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チベットの民主主義の発展 ダライ・ラマ法王の指導力とビジョンの賜物

2022年9月2日
アリヤ・ツェワン・ギャルポ著【*】

「悲劇は、前に進むための力の源泉と捉えられなければなりません。いかなる困難に直面しようとも、どんなに苦しい経験をしようとも、希望を失ってはなりません。希望を失うことが真の悲劇なのです。」(ダライ・ラマ法王)

ダライ・ラマ法王来日の時(チベットハウス)

ダライ・ラマ法王来日の時(チベットハウス)

中国は、解放という名の下、チベットを侵攻しました。そして、政治的、社会経済的な意図の下、チベットを植民地化しました。中国が、チベットのこと、チベットに暮らす人々のことを真剣に気にかけたことは一度もありません。この上なく残忍な中国共産党の統治の下、チベット人は苦しんできました。その苦しみは今なお続いています。60年以上にわたり、中国政府は、チベット人の自由の精神を破壊すべく、そして、チベットの文化と宗教のアイデンティティを根絶やしにすべく、あらゆる手段を講じてきました。しかし、チベット内外のチベット人は地に足をつけ、抵抗を続けてきました。好戦的な中国政府に対し、チベット人は非暴力で対抗しました。故郷で弾圧が続き、難しい政治状況に見舞われる中、チベット人は耐え忍んできました。チベット人の中にあったのは、謙虚さと戒律を正しく守る心でした。この間、チベット人は世界に多大な貢献をしました。平和、調和、非暴力の旗を世界中にはためかせたのです。古より伝わるチベット精神の叡知、非暴力の文化を、国際社会は高く評価してきました。また、チベット土着のボン教、仏教は、インドで、アジアで、そして、世界で再び花開きました。亡命先で暮らすチベット難民は、活力のある健全な民主主義を確立しました。チベット難民が確立した民主主義は、あらゆる独立国の民主主義と比較しても遜色のないものです。チベット人の非暴力、活力のある民主主義、思いやりの文化、智慧と創造性、信仰の中心にいらっしゃるのが、他ならぬダライ・ラマ法王14世テンジン・ギャツォです。チベット人が故郷を追われ亡命を余儀なくされる苦難を乗り越えられたのも、新たな民主主義体制の下で強く団結できたのも、ダライ・ラマ法王の細部にまでわたる献身と指導者としての卓越したビジョンのおかげなのです。

民主主義は、「人民の人民による人民のための政治」というアメリカ合衆国第16代大統領エイブラハム・リンカーンの言葉に凝縮されています。紀元前5世紀、ギリシャのアテネで、「人民の力による統治」という概念が生まれました。現代世界では、民主主義は世界で最も幅広く受け入れられ、支持される政治形態となりました。歴史上、様々な国で、様々な状況の下、多くの政治形態が登場し、試されましたが、民主主義が最も受け入れられた政治形態であることを歴史は示しています。民主主義が誕生し受け入れられるようになるまでには、多くの努力と犠牲が伴いました。専制君主や独裁者に対して、人々は立ち上がりました。平和的に民主主義に移行し、権限が権力者から民衆に委譲された例は、古から現代にいたるまでほとんどありません。アラブの春やジャスミン革命は、人々がどのようにして民主主義を目指し、手に入れたのかを示す典型例と言えます。しかし、チベットの場合、民主主義は平和的に発展しました。それも、チベットが歴史的苦難に見舞われている時期に、です。人々に権限を与えることを主張したのは、ダライ・ラマ法王です。チベットの民主主義は時間をかけて発展しました。この間、人々が置かれている状況を考慮して民主主義は推し進められ、人々は変革に対する準備を行い、民主主義に対する適切な理解を深めていきました。

チベット難民たち1960頃(チベット博物館)Tibet Museum, CTA

チベット難民たち1960頃(チベット博物館)Tibet Museum, CTA

1950年代のチベットは苦難に見舞われていました。中国軍は東チベットから侵攻を開始しました。ラサへと逃れた人々によって、中国軍の残忍さと大虐殺は人々の知るところとなりました。中央チベットは大きな恐怖と不確実性に包まれました。民衆はチベット政府に助けを求めました。当時チベット政府のかじ取りをしていたのが、わずか16歳のダライ・ラマ法王でした。ダライ・ラマ法王は若くしてチベット政府の指導者となり、好戦的な中国軍と交渉を行われました。法王は希望を失うことなく、人々の恐怖心を鎮めました。法王は、チベットおよびヒマラヤ地域の人々の信仰に忠実に、思いやりの心を持つ観世音菩薩の生まれ変わりとしてあらゆることを行われました。

1951年、16歳でチベットの政治・宗教のトップに立ったダライ・ラマ法王は、ダライ・ラマ法王の側近ではなく、一般市民が決定を行うべきだと考えられました。このためには、民主的に選ばれた指導者が必要でした。そして、政治的権限を民衆に適切に委譲するには、民主的な代表者による政治システムを導入する必要がありました。若き法王は、改革委員会を組織し、民主改革を開始されました。一般民衆が置かれている状況を改善し、国家を近代化し、発展させるためでした。あいにく、中国の侵攻により、法王の改革の構想と努力は頓挫することになりました。そして、チベットの状況は混沌となりました。好戦的な中国軍の大虐殺から人々を救うべく、法王は、中国側を挑発することなく交渉を行い、状況を鎮めようと最大限の尽力をされました。1951年に結ばれた17か条協定は、中国当局の脅迫下で調印された不平等なものでしたが、法王はこの協定に従って中国人と共存すべく最大限の努力をされました。法王の尽力が失敗に終わり、自身がチベットに留まればさらなる人命が失われると悟った法王は、インドへと政治亡命する決断をされました。1959年3月のことでした。そして、法王は、故郷と故郷の人々のために、自由と正義のメッセージをインドから世界へと発信されたのです。

1951年に中国当局の脅迫下で調印された不平等な17か条協定(Tibet Museum CTA)

1951年に中国当局の脅迫下で調印された不平等な17か条協定(Tibet Museum CTA)

チベットに適切な現代教育が不足していたことで、チベットが現代世界の一員となれず独立を維持することができなかったという苦い教訓から、法王は、インド政府と協業して、学校を設立し、若いチベット難民の教育を行われました。そして、チベットで始めた民主改革を再開されました。亡命の翌年の1960年、ブッダが涅槃に到達された聖地ブッダガヤで、法王は、チベット人コミュニティの民主化の種を蒔かれました。ティーチングに参加したチベット難民のグループに対し、法王は、民主主義を説き、民主主義の道を選ぶ利点について教示されました。「私たちは国を失ったばかりです。今、私たちに必要なのは議会です。一般選挙を通じてチベット人が候補を選ぶことができる議会です。」若き指導者はこう語りかけました。最初の議員のうち9人は、ウツァン、アムド、カムの出身者からそれぞれ3人ずつ選ばれました。また、チベット仏教の4宗派から1人ずつが選ばれました。1960年9月2日、選ばれた計13人の議員は宣誓を行い、チベット議会の設立が発表されました。当時、議会は、チベット人民代理委員会と呼ばれていました。

法王は、新たに選出された議員を祝福する一方、議員の責務について説かれました。そして、よりよい統治を行い、民主化を加速すべく、いかに内閣や民衆と協業していくかについても説かれました。議員と内閣の間では、省の拡大と担当者の任命が議論され、政策が策定されました。民主主義の初期においては、議員は省内の公務員と協業していました。この後、チベット議会と政権は幾度かの大きな変革を経験することになります。まず、女性の平等な政治参画が必要と考えられ、ウツァン、アムド、カムの出身者から女性がそれぞれ1人ずつ選ばれることとなりました。1964年には、法王の裁量で1人の議員が選ばれるようになり、議員は合計で17人となりました。1976年、第6次委員会では、ボン教から1人が選ばれるようになりました。1979年、第7次委員会で、チベット人民代理委員会はチベット人民代理総会へと改称されました。

最初のチベット国会議員 1960-64

最初のチベット国会議員 1960-64

1963年、10章77条から成る憲法が制定されました。憲法は、中央チベット政権の道標となり、未来のチベットのビジョンを示しました。憲法は、まず、ダライ・ラマ法王によって起草され、フィードバックとコメントを求めるため、議員、公務員、民衆に提示されました。草案は提案を盛り込んで改訂され、最終版の完成は1963年3月でした。憲法では、基本的権利と市民の義務について記されています。民主主義の柱である、司法、立法、行政、そして、それぞれの権限、義務、任命について詳述されています。チベット内外のチベット人はこの憲法を誇りに思い、自由と正義を求める闘いを前に進めるために必要な指針を手にすることができたのです。1991年、この憲法は、当時の状況を鑑みて改正されました。また、中央チベット政権が機能するための指針として、チベット難民憲章も制定されました。

1991年、大きな変化が起きました。ダライ・ラマ法王が議員の数を増やすことを発表され、法的・行政的権限をさらに議員に委譲することを提案されたのです。これを受け、議員の定数は46となりました。その内訳は、チベットの3州からそれぞれ10人ずつ、5つの宗派からそれぞれ2人ずつ、ヨーロッパと北アメリカから3人、法王の推薦者が3人でした。最高裁判所も設置され、民主主義の3本の柱が完成しました。最高裁判所は、チベット難民社会の問題の仲裁や司法的な責務を果たしました。チベット難民憲章の採択の結果、独立した監査委員会、公共サービス委員会、選挙管理委員会も生まれました。議員には、ダライ・ラマ法王、内閣、3つの委員会を弾劾する権利も与えられました。法王は、ダライ・ラマ制度をチベット憲章の上に置くのではなく、憲章に従属させると主張されました。そして、法王の政治的権限を民主主義の3本の柱に委譲する計画を発表されました。しかし、法王のこの考えを人々はすんなりとは受け入れませんでした。チベット内外のチベット人からの要請を受けたダライ・ラマ法王は、政治指導者としての地位に留まることに同意されました。しかし、法王は、ゆくゆくは自身の政治的権限を民主的に選ばれた指導者に委譲する旨を明確に宣言されました。チベット内外の機が熟したとき、チベットの民主主義による統治が高い次元に達したときには、政治指導者としては完全に引退する意思を法王は明確にされました。しかし、この権限の委譲と政治指導者からの引退は、法王自身の失望やチベット問題への希望の喪失を意味するのではないと、法王は明言されました。法王からの権限移譲は、完全に機能するチベットの民主主義社会という長きにわたり法王が心から待ち望んできた夢が成就した証なのです。

「私たちの伝統と現代世界の要求の両方に適合した政治システムを考案することを若い頃から夢見てきました。海外に亡命して以降、私たちは、選挙で選ばれた代表者から成る議会をつくろうと努力してきました。このようなシステムを発展させる努力が具現化したのが議会です。今、私たちは新たな変革に取り組んでいます。それは、民主主義をさらに推し進め、亡命政権を強化することです。これらの変革によって、チベットの将来を決定する際に人々が明確な意見を持てるようになることを私は望んでいます。」

この後も民主改革は進みました。大きな節目を迎えたのが、2001年と2011年です。ダライ・ラマ法王は、大臣と主席大臣(日本の首相に相当)を民衆による直接選挙で選ぶことを提案されたのです。これを受け、2001年、サムドン・リンポチェ教授が主席大臣に選ばれました。他の大臣は議会の承認を得た後、サムドン・リンポチェにより任命されました。2006年、法王は、議員のうちの3人を法王の推薦者とする制度を廃止しました。第14次議会(2006~2011年)では、議員の中に法王の推薦者はいませんでした。2006年、サムドン・リンポチェ教授は再選を果たし、2期目の主席大臣をつとめることとなりました。民衆が政治的責任を果たすことができるようになったと判断した法王は、第52回チベット蜂起記念日(2011年3月10日)に、政治指導者からの完全な引退を発表されました。そして、難民憲章の改正を提案されました。議員の大半が法王の決断に反対し、法王が政治的指導者の地位に留まるよう求めましたが、今回は法王の決意が揺らぐことはありませんでした。

「1960年代初め、私は、チベット人の自由意思で選ばれた指導者が必要だと繰り返し強調しました。そして、その指導者に私の政治的権限を委譲しようと考えていました。今、まさにこの時が来たのです。チベット問題については私の立場でできることを続けていきます。人々が徐々に私の意図を理解し、私の決断を支持し、それが実行に移されると私は信じています。」ダライ・ラマ法王はこう述べられました。

こうして、2011年の主席大臣選挙は、民主主義の歩みを進めるチベットの歴史の中で、大きな節目となりました。第14代内閣の主席大臣を選ぶ選挙にチベット内外のチベット人が大きな関心を寄せ、候補者を慎重に吟味しました。これ以前とは違い、2011年の選挙の際は、有力な三候補が公開演説、討論を行いました。演説、討論の内容は広く回覧され、人々はこれに目を通しました。チベット本土のチベット人は選挙に参加することはできませんでしたが、選挙に強い関心を示し、成り行きを注視していました。指導者の選挙のために候補者と民衆の双方がこれほどまでの熱狂とエネルギーに溢れたのは、チベットの歴史上初めてのことでした。そして、2011年3月20日、ハーバード大学を卒業した若きロブサン・センゲ博士が主席大臣に選ばれました。同年8月8日、ダラムサラで一般民衆参加の下、 就任式が行われました。このとき、チベットの内閣の印がロブサン・センゲに手渡されました。古くからの伝統に則った政治的権限の委譲の瞬間でした。このときのことについて、ダライ・ラマ法王は次のように演説されました。

「私が当時の摂政タクダク・リンポチェから政治的権限を委譲されたのは16歳のときでした。民主主義が繁栄を謳歌している21世紀の今日この日、私は、チベットの政治指導者の権限をロブサン・センゲ主席大臣に委譲します。」

この1年後、「主席大臣(カロン・ティパ)」の肩書きは、政治指導者を意味する「シキョン」へと変更されました。「シキョン」の称号の由来は、ダライ・ラマ5世(1617~1682)の時代に遡ります。この時代、センゲ・ギャツォに政治的権限が委譲される際、「デシー」の称号が授与されました。その後の歴代ダライ・ラマの統治の期間(300年超)、ダライ・ラマが不在あるいは幼少の場合は、デシーが政治的権限を担っていました。その後、デシーの称号はシキョンとなりました。この伝統あるシキョンの称号を、現代のチベット人は選挙で選ばれた指導者という形で引き継いでいるのです。

ダライ・ラマ法王と主席大臣ロブサン・センゲと元主席大臣サムドン・リンポチェ(2011年ダラムサラ) Tibet.net

ダライ・ラマ法王と主席大臣ロブサン・センゲと元主席大臣サムドン・リンポチェ(2011年ダラムサラ) Tibet.net

ダライ・ラマ法王には当初からわかっていたことがあります。それは、チベットが国家として、チベット人社会が社会として生き残り、繫栄していくためには、民主主義と民主的な指導者が長きにわたって存在することが必要だということです。法王は、その時々のチベット人の考え方に合わせて、賢明な方法で民主主義を紹介し、教育してこられました。チベット人はダライ・ラマ法王に大きな敬意を抱いており、チベット人には民主主義という概念がなく、法王のリーダーシップに完全に満足していました。法王は、民主化を進めるため、チベット社会を近代化する上で、自分自身が障害になっていると考えておられました。法王がご健在の間は、チベット人の心からの信奉と献身のおかげで、すべてがうまくいくかもしれません。しかし、法王亡き後の世界については、保証はできません。ダライ・ラマの継承の時期には、情勢が不安定になり、チベット人はその困難に耐えなければならないことは、歴史から明らかです。チベット人は同意しないかもしれませんが、法王はチベット人に新たな取り組みをさせ、民主主義政府の必要性を説かなければならなかったのです。法王は、民主主義を純粋な形でチベット人に手渡されました。これは、ブッダが深淵な教えを人々に授けたのと同じです。ダライ・ラマとダライ・ラマ制度は、チベットの歴史とは不可分の存在です。チベットの歴史上最も困難な時期にチベット人を導いてくださったダライ・ラマ法王14世は、未来永劫忘れられることはないでしょう。元主席大臣サムドン・リンポチェ教授は、ダライ・ラマ法王に次のような賛辞を贈っています。

「ダライ・ラマ法王に依存することのないチベットの民主主義体制をつくりあげようと、この30年間、ダライ・ラマ法王はビジョンを持って絶え間なく人々を導いてこられました。そして、ダライ・ラマ法王が待ち望んだ政治体制がついに実現しました。私たち全員にとって、素晴らしい瞬間です。ダライ・ラマ法王は、どの歴代ダライ・ラマよりも長い間私たちを導いて下さいました。ダライ・ラマ法王の政治的、宗教的業績は、過去の13人のダライ・ラマの業績すべてを合わせたものをはるかに上回っています。」

今日は第54回のチベット民主主義記念日です。振り返ると、ダライ・ラマ法王が、チベット人社会に民主主義体制を導入し育もうと、心から多大な尽力をされてきたことが改めてわかります。1959年に故郷を失い難民となった私たちは、ダライ・ラマ法王のお導きの下、亡命先で生き延びることができました。自分たちの足でしっかりと立てるようになりました。これは、民主主義体制の確立による賜物です。私たちはまだまだ歩みを続けていかなければなりません。しかし、自由な民主主義社会を追求するために、私たちの団結を強めるために、そして、チベットで自由と正義を取り戻すべく闘うために、私たちがこれまでに難民社会で手にしたものはずっと役に立ち続けます。故郷で銃口を突きつけられて奪われたものを、私たちは亡命先で手に入れたのです。中国政府は先例に学び、人々に権利を委譲するべきです。中国政府がすべきことは、ダライ・ラマ法王を虐げ、遠ざけることではありません。国際社会同様、ダライ・ラマ法王を受け入れ、法王の智慧に学ぶことです。法王が提唱された中道政策は、国際社会の指導者から絶賛されています。中道政策は、チベットと中国をともにウィン・ウィンの状況に置く実践的アプローチです。中道政策のメッセージはシンプルです。「中国はチベットを弾圧しない。チベットは中国から分裂しない。」

ダライ・ラマ法王は、政治的権限を選挙で選ばれた指導者に委譲されました。政治的権限を委譲された今、法王は、観世音菩薩の業績に忠実に、生涯にわたって取り組むと明言された3つのミッションのうちの2つに手を止めることなく取り組んでおられます。その2つとは、人間の価値観と世俗倫理を広めること、宗教の調和を広めることです。しかし、政治的権限の委譲は、チベット問題に関して口出しできないことを意味するのではないと、ダライ・ラマ法王は明確に述べておられます。チベットの一市民として、法王は、チベット問題について発言するあらゆる権利を有しておられるのです。ここで、私は謹んで筆を置きたいと思います。そして、私たちと同じ時代に生きる偉大な宗教的、政治的指導者に賛辞を贈りたいと思います。現在の輪廻の旅、この先の旅の道案内と祝福をお願いすべく、ダライ・ラマ法王の長寿と末長い健康をお祈りいたします。

宇宙が存在する限り、生きとし生けるものが存在する限り、ダライ・ラマ法王がご健在で、世界の不幸を晴らしてくださいますように

ペンパ・ツェリン首相、最高裁判所の長官と判事、議長と副議長(2022年5月)

ペンパ・ツェリン首相、最高裁判所の長官と判事、議長と副議長(2022年5月)



【*】本記事の英語版は2015年に執筆されました。当時、ツェワン・ギャルポ・アリヤ氏は、ダライ・ラマ法王ニューデリー代表部事務所で事務局長をつとめていました。

参考文献
  • Central Tibetan Administration, Charter for Tibetans in Exile, Dharamsala, 1963
  • Central Tibetan Administration , Tibetans in Exile 1959-1980 by The Information Office, Dharamsala 1981
  • Central Tibetan Administration, Constitution of Tibet 1963, Dharamsala
  • DIIR Publications, His Holiness the Dalai Lama, Speeches Statements, Articles and Interviews 1987 to June 1995. Dharamsala 1995
  • H.H. the Dalai Lama, My Land and My People, Potala Corporaton, USA
  • Jamia Milia Islamia Lecture Series. Democratization in Exile: The case of Tibet by Dr. Lobsang Sangay, 2012
  • Tibetan Parliament & Policy Research Centre, Tibet's Parliament in Exile, 2009. New Delhi
  • Tsepon Shakappa , Tibet: A Political History, Potala Corporation, USA
  • Tibet House, Prayer book, New Delhi 2014
  • Internet, 50 Dalai Lama quotes to enrich your life:: https://quotesnsmiles.com/quotes/50-dalai-lama-quotes/#sthash.84P3jQvk.dpuf
  • https://www.phayul.com/
  • https://tibet.net/
(翻訳:Kameda Hirofumi)

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