ゲシェーの学位について

Print Friendly, PDF & Email

ゲシェーの起源


チベット仏教の伝統において、学問課程修了の証として学位の授与を初めて行ったのはサキャ派であった。ゲシェーと同様に弁証法的討論の習熟度によって与えられ、4科目を意味するカシと、10科目を意味するカチュがあった。各科目は同時に試験され、一度の公開問答で候補生の全科目の習熟度が示された。このような試験が何度か行われ、ツォンカパの時代には、サンプー、キョモルン、ダワチェン(後のラト)の僧院で学位の授与が行われた。

ゲシェーの学位


僧侶の教育課程は主要6学科、15科目に分けられる。

科目:

    • 基礎科(tib. bsdus-gra):本科の準備課程
    • 般若学(san. Prajraparamita, tib. Par-phyin)
    • 中観学(san. Madhyamika, tib. dbuma)
    • 論理学(san. Pramana, tib. tshadma)
    • 戒律学(san. Vinaya, tib. ‘Dul-ba)
    • 阿毘達磨学(san. Abhidharma, tib. mDzod)

※ ()内san.=サンスクリット,tib.=チベット語

各学科の修業年限は学堂によって様々だが、概して下記の通りであった。

  • 基礎科 1年
  • 般若学 5年
  • 中観学 2年
  • 戒律学 1年
  • 阿毘達磨学 2年

論理学は全課程を通じて断続的に学ばれた。
デプン・ゴマン堂のような学堂では基礎科だけで8年もかかったが、遠くから来ている僧たちは特別な許可を得てこの期間を省略することができた。学問を終えた僧たちはゲシェーの試験を待つ間、問答の技術を磨き、最後の2学科の研究をして過ごす。トゥルク(転生活仏)たちは課程を終えるとすぐに試験を受けることが許されており、そのほとんどはチベットの別の地域にある自身の僧院に戻って指導にあたった。

毎年、僧たちは一つ進級し、学問を終えた者は試験を受け、特定の学堂の僧院長によって能力が評価された。弁証法の試験課題は全課程の中から出題されるのだが、問答の題目は僧院長によってその場で選ばれるため、学僧たちは何も特別な準備ができなかった。つまり、これは学僧の能力と学問の深さを見る実践的な試験であった。その結果、僧院長は候補生それぞれの能力に応じて、ゲシェーの一階級を割り当てた。ゲシェーには、ドランパ、リンツェ、ツォランパ、ラランパの4つの階級があり、ラランパが最高位であった。最も優秀な候補生には僧院長の私費から賞が与えられ、僧侶の集会で結果発表を行い、候補生たちはスカーフを受け取る。その後ゲシェー候補生たちは、続く8ヶ月の間、1日3回の問答を一度たりとも欠席してはならなかった。

チベット歴5月、ラランパとツォランパの候補生は、ダライ・ラマの問答補佐役(ツェンシャプ)からノルブリンカに出向いて試験を受けるよう通知を受ける。問答は夜明けに始まり、政府役人たちとのお茶とツァンパの集まりや、ダライ・ラマとの面会を申し入れて時間の通知を待つ人々との日々の会合で中断された。その後、試験は再開され、日没まで続いた。

候補生の試験の順番は、抽選によって決定された。1番目の候補生は2番目の候補生の挑戦を受け、2番目は3番目の挑戦を、と続いてゆく。同じ手順が5学科について行われ、試験は全部で6~7日間続いた。それぞれの僧がいつも同じ挑戦者に当たらないよう、問答の順番は定期的に変更された。

試験が終わると、問答補佐役たちは候補生の成績について話し合い、秘密裏に1~7のランクをつけた。新年の3日目、通常、上位2ランクのゲシェーたちがダライ・ラマの前で問答を行うよう求められ、大祈願祭(モンラム・チェンモ)の正式な学位授与で誰が最高の栄誉を受けるか疑う余地はなくなる。その結果によってゲシェーたちのランクが決まるため、ノルブリンカでの試験も重要であったが、問答補佐役たちが最終判断を下すのは大祈願祭においてであった。問答補佐役たちは最終的な結論を出すため、最も有望と思われるゲシェーたちの夕方の公開問答を視察し、二人の僧院長からの候補生に関するレポートを頼りにした。試験はどの段階も重要であり、最終的にふさわしい者にゲシェー・ラランパの学位が与えられた。大祈願祭での公開問答の日にちは、それに先立つチベット歴12月に決定された。候補生たちはデプン寺へ行き、二人の僧院長のうち一人が数珠を集め、一緒に混ぜ、また一つずつ取り出す。持ち主は立ち上がってこれを受け取り、抽選箱から問答の日にちが書かれた紙を一枚取る。これは習慣として続けられていたが、優秀なゲシェーたちの問答は15日より前に行われる必要があったため、デプン寺からリストを受け取った問答補佐役によってしばしば再抽選が行われた。

学堂の祝宴


チベット歴11月、候補生は多額の私費をかけ、その学歴において最も重要な出来事を記念すべく、学堂の僧たち全員を食事に招待した。食事の直前に、候補生は寮長に導かれ、線香と詩を書いた旗を持って集まった僧たちの周りを回る。元はこれらの詩は僧自身が博識を示すために作るものだったが、後に単なる形式となり、縁起の良い詩であれば良いとされた。

学堂の公開問答


学堂での公開問答はチベット歴11月に行われ、大問答と小問答の二つがあった。候補生は毎日テストされ、小問答は昼の12時から午後5時まで続く。全候補生が小問答を終えると、長い大問答が始まった。開始時間は同じだったが、夜の10時まで続くこともあった。試験の長さはラランパ、ツォランパ、リンツェの階級によって変わる。各学堂に毎年4~5人のラランパ候補生がおり、他の2階級にも同等の人数がいたため、公開問答はおよそ8日間続いた。

公開問答の前に、ゲシェー候補生はシュンレパ(寮の学問監督)の元を訪れ、問答で取り上げるべき題目について教えを請う。運命の日、候補生はラマ・シュンレパと他のゲシェー候補生たちを自分の部屋へ招く。ラマ・シュンレパが首座に着き、候補生たちはその前にひれ伏した。

全員にたっぷりと食事が提供され、その後すぐ、候補生はラマ・シュンレパを集会へ案内する。全ゲシェー候補生たちが並んで座り、その日の候補生は右端に座った。候補生は房飾りのある帽子を額に掲げ、仏陀と菩薩への礼賛を唱え、仏陀の生涯を語る。次に、候補生はラマ・シュンレパから与えられた詩について語り、僧院長が遮るまでこれを続けた。それから、候補生は問答の題目を挙げる。かつては、他の問答参加者が挑戦として選んだ題目であったが、後に形式的なものとなり、縁起の良い題目だけが選ばれるようになった。候補生は最後に主要5学科の科目の要約を唱える。ドライフルーツが僧院長とトゥルクたちにうやうやしく捧げられ、残りは参加者に投げ与えられた。

それから挑戦者が立ち上がり、悟りの心についてなど縁起の良い題目を選び、候補生と問答を始める。長い公開問答では、もう通常の問答には出席しないような経験豊かなゲシェーたちが挑戦者となった。続いて、高僧の生まれ変わりであるツォクチェン・トゥルクたちが挑戦する。各問答の長さを決定するのは僧院長であった。短い問答では、まだゲシェーになっていない僧やゲシェー候補生、他のトゥルクたちも、最年少の者まで参加を求められた。題目は阿毘達磨学と戒律学、続いて中観学である。問答が終わると、ラマ・シュンレパが立ち上がり、その日の出来事を称え、全ての徳を回向し、ダルマの広まりを祈った。

ゲシェー・ラランパの候補生はさらにもう一つ問答を行わなくてはならなかった。それは、ジャン寺の冬の集会で夜通し行われる論理学の問答であった。挑戦者は皆熟練の論客で、集会に参加する僧たち全員がこのイベントを熱心に見守った。

チベット暦1月24日、大祈願祭の終わりに、ゲシェーたちは学位を授与された。ダライ・ラマがラサにいる時は、ジョカン寺の階上で式を執り行った。ゲシェー候補生たちは集会堂の外で待ち、政府役人によって名前と階級が読み上げられると、中に入って贈り物の衣とドライフルーツを受け取り、集会の席に着く。候補生たちの学堂から応援に来た群衆は、誰が最高位を獲得したのか見ようと不安げに外で待った。大祈願祭のときにダライ・ラマがラサにいない場合は、ゲシェーの学位授与はポタラ宮で行われた。

ゲシェーの学位は17世紀、ダライ・ラマ5世の時代に正式に制定された。しかし20世紀になると、他の古い制度と同様に、学位授与は単なる慣例と見なされるようになった。ダライ・ラマ13世はモンゴル訪問中、現地の学者たちの能力に大いに感銘を受け、このことに気づいた。彼はゲシェーのシステムを改革し、学問の水準を上げることを決心してチベットへ戻った。これらの改革が行われるまで、ゲシェー・ラランパとツォランパは、完全に各学堂の僧院長の裁量によって与えられていた。時には年配の僧侶が、ただ年を取っているということで学位を授与されていた。改革の前年、ダライ・ラマは何人かのゲシェー・ラランパ候補生が資格を満たしていないと伝え、今後はふさわしい候補生だけが来るようにと警告した。翌年、僧院長たち問答補佐役に相談することが義務づけられ、ノルブリンカでの試験が制定された。何人かの候補生はふさわしくないと判断され、資格を剥奪され、罰金を課された。ダライ・ラマ13世はまた、タントラ学堂の教育水準を上げ、ゲシェーたちの教育をタントラの徹底研究によって完成させるため、階級を与えられたゲシェーたちは二つのタントラの学堂、ギュトとギュメに入ることを義務づけた。

学堂の公開問答


学堂での公開問答はチベット歴11月に行われ、大問答と小問答の二つがあった。候補生は毎日テストされ、小問答は昼の12時から午後5時まで続く。全候補生が小問答を終えると、長い大問答が始まった。開始時間は同じだったが、夜の10時まで続くこともあった。試験の長さはラランパ、ツォランパ、リンツェの階級によって変わる。各学堂に毎年4~5人のラランパ候補生がおり、他の2階級にも同等の人数がいたため、公開問答はおよそ8日間続いた。

公開問答の前に、ゲシェー候補生はシュンレパ(寮の学問監督)の元を訪れ、問答で取り上げるべき題目について教えを請う。運命の日、候補生はラマ・シュンレパと他のゲシェー候補生たちを自分の部屋へ招く。ラマ・シュンレパが首座に着き、候補生たちはその前にひれ伏した。

全員にたっぷりと食事が提供され、その後すぐ、候補生はラマ・シュンレパを集会へ案内する。全ゲシェー候補生たちが並んで座り、その日の候補生は右端に座った。候補生は房飾りのある帽子を額に掲げ、仏陀と菩薩への礼賛を唱え、仏陀の生涯を語る。次に、候補生はラマ・シュンレパから与えられた詩について語り、僧院長が遮るまでこれを続けた。それから、候補生は問答の題目を挙げる。かつては、他の問答参加者が挑戦として選んだ題目であったが、後に形式的なものとなり、縁起の良い題目だけが選ばれるようになった。候補生は最後に主要5学科の科目の要約を唱える。ドライフルーツが僧院長とトゥルクたちにうやうやしく捧げられ、残りは参加者に投げ与えられた。

それから挑戦者が立ち上がり、悟りの心についてなど縁起の良い題目を選び、候補生と問答を始める。長い公開問答では、もう通常の問答には出席しないような経験豊かなゲシェーたちが挑戦者となった。続いて、高僧の生まれ変わりであるツォクチェン・トゥルクたちが挑戦する。各問答の長さを決定するのは僧院長であった。短い問答では、まだゲシェーになっていない僧やゲシェー候補生、他のトゥルクたちも、最年少の者まで参加を求められた。題目は阿毘達磨学と戒律学、続いて中観学である。問答が終わると、ラマ・シュンレパが立ち上がり、その日の出来事を称え、全ての徳を回向し、ダルマの広まりを祈った。

ゲシェー・ラランパの候補生はさらにもう一つ問答を行わなくてはならなかった。それは、ジャン寺の冬の集会で夜通し行われる論理学の問答であった。挑戦者は皆熟練の論客で、集会に参加する僧たち全員がこのイベントを熱心に見守った。

チベット暦1月24日、大祈願祭の終わりに、ゲシェーたちは学位を授与された。ダライ・ラマがラサにいる時は、ジョカン寺の階上で式を執り行った。ゲシェー候補生たちは集会堂の外で待ち、政府役人によって名前と階級が読み上げられると、中に入って贈り物の衣とドライフルーツを受け取り、集会の席に着く。候補生たちの学堂から応援に来た群衆は、誰が最高位を獲得したのか見ようと不安げに外で待った。大祈願祭のときにダライ・ラマがラサにいない場合は、ゲシェーの学位授与はポタラ宮で行われた。

ゲシェーの学位は17世紀、ダライ・ラマ5世の時代に正式に制定された。しかし20世紀になると、他の古い制度と同様に、学位授与は単なる慣例と見なされるようになった。ダライ・ラマ13世はモンゴル訪問中、現地の学者たちの能力に大いに感銘を受け、このことに気づいた。彼はゲシェーのシステムを改革し、学問の水準を上げることを決心してチベットへ戻った。これらの改革が行われるまで、ゲシェー・ラランパとツォランパは、完全に各学堂の僧院長の裁量によって与えられていた。時には年配の僧侶が、ただ年を取っているということで学位を授与されていた。改革の前年、ダライ・ラマは何人かのゲシェー・ラランパ候補生が資格を満たしていないと伝え、今後はふさわしい候補生だけが来るようにと警告した。翌年、僧院長たち問答補佐役に相談することが義務づけられ、ノルブリンカでの試験が制定された。何人かの候補生はふさわしくないと判断され、資格を剥奪され、罰金を課された。ダライ・ラマ13世はまた、タントラ学堂の教育水準を上げ、ゲシェーたちの教育をタントラの徹底研究によって完成させるため、階級を与えられたゲシェーたちは二つのタントラの学堂、ギュトとギュメに入ることを義務づけた。

チベット仏教

チベットについて

チベットの文化と習慣