の灌頂を受けてもよいかどうかについて占いを行い、その結果が良好だったことから、それを行いました。チベットには、特別な守護尊がいます。その守護尊をジョウォ・ウォテイ・サンポ(または、キドン・ジョウォ)と言います。 ダライ・ラマ五世の夢にたびたびこの守護尊のヴィジョンが現れ、サンワ・ギャチェンに関する秘儀を伝授したといいます。この守護尊の像は、キロン(チベットのネパール国境付近)にあります。この本尊像についての私の経験をお話します。ゾンザチョデの僧院の人々は、苦労して、この像を買って、チベット国外に運び出しました。この像は、しばらくのあいだ、ダラムサラの私のところにありました。その後、多くの人々が南の入植地に移ったとき、この像は私のところに置いておくのはふさわしくないと思い、それを確かめるため、ゾンガチョデの僧侶とともに、像を南に運ぶべきか、ダラムサラにおいておくべきか、神託にたずねました。神託の答えは、たしかに人々は、守護尊像を持ち出すのに大変な苦労をしたものの、しばらくは、ダライ・ラマと一緒にいる方が、守護尊像も幸せだろう、というものでした。そういうわけで、ジョウォは、ダラムサラに残り、私を祝福してくれており(笑い)、ゾンガチョデの人々は、本尊と離れて南に移ったのでした。このジョウォは、伝統的にダライ・ラマがその力を頼む、主要な守護尊の一つです。高い尊敬を集めている守護尊パルデン・ラモ、および、ダライ・ラマ二世の時代に特別なものとなったタンカとともに、ジョウォはずっと守護神であり続けています。ダライ・ラマ五世が遷化された後、残された摂政のサンゲ・ギャツォは途方に暮れていました。ポタラ宮は未完成でしたし、ほかにも未解決の問題が沢山、残されていました。サンゲ・ギャツォは、これから、どうやって国を統治していったら良いか分からない…と訴えました。その途端、ダライ・ラマ五世は生き返り、彼に最後の忠告をしました。その忠告は、重要性の低い事柄については、サンゲ・ギャツォが自らの知恵で解決し、重要性の高い事柄については、例のタンカの前で神託を行い、パルデン・ラモに対処策を問いなさい、というものでした。そのタンカが非常に大切にされているのは、こうした理由があったのでした。私はチベットから亡命したとき、このタンカを自分で持ち運びました。守護兵の振りをしていたから、片方の肩にタンカを担ぎ、もう片方に拳銃を担ぎました。一人の従者が、連隊長のようなふりをして、われわれは従者のふりをしていました。私は眼鏡もはずしていました。眼鏡が光に反射すると見つけられて危なかったからです。あるとき、暗い月光の下で川を渡ろうとして、私は落馬しそうになりました。タンカと銃は進むごとにどんどん、重くなっていくように感じられました(笑)。いずれにしても、タンカは、宗教的に非常に大切なものだったので、ダラムサラまで持ってきました。重要な占いは、ネチュンの神官を通じて行いました。それに、個人教師だったリン・リンポチェがいました。ティジャン・リンポチェは、当時、ダラムサラにはいませんでした。たしか、彼は、ベナレスにいたと思います。もし、ダラムサラにいたら、当然、ティジャン・リンポチェにも相談したでしょうから。とにかく、当時は、リン・リンポチェがいて、神託の儀式に呼ばれていました。誰もが一同に会していました。ヨンジン・リンポチェも、私の「帰依のラマ」として、招かれていました。そして、チベットの特別な守護尊として、ジョウォの像もそこに置かれていました。聖なるパルデン・ラモのタンカ(パルデン・ラモはゲンデュン・ギャツォの時代から、歴代ダライ・ラマの守護尊です)がもたらされました。もう一人の公式の守護尊である、ネチュン・ドルジェ・ドラデンも、そこにいました。私は、占いたい内容が何なのかを皆に告げました。私は、リスク回避のための保険をかけていたように見えたかもしれません。個人教授にも、ネチュンにも、パルデン・ラモにも全面の信頼を寄せていないように(笑)。彼ら全てが、この占いの儀式の証人だったのです。彼らの目前で、私は、金剛権の灌頂の是非について占いました。占いの結果は、それを是とする、というものでした。私は元気付けられ、そのとき以来、ニンマ派との絆な強くなりました。私は、ニンマ派の儀式を執り行うようになり、思考、宗教の自由という権利を十全に行使できるようになりました。宗教的自由を妨げるものを規制することは、宗教的自由を守ることにつながるといえないでしょうか?中観派や論理学のテクストに、「排除のプロセスを通じて、真の現実に到達する」というものがあります。つまり、宗教の自由を妨げるものに反対することは、宗教的自由を守ることにつながるということです。

もう一つ、申し上げておきたいことは、ドゥギャル信仰を規制することは、いかなる形の仏教実践の自由の規制にもつながらない、ということです。ここで、問題になっているのは、精霊の供養であり、これを仏教につなげようとするのは、言葉の誤用です。たとえ、「仏教」を広義に捉え、そこに、精霊や蛇の供養も加えるとしても、ドルギャルへの規制は仏教実践の自由への背反にはなりません。ドゥギャル信仰は邪悪なものだからです。

ドルギャル信仰は、由緒正しい正統の信仰ではなく、誤解に基づいたものであり、人々を迷わせます。三宝を信仰の基盤とする仏教徒は、精霊信仰をその基盤とすることは許されません。もし、精霊のサポートを求める決意をし、俗世のレベルで助けてもらい、短期的な物事で成功する、そのための精霊、ということなら、そこで登場する精霊は、承認された精霊でなければならず、悟りを開いた存在が、命令を下し、役割を規定した精霊でなければならなりません。ドルギャルのように、いかがわしく、脅迫によって、優越的地位に就いたような精霊であってはならず、不道徳な慣行であってはならないのです。こうしたことをよく考えれば、ここで問題になっているのは、仏教実践の自由ではない、ということが分かるでしょう。そうは言っても、よくよく考えた末、こうした分別を無視して、ドルギャル信仰に関わりたい、ということであれば、誰もそれを止めることはできません。個人的選択の問題であり、個人は、自らの権利を行使すれば良いのです。信仰は禁止されているわけではありません。どの宗教を受け入れるか、受け入れないかは、個人の決断です。どんな形の精霊信仰をしたいかどうかは、個人が決める問題です。明白な証拠に目をつぶり、行動の結果も気にせず、自分自身を駄目にする行為を行うのだとしたら、それは私のせいではないし、私は、それに対して何もできません。まるで、「私、カチェイ・パルは、自分の秘密を明らかにしたが、聞くか聞かないかは、あなたの自由」という、ことわざのように。

ちゃんと説明することは本当に大切なことです。さもなくば、皆さんの中には疑いを持つ方がおられるかもしれません。皆さんの中には、見かけはダライ・ラマを崇拝し、私の意見に賛同し、従っていながらも、心の中では、私と違う考えを持っている人がおられるかもしれません。また、「なぜ、そう言うのか分からないが、ダライ・ラマの言うことだから、言うことを聞こう」という人もいるかもしれません。こうした態度を私は支持しないということをもう一度、強調したく思います。ばかげたアプローチです。証拠を秤にかけて、自らの分別を使って、何を受け入れ、何を避けるのが最良かということを決める必要があります。では、私はドゥギャル信仰に対して何をしているかというと、たとえば、亡命政権の職員に対して、公式の声明を出しました。その声明のビデオが残っています。 その後、今から二年ほど前に、シャルツェの仏教博士だった、ツルティム・ギャルツェンが、カダム派の『十六明点の灌頂』を受けたいと言いました。それが終わった後、私は、瞑想のための隠行を行っていました。灌頂は成功だったという兆しを私は受けました。翌晩、とてもはっきりした夢を見ましたが、そこにはティジャン・リンポチェが出てきました。夢のなかで、彼は、とても私に親切でした。そこには、ラムリムのテクストがあり、彼自身のコメントがいくつかのページに入っていました。彼は、「いつか役に立つことがあるだろうから」と言って、私にそれを渡しました。私は安心しました。やったことは、ティジャン・リンポチェの意向からはずれたことではなかった、自分の行いは正しかったと感じたのです。彼は、自らの根本ラマから教えられた体系を継承した、素晴らしい弟子でした。(彼の弟子である)私が今やっていること、こうしたことにオープンな態度をとることは、ティジャン・リンポチェが心から望んだことだったと感じています。私は、チベットにいたとき、自らとダライ・ラマ五世とのあいだに因縁がある兆しを示した夢を何度が見たことがあります。最近になって、ドルギャル信仰を規制して大騒ぎになった後、私はまた夢を見ました。夢の中では、ダライ・ラマ五世の肖像が描いてあるタンカが出てきました。私がそれを見ていると、タンカの中のダライ・ラマ五世は本物になりました。ダライ・ラマ五世は、私の方にやってきて、儀式用のスカーフを手渡しました。そのスカーフは、ものすごく長いものでした。目覚めたとき、私は、ダライ・ラマ五世の時代から遣り残されてきたことを成し遂げたという感覚を持ちました。お望みに沿った行動をとり、喜んでいただけたと思い、自分の決断は正しかったと思いました。ドルギャル協会が、係争の相手は、ガンデン・ポドラン(=ダライ・ラマ五世が作ったチベット政府)しかいない、と言うとき、彼らの言うことは正しいです。シムカン・ゴン(訳注:ドルギャル信仰と深くかかわっていたテュルク・ダクパ・ギェルツェンという人物の邸宅)を最初に破壊したのは、たしかにガンデン・ポドランです。それから400年も経っているのに、彼らは、まだそのことをあげつらっています。ガンデン・ボドランに責任をとらせようとしているのです。だが、彼らの訴えをまともに聞く裁判所がこの世にあるでしょうか(笑)。今日の係争は、歴史に根ざしたものです。私が申したいことは、それだけです。

ずいぶん、長い話だったので、疲れてしまった方もおられるでしょう。だが、われわれがこうして一同に会する機会は、そうあるものではありません。ドゥギャル問題は、ものすごく重要な問題というわけではありません。しかし、さまざまなところで、根も葉もない噂がささやかれている現状を踏まえて、機会があるときは、常にそれを白日にさらして討議するのが一番良いと思います。タシ・ワンギュ(大臣の一人)、あなたは、いつも、物事は仏陀の教えに従って行うべきだと言っていますね。もちろん、それは正しい。だが、賢いやり方でやらないと意味がありません。再三、申しているように、私が何かを言ったからといって、盲目的に、それに従わなければならないわけではないのです。ドゥギャル問題を、権力とその濫用の問題にしてはいけません。

私が、国会議員のなかから、ゲルク派以外のチベット仏教宗派の代表をここに招いた理由があります。特定の学派が会議を行うときには、他の学派の代表もオブザーバーとして議事進行に参加することが望ましいと考えているのです。それを言い始めて久しいですが、最近、ようやく成果が上がってきました。今、ここで行われているのは、ゲルク派の会議です。会議には、他の宗派の代表者も参加しています。ここは、ゲルク派の人々の集まりであり、ゲルク派の人々が考えていることを話したり、ちょっと自慢をしたり、まあ、そういうことをする場所です。このように他の宗派の人々を招くことで、すべてが、隠すところのない、オープンなものとなります。このようにしなければ、他の宗派の人々は、ここで話し合われたことに疑いの目を向けるでしょう。何か、陰謀のための場所と思う人がいるかもしれません。こうすれば、誇張された噂話が広がる危険を小さくできます。陰謀を図る理由は何もありません。もう一つ、申し上げたいことがあります。この中には、もう聞いた方もおられるかもしれませんが、ほとんどの人は私がそれを話したときにはおられなかったと思います。最初の仏教会議をわれわれが開いたのは1960年代のことでした。そのときに参加されていた人々は殆どいなくなっていると思います。当時は、デュジョン・リンポチェや、デュグパ・ツグセ・リンポチェがいました。ケン・リンポチェも、カルマパ・リンポチェもいました。当時の三大寺の座主は、それぞれ、ペマ・ギャルツェン、ニマ・ギャルツェン、そして、モンゴル人のロサンでした。ブッサでは、誰かが供え物をすると、ロサンはすぐ、それを供養台から下ろしてモモ(チベット餃子)を作らせた、と聞いています。本当ですか(笑)。もちろん、普通、お金が供養されたとしたら、それは蓄えとされることが正しいでしょう。だが、ロサンは、すぐに、それでモモを作ってしまいました。その仏教会議には、セラ寺から来た、何某、という僧侶がいました。会議で、彼は、ブッサでの活動について話していました。彼は、そこで、「10時、12時、13時」と言ってしまったのです。もちろん、時間を24時間単位で計算するやり方はありますが、そうではなくて、単に彼は間違えてしまったのです。9、10、11、12、そして13時――と(笑)。本当に可笑しかったです。会議の開催地は、ダラムサラでした。無宗派の会議だったので、すべての宗派の代表が集まっていました。ボン教の代表者もいました。ボン教の人々が同等の地位を与えて欲しいと言ってきたわけではないのですが、それでも、ボン教の代表も招くことが公正だと判断されたのです。ボン教の代表者は、ラル・リンという僧侶でした。黒い下衣を着た、謙虚な立派な人でした。とても年をとっていました。ボン教の代表者はもう一人いました。体格の良いがっちりとした人で、ロスリンかゴマンの僧院で何年も過ごしたと言っていました。そして、会議が終わり、われわれは解散しました。デュジョン・リンポチェは、カリンポンから来ていました。帰り道で、彼の弟子か後援者が近づいてきました。その人は、リンポチェに近づくと、驚天動地のニュースを告げるような様子で言いました。「ダラムサラで会議があったようですね。やつらは、誰もをゲルク派に改宗させようとしているようですよ」。リンポチェは答えました。「一体、なんのことかね?会議は、無宗派で、参加した宗派は、どれも同じように尊重されたよ。私は、ちょうど、その会議から戻ってきたところなのだ。改宗させようとしているって、どういうことかね?」