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『了義未了義善説心髄』と『入中論』の法話会 3日目

2020年10月4日
インド、ヒマーチャル・プラデーシュ州ダラムサラ

台湾の仏教徒のリクエストによる『了義未了義善説心髄』の3日目の法話を始めるに当たって、法王は次のように述べられた。
「今日も皆さんにご挨拶申し上げます。皆さんは『般若心経』の最後に、“三毒の煩悩を滅することができますように。正しい智慧を得て真実の光が輝きだしますように。罪と障りを悉く滅することができますように。常に菩薩道を実践することができますように” という『四弘誓願しぐせいがん』を唱えておられますが、この偈を単なる祈願とするより、“常に菩薩道を実践しよう” という決意にすべきだと思います」

法話会の3日目、法王公邸の居室に入られ、モニターに映し出された僧侶や台北の在家信者たちに手を振って挨拶されるダライ・ラマ法王。2020年10月4日、インド、ヒマーチャル・プラデーシュ州ダラムサラ(撮影:テンジン・ジャンペル / 法王庁)

「どれだけ深い空性の体験をしたとしても、それだけでは一切智に至ることを妨げている所知障という微細な障りを滅することはできません。一切智の境地に至るためには菩提心が必要不可欠です。『入中論』の始めの部分には慈悲の心を称える偈がありますが、それは、慈悲の心が仏地を得るための種となるからです。修行道の半ばでは慈悲の心が菩提心を高める要因となり、仏陀となった暁には利他をなす力となります」

「では、『善説心髄』の続きを読んでいきましょう。テキストの終盤では、中観自立論証派と中観帰謬論証派の主張が吟味されています。ツォンカパ大師は『縁起讃』において、縁起の見解を根拠とすることにより、二つの極論を離れることができると説かれました。縁起の見解こそ、釈尊の教えの核心です」

法王は、チャンドラキールティ(月称)の『入中論』で説かれた、事物が客観的存在を有するという見解に導くことになる、以下の四つの論理的誤謬について説明された。

  1. 聖者の等引(禅定に入った状態)は事物を破壊する(という結果になってしまう)
  2. 事物には究極の存在が欠けていると教えることは誤りである(という結果になってしまう)
  3. 事物の世俗のありようは究極の分析に耐えうる(という結果になってしまう)
  4. 事物には固有の存在がないと述べることは誤りである(という結果になってしまう)

法王ご自身は、この四つの論理的誤謬について瞑想の中で反芻されていることを明かされ、人々は、人や意識に実体があると考えるかどうかにかかわらず、あらゆる現象にはある種の客観的で独立した実体があると見る傾向がある、と語られ、心に現れてきた対象が実体を持って存在しているのかどうかを吟味するならば、事物がどのように存在しているのかを分析していることになると述べられた。

法話会の3日目、モニターに映し出された僧侶や台北の在家信者たちに説法をされるダライ・ラマ法王。2020年10月4日、インド、ヒマーチャル・プラデーシュ州ダラムサラ(撮影:テンジン・ジャンペル / 法王庁)

1)聖者は事物に固有の実体があるかどうかの分析をした後で、空性の等引(深い禅定状態)に入る〔という〕。もし事物にそのような相(特徴)があるならば、聖者の意識によってそれらは見出されるだろう。もし事物に固有の実体があるならば、聖者による空性の等引はその実体を破壊するものとなるだろう〔−−−という議論は論理的に不合理である。〕

もし、自相が〔自性によって成立する因や条件に〕依存して生じるならば
自性〔による成立〕はないと考えることによって事物は消滅するため
空性が事物の消滅の因になる
しかしそれは論理に反するので、事物は存在しない(『入中論』第6章34偈)

2)もし事物が他の要素に依存することなく、それ自体に固有の実体があるならば、世俗のありようは究極の分析に耐えることになってしまうだろう〔—−−という議論は道理に反する。〕もし事物の実体はこれであると指し示せるならば、究極の分析に耐えられることになってしまう。しかし瑜伽行者は、どこにもこれと指し示せる実体を見出すことはない。他の学派では、量(正しい認識の根拠)の対象は外界に存在する客観的存在でなければならないと主張するが、正しい認識の根拠とは、認識したとおりのあり方で存在するという認識のことである。

下の学派では、対象を定義する相(特徴)を伴う認識が正しい量であるとする。もしそうなら、その対象は究極の分析に耐えうることになるが、実際には、それ自身としての実体を持つものは存在せず、世俗において認められるだけである。

これらの事物を分析してみるならば
真如を本質として持つ事物以外に
とどまる所を見出すことはできない
ゆえに、世間において言葉で述べられた真理(世俗諦)を分析するべきではない(第6章35偈)

もし、事物に何らかの核となるような実体があるならば、世俗のありようが究極の分析に耐えうるという論理的誤謬に陥ることになるだろう。

法話会の3日目、モニターに映し出された僧侶や台北の在家信者たちに向けて、ツォンカパ大師の『善説心髄』の解説をされるダライ・ラマ法王。2020年10月4日、インド、ヒマーチャル・プラデーシュ州ダラムサラ(撮影:テンジン・ジャンペル / 法王庁)

3)もし、何らかの核となるような事物が因から生起するならば、究極のありようにおける生成が生起することもも否定できなくなってしまうだろう。

4)一切の現象はその自性が空であるという釈尊の教えは真実ではなくなってしまう。何らかの現象が空であると言う時、私たちが分析しているその事物の自性が空であると言われているのである。

真如について述べる時
それ自体から、あるいは他から生じることは論理的に正しくない
それは世間の言説においても論理的に正しくない
あなたの言う生成とはどうやって存在することになるというのか(第6章36偈)

事物は空であり、映像などの集まりに依存していることは
広く知られていないわけではない(第6章37偈前半)

そして法王は、次のように述べられた。
「事物にはそれ自体に固有の実体は一切ありません。ただ名前を与えられたことによって存在しているだけであり、条件に依存して生じています。私たちがしき(物質的存在)の空を語る時、しきはそれ自体の自性が空であることがわかります」

「ここに述べた四つの論理的誤謬は、ツォンカパ大師の『了義未了義善説心髄』と『菩提道次第広論』の観の章においても触れられています」

『善説心髄』には次のように述べられています。

この特別な否定は『入中論』の根本偈の中で述べられている3つの理由と、『入中論自註』の中で述べられている1つの理由によってなされている。

その第1は、「聖者の等引とういん(禅定に入った状態)は現象を破壊するという結果になってしまう」と言われている。

四つの特別な理由の第2は、「世俗のありようは分析に耐えうるという結果になってしまう」と言われている。

四つの特別な理由の第3は、「究極の生成を否定しないという結果になってしまう」と言われている。

四つの特別な理由の第4は、「事物には固有の実体がないという仏典の記述は誤りであるという結果になってしまう」と言われている。

「事物は思考、言語、概念によって名付けられただけの存在に過ぎません。空性が現象を空にするわけではなく、一切の現象は原初から空であり、事物それ自体が空の本質を持つものなのです。事物以外の何ものかによって空になるのではありません。ツォンカパ大師がこのテキストで説かれている主要なポイントのひとつはこれです」

法話会の3日目、『善説心髄』を読みあげられるダライ・ラマ法王。2020年10月4日、インド、ヒマーチャル・プラデーシュ州ダラムサラ(撮影:テンジン・ジャンペル / 法王庁)

「『入中論』では、菩薩が菩薩の十地の初地に達すると、菩薩の系譜にあるという意味で声聞や独覚を凌駕すると述べられています。そして菩薩が第七地に達すると、彼らを智慧によって凌駕します。チャンドラキールティはこの点を『入中論自註』の中でも述べており、その際、たとえ声聞や独覚の聖者であっても、彼らは直観で空を理解すると述べています」

「粗いレベルの人無我を理解することでも、実体に捉われた自我への執着をある程度減らすことができますが、非仏教徒の修行と同様に、それだけではすべての煩悩を断滅することはできません」

「人無我を完全に理解するには、法無我を理解する必要があります。チャンドラキールティはナーガールジュナの『宝行王正論』の下記の偈を引用しています」

五蘊ごうんに対するとらわれが存在する限り
我執も存在する
我執が存在するならば行為が生じ
行為から誕生が生じる(第1章35偈)

「以前、私がツォンカパ大師の『五次第灯明』を読んでいた時のことですが、突然稲妻に打たれたような感覚がありました。自分の実在感がまるでない感じでしたが、『宝行王正論』の上記の偈を読んだ時には、自我が実在しないと感じるだけでは十分ではないことを理解しました。皆さんも自我には実体がなく、単に名前を与えられただけの存在であると感じるようになる必要があります。五蘊には実体があるという考えを克服できるまでは、人無我の理解も完全なものではありません。この『宝行王正論』の偈は実に重要です」

「私は『入中論』と『善説心髄』に書かれている “四つの論理的誤謬” について毎日熟考しています。私たちチベット人は “オム・マニ・ぺメ・フム” という観音菩薩の真言をよく唱えますが、この “四つの論理的誤謬” について日々深く考えることも役に立つでしょう」

法話会の3日目、ダライ・ラマ法王の前に設置されたモニターに映し出された台北のホールの情景。2020年10月4日、インド、ヒマーチャル・プラデーシュ州ダラムサラ(撮影:テンジン・ジャンペル / 法王庁)

「空について考えることも重要ですが、菩提心を育むこともまた重要です。シャーンティデーヴァの『入菩薩行論』は、自己中心的な態度に打ち勝つための最もすぐれたテキストであり、その中でシャーンティデーヴァは以下のように明確に述べています」

この世のいかなる幸せも
他者の幸せを願うことから生じる
この世のいかなる苦しみも
〔自分だけを大切にして〕自分の幸せを求めることから生じる(第8章129偈)

多くを語る必要がどこにあろう
凡夫は自利を求めて〔望まぬものをすべて得て〕
成就者〔仏陀〕は利他をなして〔すべてのすばらしきものを得る〕
この二者の違いを見よ(第8章130偈)

自分の幸せと他者の苦しみを
完全に入れ替えなければ
仏陀となることはできないし
輪廻においても幸せを得ることはない(第8章131偈)

「私たちは苦しみを望まず、幸福を求めていますが、自己中心的な態度によって世界中にあらゆる種類の苦しみや問題を作り出してしまっています。利己主義を放置している限り、仏陀の境地に至ることはできません」

ゆえに、落胆や疲れをすべて取り除く
菩提心という馬に乗って
幸せ〔な生〕から幸せ〔な生〕へと進んでいくことを知ったなら
いったい誰が怠惰な心を起こしたりするだろうか(第7章30偈)

「私は毎日空と菩提心について瞑想していますが、皆さんにもそうするようお勧めします。この二つが主要な修行です。それをよく学び、よく考え、そして瞑想して下さい」

ここで法王は、この法話を短い菩提心生起の儀式を行うことで締めくくりたいと述べられた。モニターに映し出された聴衆に向かって、釈尊がその八大弟子や諸菩薩、ナーガールジュナのような大成就者たちと共に、法王の頭上に座っておられるように観想するよう指示された。

法話会の3日目、モニターを通して短い菩提心生起の儀式を執り行われるダライ・ラマ法王。2020年10月4日、インド、ヒマーチャル・プラデーシュ州ダラムサラ(撮影:テンジン・ジャンペル / 法王庁)

クヌ・ラマ・リンポチェはその著作『菩提心讃』の中で、心の平安を得るためには、菩提心を修行すべきであると書かれている。他者を利益することと、来世において善趣に転生することは菩提心を育むことによって得られるのだから、菩提心は自他に利益をもたらす要素のひとつとなっている。

法王は、儀式で唱える主要な偈を幾つか唱えられ、聴衆に菩提心について瞑想するようにと言われた。

私は三宝に帰依いたします
すべての罪をそれぞれ懺悔いたします
有情のなした善行を随喜いたします
仏陀の悟りを心に維持いたします

仏陀・仏法・僧伽〔の三宝〕に
悟りに至るまで私は帰依いたします
自他の利益をよく成就するために
菩提心を生起いたします

最勝なる菩提心を生起したならば
一切有情を私の客人として
最勝なる菩薩行を喜んで実践いたします
有情を利益するために仏陀となることができますように (3回読誦)

儀式の締め括りには『入菩薩行論』から、菩提心生起を授かったことを喜ぶ偈を幾つか繰り返し唱えられた。

今、〔菩薩戒を授かり〕
私の人生は実りあるものとなりました
人間の恵まれた生を得て、今日、仏陀の系譜を持つ者として生まれ
今こそ仏陀の息子(菩薩)となることができますように(第3章26偈)

今、私は何としてでも
この系譜にふさわしい〔四摂事、六波羅蜜など菩薩の〕善き行ないを始めて
過失のない清らかなこの系譜を
汚すことのないようにいたします(第3章27偈)

ここで質疑応答セッションに移られた法王は、聴衆からの質問に答えて、人無我と法無我について解説された。私たちには常に苦しみがつきまとっており、始まりなき遠い昔より実在しないものを実在すると考える間違った考えに捉われているため、結果として輪廻の生には苦しみが絶えないのである。

法話会の3日目、モニター越しにダライ・ラマ法王に質問する台北の在家信者。2020年10月4日、インド、ヒマーチャル・プラデーシュ州ダラムサラ(撮影:テンジン・ジャンペル / 法王庁)

完璧な幸福とは何かという質問に対して法王は、『入中論』の第6章から以下の偈を引用された。

このように、智慧の光の現れで明らかにする者は
自らの手にあるキュルラ(果実の一種)のように
この三界のすべてを、無始の時より不生であると理解して
世俗諦の力によって滅諦に赴く(第224偈)

〔第六地の菩薩は〕常に滅諦を考察する三昧で
守護者を持たない有情に対し、慈悲の心を起こされる
さらに、〔この菩薩は、〕如来のお言葉より生じた者(声聞)、
中位の仏陀(独覚)とともに、すべての者たちをその智慧で打ち負かす(第225偈)

世俗と勝義という大きな白い翼を広げ
この白鳥の王者を普通の白鳥の先頭に据えて
善の風の力で勝利者(仏陀)の功徳の海を越え
最勝なる彼岸へ飛んでいく(第226偈)

科学実験においてネズミなどが実験台に使われていることについて問われ、法王は、もしそのような実験が人間や生き物たちに利益をもたらすものであり、意図的に苦しみを与えようという考えからでなければ、受け入れられると答えられた。他者の苦しみを引き受けるという観想は、心を訓練するためのものであり、一般的には現実における違いを引き起こすことはない。仏陀や菩薩は虚空の中に無数に存在するが、有情の苦しみを直接的に取り除く効果があるわけではない。

法話会の締め括りとして、法王は次のように述べられた。
「このテキストの核心となる重要な点については説明したと思います。新型コロナウイルスの世界的大流行が来年には終息して、ここダラムサラのツクラカンやブッダガヤで再び法話ができる日が来ることを願っています。できる限り法を説くことが私自身の使命だと考えていますが、一方で私たちは皆、注意深く行動する必要があります」

「釈尊は、“私たち自身が自分の主である” と述べられており、どのような人生にするかは自分自身の手の中にあると言われました。大切なことは仏法を実践することであり、菩提心を高め、空の理解を育むことです。もちろん私も、本尊ヨーガの修行をしていますが、それが私自身のための菩提心と空の理解を育む修行であり、実際に私自身の心に大きな変容をもたらしてくれました。このような修行に必須のテキストが、『入菩薩行論』『根本中論頌』『入中論』なのです」

「私自身、私の心にある程度の良き変容が得られたと感じていますし、皆さんも同じように修行すれば、その成果を得ることができます。仏陀でさえ私たちがなした汚れた行いを水で洗い流すことはできず、ましてや有情の苦しみをその手で取り除くこともできません。またご自身が得た理解を私たちに与えてくださることもできません。仏陀はただ、真如という真理を示すことで有情を救済されているのです」

「教えをよく学び、よく考え、よく瞑想(聞・思・修)するならば、良き心の変容は手の届くところにあるのです」

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