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母を想う心、チベットを渡る

2002年5月12日
テンジン・パゲンの手記(米国:クランドラピッズ・プレス)

私が小さい頃、母は私の足を見るとチベットの諺を引用して、お前は大きくなったら遠くへ行ってしまう、お母さんには分かるよ、と言っていました。

なぜだか分かりませんが、母がそう言うたびに私は嬉しくなったものです。チベットを離れてからというもの、それは辛い思い出になりましたが。母に会いたくなると、私はあの時の母の言葉を思い出します。母には、もう15年も会っていません。

母の存在は、私の人生、特に私のチベット流の生活様式に影響を与えました。母は私に宗教的信仰心を教えてくれましたし、たくさんのチベットのおとぎ話もしてくれました。これら一つ一つが、私の信仰を形作っているのです。母は愛情と思いやりを持って私を育ててくれましたが、厳重な共産主義的プロパガンダの中で育っていたならば、私の性格はきっと今のようではなかっただろうと思います。

チベット人にとって、母親は世界で一番優しい存在です。この概念は、宗教にも織り込まれています。宗教では、この世に存在する全てのものに対する愛情と思いやりを発展させるために、前世では全ての人が自身の母であったこと、そしてそのために自身は全ての人に恩返しをしなければならないと教えています。母が私にしてくれた恩に対して、私は一体どうやって恩返しをすればいいのか。私にとって大変難しいことです。

私は、1986年に教育を求めて逃亡しました。ヒマラヤを徒歩で越えて、ネパール経由でインドに渡ったのです。私はパスポートや身分証明書など、自身の身元を証明できるものは何一つ持っていませんでした。

2001年、私はアメリカ市民となり、パスポートを獲得しました。私は、グランド・ヴァリー・ステート大学の春学期が終わるとすぐにサンフランシスコの中国領事館を訪れ、チベットへの観光ビザを申請しました。祖国を訪問するのに中国政府の機関に連絡を取らなければならないのは大変不幸なことでしたが、家族に会うためには仕方がありませんでした。中国政府は、チベットが中国内にあると信じたいのでしょう。もしも私が「チベット」訪問の観光ビザを申請したいと言っていたら、中国政府の職員を侮辱することになったでしょう。

グランドラピッズとその他友人の助けにより−そしてもちろん、魔法のトランプのおかげで−どうにか旅行代と飛行機代を準備することができたので、6月にサンフランシスコ国際空港から北京へ出発しました。直行便で11時間の飛行旅です。独立国家の一市民として権利を与えられ、自由になったということが本当に信じられない気持ちでした。パスポートを持っているというだけで、こちらの国からあちらの国へ短時間のうちに移動できるのです。

その日ホテルで過ごした一夜は、これまでの私の人生の中で一番長い夜でした。何しろ一睡もできなかったのです。全てのテレビ番組が中国語でしたが、共産主義がいかにして中国を支配したかという映画を観ました。次の日、チベットに行く観光客に許可証を発行している成都に飛びました。

フロントデスクでホテルへのチェックインをしていた時、誰かがチベット語で私に挨拶をしてきました。フロントデスクの傍のソファに座った男性が、いたずらな様子で、「チョラ カネ ペパ イン」(お兄さん、どこから来たのですか?)と言ったのです。彼はチベット人で、私もチベット人だと気がついたのでしょう。

「あなたはチベット人ですか?」私は、彼に会えて光栄だというふうにして尋ねました。初めての中国の町でチベット人に会って、私は嬉しかったのだと思います。残念なことに、この辺りでは見ず知らずの人を信用することはできませんから。

彼は私に、チベットに行くのかと尋ねました。私は、はっきり決めていないと答えましたが、彼の顔には、私がチベットに行くと確信していることが見て取れました。彼は、海外から来て許可証を得たチベット人は最近では一人もいないと言いました。

私には、家族に会わずにアメリカに戻るなどということは考えられませんでした。

その夜、私はチベットの友人たちに電話をし、自身が成都で許可証を申請する前にどうにかして許可証を獲得できる方法を探してくれるよう頼みました。友人たちは、つてをあたってくれました。半世紀にわたって中国に支配されてきたチベット人は、物事は何もかも自身の力でこなすよう、政府の「脇をすり抜ける」方法(チベットでいう賄賂)を学びました。経営者である私の友人の中にはこれを難なくこなす人たちもいますが、この時ばかりは彼らの知恵も底をついていました。

成都空港の通路には、それぞれの目的地に向かう人たちでごったがえしていました。人ごみを押し分けるのは、この国では誰もが持つ文化的権利なのでしょう。私は、なかなか動かない人の列と重い荷物とでだんだん汗ばんできましたが、飛行機に入って席に着くまではコートを脱がないつもりでした。

果たして私が飛行機までたどり着くことができたかどうかは、また別の話でしたが。

私は、セキュリティチェック・カウンターまで歩きました。私は、一番混雑していた昼の便を選んでいました。青色の制服を着た女性と男性が私の身分証明書を確認しました。

この瞬間、私は運命の分かれ道に直面したのです。チベットか、刑務所か、という運命に。彼らは私の顔を2、3度確認しました。そうして、私の身分証明書とチケットを戻してくれました。私は胸をなでおろしました。

成都を離陸してからすぐ、中国とチベットを隔てるカーテンのような、雪に覆われた山々が見えました。私は、これらの山々が、古代の偉大なチベット王たちの伝説を今に伝えてきたのだと感じました。共産主義国家である中国がチベット人たちに何をしようとも、またチベットのことをどのように言おうとも、この山々は真実を知っています。しばらくの間、私は山々がただそこにじっとしているだけで何も語らないことを責めました。でもそのうちに、山は山なりのやりかたでものを語るのだと悟りました。衛星放送が撮った写真を見ると、大地を囲った山々が、チベットはここにある、と示しているのですから。

一つ目の山の高さが私の眼下に差し掛かったとき、私は昔のカムパの人たちの証言を思い出しました。昔のカムパの人たちは、チベットを中国から守りぬき、その昔何世代にも渡り、チベット王たちがいなくなってしまった後も、そして中央チベット政府が衰弱してしまってもなお、多くのチベット兵から支持を受けました。これらの山々は、かつては今ほど白くはありませんでした。チベット人兵士たちと中国人侵略者たちの血で染まっていたのです。ここにある山々は、その昔その中を駆け抜けて中国帝国を自力で退けたチベット王の兵士たちの足跡を秘めている、そう思うと、何千年も前に生きていた兵士たちが、非暴力と愛情に満ち満ちたチベットからの正義を静かに待っているような気持ちがしました。

飛行機がラサ空港に到着したので窓を覗くと、12人ほどの警官が空港で配列しているのが見えました。彼らは明らかに、私の乗っている飛行機の中にいる誰かを待っていました。私は、大部分の人たちが降りてしまうまで自分の席に座っていました。警官たちはまだそこに立っています。私は飛行機から降りて、15年間味わうことのできなかったチベットの新鮮な空気を胸いっぱい吸い込みました。

チベットの土地に一歩足を踏み入れた瞬間、胸の奥底から喜びが溢れてきました。しばらくの間、この平らな大地にいるのは私だけのような気持ちになりました。私は、慎重にゲートまで歩きました。そうして、私の乗っていた飛行機には中国のどこかの省の警察部長が乗っており、空港にいた警官たちは彼を出迎えに来ていたのだということがわかりました。

次の日の朝早く、私はツクラ・カン寺院を訪れ、チベット人なら誰でも、死ぬまでに一度は拝見しなければならないとされている仏像、ジョウォ(釈迦牟尼)像を拝みに行きました。寺院の中には、部屋のいたる角にカメラが仕掛けられていました。

それでも、チベット人たちは勇敢に祈りをささげました。隣にいた中年の女性が私の目に留まりました。彼女は声を張り上げ、「ダライ・ラマ法王のご長寿をお祈り致します」、「幸福の太陽が早く昇りますように」と言っていたのです。驚きでした。彼女はそれらを何度も何度も同じように繰り返し唱えていました。お祈りを唱えていたのは彼女だけではありませんでしたが、他の人たちは静かに祈りを捧げていました。

寺院の外で「ダライラマに栄光あれ」と唱えている人がいればすぐさま逮捕されてしまうのですから、中国人たちは寺院の中で祈りを捧げる人たちのことを、いつものマントラを唱えているだけだ、と思っているのでしょう。

ラサで私がチベットの精神に触れることのできた唯一の場所は、このツクラ・カン寺院の中だけでした。ダライ・ラマ法王の宮殿であるポタラ宮でさえも、昔とは違って見えました。宮殿から目と鼻の先にあったショルの町はなくなっていて、宮殿の前には、天安門広場のような建物が建てられていました。広場の前には大きな舞台があり、「祝 平和的チベット解放50周年—1951-2001」と書いた横断幕が水平に張り巡らされていました。なんと皮肉なことでしょう。そこから4ブロックほど行くと、1951年3月にチベット人の自由要求活動を中国人民解放軍が3日間にわたって銃撃し、およそ1万人のチベット人が虐殺されたノルブ・リンカ(Norbu Linka)があるのです。

ラサで友人と再会して一晩を過ごした後、私は故郷に向かいました。友人の車にはナンバープレートが付いていませんでしたが、チベットではよくあることです。車業者が中国からチベットに違法で持ち込んでいるのです。チベットに到着した車のほとんどは権力のある人たちが買っています。

町の外れを通り過ぎる時、警察が私たちの車を止めました。警官服を着た中国人女性は私たちの車を覗き込むと、ナンバープレートはどこへやったのかと尋ねました。大柄な体に正装姿の友人は、威厳のある声で、「もちろん、私の部署にあります」と中国語で答えました。

「部署は何と言うのか?」と彼女が尋問してきました。

すると、警官服を着た男性がやってきて彼女の間に入り、「行け、行くんだ」と言いました。

路上では何度も立ち止めを食らいましたが、友人たちは問題なくその場を切り抜けてくれました。彼らは一度だけ、若い役員らの団体に煙草を2、3ダースやっていました。

東へ走るにしたがって、山々はさらに大きく、そしてさらに深緑色になってきました。途中で、道路にひれ伏しながらラサへ向かうチベット人たちを何度か目にしました。これは、少数の人たちしか行わない伝統的宗教行事です。一回ひれ伏すたびに身長の長さほどしか進みません—道路全体の長さを、自身の身長で測っているのです。彼らはこうやって、何ヶ月もかけてラサに辿り着くのです。

山の頂にある故郷を目にしたときは、もう本当に、これまでにないほど幸せでした。私たちの頭の上を、数羽のコンドルが飛んでいきました。「あのコンドルは、君を歓迎しに来た山の神様に違いないよ」と、友人たちが私に言いました。

ラサから車で走ること4日間、私の故郷に到着しました。私たちが一つ目の村で車を止めると、誰かがお茶をすすめてくれました。その人たちは、私の母は、私の姉のうちの一人を訪ねて山上へ移ったと教えてくれました。

友人たちは、車で山を越えて母を尋ねられると思っていましたが、村の近くの川で立ち往生してしまいました。トラックを持っているチベット人男性が私たちを助けてくれましたが、こちらに来る途中でトラックがぬかるみにはまり込んでしまいました。年寄り2人とたくさんの子供たちが村からやって来て、私たちを助けてくれました。子供たちは大体4歳から7歳くらいで、トラックの下に置く小さい石を運んで来てくれました。

この辺りには子供たちのための学校がなく、私は悲しく思いました。彼らを見ていると、私の子供のころを思い出しました—将来に何の希望もなく、遊んだり走り回ったりしていた頃のことを。

トラックがやっとぬかるみから這い上がり、私たちの車も川から引き上げられました。

母は、私がそちらへ向かっていることを知りませんでした。私が今年訪問する予定を立てているということは知っていましたが、私は2,3年に一度「来年には」帰るかも知れないという知らせを何度も送っていたので、母には果たしてそれが本当なのか、はっきりとは分からなかったのです。

私たちが姉のあずま家で車を止めると、村から一緒について来た男性が私の到着を告げに走っていきました。私は、アメリカを飛び立つ数ヶ月前に母の写真を受け取っていましたから、母の様子を知っていました。サンフランシスコでこの写真を見た私は、思わず涙を流してしまいました。母を置いて来るべきではなかったと後悔しました。しばらくの間、私は、チベットに残って母に恩返しができたら、と思いました。私は自分勝手だったのかも知れません。今になってやっと、生きているうちに母親と再会しようとしているのです。

それは、素晴らしい体験でした。喜びとか恐れといった常識では考えられないほどの感覚でした。一秒一秒がとてつもなく長く感じられ、一歩一歩が大変価値のあるものでした—私は一歩一歩、母親に向かって歩いていきました。

母は、丘を駆け上がっていました。「私の息子!本当に私の息子なの?」

姉が母について着ました。二人とも泣いています。

私も泣きながら二人を抱きしめ、チベットの遊牧民の間に伝わる伝統的習慣にあるように、額を二人の額に合わせました。姉は、私がチベットを離れた頃の母と同じくらい年をとったように見えました。その一方で、母は、私が想像していた以上にたくましく見えました。母は尼になっており、髪を剃っていました。

母をアメリカに連れて帰ることができればと思いましたが、難しくてとてもできないと思いとどまりました。私が長居できないことを知ると、母は不満気になり、黙ってしまうかも知れません。

「私たち家族がこうやってまたひとつになることができたのも、三人の仏さま(仏・法・僧)のおかげに違いない」と、まだ泣きながら母が言いました。「今日の私は誰よりも幸せですよ」 一体チベットはいつ解放されるのか?ということは常に質問されました。
(チベットで)姉を訪ねると、姉は病気で床に伏していました。私には、姉にねぎらいの言葉をかけることしかできませんでした。この辺りには医者がおらず、連れて行くことのできる病院もありませんでした。チベット、そしてチベット人の生存にかかわる最も危機的な状況は、健康管理制度が存在しないということと、子供たちのための学校が不足しているということです。政治的に言いますと、このことは、チベット人たちの解放への奮闘と文化保護への努力を衰えさせることになるのです。

私が出会った多くの人は、チベットはいつ解放されるのですか、と聞いていました。みな、心中は不安で絶望的になっていました。「私の父は、その日(チベット独立)を何年も待っていましたが、」と、中国政府に仕えていた私の友人が言いました。「父が生きているうちにそれが実現することはありませんでした(彼の父親は数年前に亡くなりました)。今となっては、私が生きているうちにだって実現するか分かりません」

解放支持者であったため長い間獄中に服役していた60歳代の男性は、さほど失望してはいないようでした。4人いた彼の兄弟も刑務所に送られて全員獄中で死亡し、彼だけが生き残りました。現在彼は、小規模な森林を保護しようとしています。太古からある森林が、中国の木材班によって丸裸にされているからです。彼は私に、ダライラマの60歳の誕生日から森林保護活動を始めたのだと話してくれました。彼はずっと私の手を強く握って、海外で行われているチベット人の活動について尋ねました。彼は、私が話せる以上のことが聞けることを期待していたのでしょう。

これらの人々は、たとえ外国人ジャーナリストらがインタビューしたとしても、私に聞かせてくれた話をチベット人以外に話すことはないでしょう。彼らは自身の発言や行動のために大変な苦しみを味わってきたのですから。チベットを旅した外国人の書いた記事を読むことがありますが、彼らはチベット人たちの発言を、自由な国に住む人たちの発言と同じ調子で扱っています。チベットにいるチベット人の言うことは妥当でないと言っているのではありませんが、チベットで育ったチベット人として自身の体験から言えることは、チベットに住むチベット人の殆どは、自身が心の奥底で本当は何を思っているのかということを中国政府の監視が届く範囲内では断言することができないのです。

私は初め、この話を書こうかどうしようか迷っていましたが、アメリカに戻ってきてから、チベット人たちがチベットで起こっていることを世界中の人々に知ってもらいたいと思っているのならば、私にはチベット旅行で自分が見たこと体験したことを説明する義務がある、と感じたのです。私にとって英語は第2外国語ですので、(英語の)文章を書くのは勇気のいることですが、私は自身を、チベット人の生活や希望についてその真実を一番よく知っているものの一人だと思っています。

編集解説:テンジンは、チベットに1ヶ月滞在してアメリカに帰国しました。彼は今年の夏、中国語を勉強するため台湾に渡り、その後イギリスに1年間留学して2003年にグランド・ヴァリー・ステート大学に戻る予定です。

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