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ロサンゼルス・国際宗教委員会におけるアジャ・リンポチェの証言

(2000/3/16)

2000年3月16日、ロサンゼルスでの国際宗教委員会において、「中国における宗教の自由に関する公聴会」が開かれ、アジャ・リンポチェの証言がまとめられた。
アジャ・リンポチェは青海省出身のモンゴル族で、チベット仏教最大宗派・ゲルク派の6大寺院の一つ、タール寺(青海省)の座主で、政府公認の中国仏教協会副会長も務めるなど中国政府寄りの重要な活仏とされてきた。91年から全国政協常務委員に選出された。アジャ・リンポチェは1998年11月に米国に渡ったまた、帰国していなかった。
6月25日、中国の国政助言機関である中国人民政治協商会議全国委員会は、チベット仏教高位の活仏アギャ・リンポチェ(49才)を全国政協常務委員と委員の職務から任期半ばで解任したことを発表した。
中国政府は、国内に残った高位の活仏をチベット宗教政策のかなめと位置づけてきた。しかし、今年1月にはチベット仏教カギューは最高位の活仏、カルマパ17世が中国からインドに脱出、さらに要職にあったアジャ・リンポチェも中国を出て中国の政策を糾弾する証言を行ったことで、中国のチベット政策は大きな打撃を受けたと言える。

アジャ・リンポチェの証言

私は、中国における宗教の自由に関する情報を提供してほしいという申し出にお応えすることを嬉しく思います。私がチベットを離れ、アメリカで暮らして以来、中国支配下のチベットに関することを公表するのはこれが初めてです。皆さまの前でお話するより、この証言をまとめた書簡の方が詳細を説明できるかと存じます。

私はアジャ・ロプサン・トゥプテン・ギメ・ギャツォと申します。チベットの最も重要な僧院の一つ、クンブン僧院の僧院長です。僧院長という職に加え、中央や地方レベルで多くの政治的な役職についておりました。一九九八年にチベットを脱出するまでは、次のような政治的任務を担っておりました。中国人民政治協商会議委員、青海省人民諮問委員会副議長、中国仏教協会副会長、青海省仏教協会会長、中国青年連盟副議長、青海青年連盟議長です。チベットを去ろうとした時は、さらに重要な政治的な役職に任命されるところでした。

なぜ私がチベットを離れなければならなかったかを説明したいと思います。私がどのようにしてクンブン僧院長になったかということから説明しましょう。モンゴルの遊牧民である家族と暮らしていた幼少の頃、チベット仏教黄帽派ゲルク派の大変尊敬されていた僧の転生化身だと認められました。ゲルク派は、我々の精神的指導者であるダライ・ラマ法王とパンチェン・ラマの両方が属する一派です。クンブン僧院はゲルク派の開祖の寺であり、四百年以上続いています。その僧院長はチベット仏教において非常に高い地位にあります。クンブン僧院は大きく有名です。私は初代クンブン僧院長から数えて21代目の転生化身です。
20代目僧院長が亡くなった時、転生化身の探索が行われました。私が彼の転生化身と確認され、認められた時、クンブン僧院に連れて来られ、チベット仏教の重要な指導者としての役割が果たせるよう、所謂、学習や修行が始まりました。しかし、私が僧院で勉強をしていた八歳の頃、これら全てが中断されました。

一1949年、中国政府はチベットを中国の一部だと主張し、「チベット解放」の軍事行動を始めました。「平和的な大変革」と宣言されましたが、1958年までは実に平和的でした。しかしながら、1958年、所謂、「民主主義の改革」の導入により、すべてが変わりました。

すべての僧院が閉鎖され、貴重な品々は略奪、破壊されました。高僧や導師らは投獄され、拷問されることもありました。僧侶たちは無理やり結婚させられ、「生産的な生活」をしなければなりませんでした。大規模な軍による圧制は広範囲にわたっていました。クンブン僧院のある青海省のチベット州では、罪のない遊牧民、女性、子供たちが虐殺されました。何千人もの私の部族はピストルを向けられ、先祖代々の土地から追いやられ、何百キロも離れた不毛の遠隔地へ移動させられました。多くの人々が餓死しました。非常に多くのチベット人が、政府の制裁が直接的な原因で亡くなりました。その中に私の父や他の家族も含まれていました。翌年、この「平和的な大改革」は中央チベットにまで及び、我々の精神的指導者であるダライ・ラマ法王はやむなくチベットを離れることになりました。法王は今なおずっと、亡命者のままインドで暮らしておられます。

1958年のある日、クンブン僧院の全僧侶が集会に参加するように言われました。中国人幹部と人民解放軍のメンバーらは我々を銃やロープで脅し、集まってきた中国人の群集を扇動し叫び始めました。およそ500人の僧がただちに逮捕されました。同じ日に、私の師や僧坊長を始め、クンブン僧院の僧侶全員が逮捕され、クンブン僧院は「ナンバー1の公共食堂」となりました。僧院の財産はチベット仏教徒の所有であるにも関わらず、中国共産党員によって没収されました。私は僧院の生活から自分自身で生計をたてなければならなくなりました。八歳の私は全く自活していかなければならないと思っていたのですが、幸運なことに、クンブン僧院出身のある老僧が私を養子として引き取ってくれたのでした。

それから、主要な僧院の若い僧院長として、私は最も若い「矯正対象」とされ、無理に現地の中国人学校に通わされました。私の儀礼用の袈裟は違法の衣服とされ、裁断されて私の制服の布地として使われました。僧院の世界から急に外の世界に出され、このような残酷な扱いに私は大変脅えていました。

私が知っているだけでも、何年にも及んだこの虐待の期間中に、青海省だけで六百以上あった僧院は十以下に減らされてしまいました。飢え、飢饉、死が至るところにありました。1960年代初期の数年間、厳しい弾圧がいくらか和らぎ、私は宗教的学問に従事することが認められました。しかし1966年になると、毛沢東による文化大革命の下、中国とチベットの至るところで、チベット文化全体に対する弾圧がなされました。残っていた僧院のほとんど全てが破壊され、経典が燃やされ、仏像なども壊されました。僧は俗世界の生活や結婚を余儀なくされ、独身の誓いを冒涜されました。私は14歳から30歳のこの期間、非常に厳しい条件の下、クンブン僧院の近くの農家で働くことを強要されました。また、他の僧や私は、意志に反するようなことをしたり、信じていないことを言ったりするよう強要されたのでした。

幸運なことに1980年以後、状況は改善されました。宗教の真の自由というものは何もなかったのですが、我々に対する残虐行為は和らぎました。ダライ・ラマ法王がチベットを脱出されて以来、初めてダライ・ラマ法王のチベット亡命政権代表団がチベットを公式に訪問することが認められました。パンチェン・ラマ(先代パンチェン・ラマのこと)と多くの囚人が釈放されたり、いくつかの僧院が再開されたり、修行に戻ることを許された僧もいました。我々の僧院は修復工事のため、政府より相当の資金を受け取りました。祖国と世界中にいるチベット人は安心し、より積極的な発展を望みました。私はこの変化にとても感謝をしましたが、私や全ての僧院、信仰や修行を、中国が支配し続けていることに変わりはない、と十分気付いていました。

ここ最近、チベットのいくつかの地域で行われている中国の宗教政策によって、チベットがあの文化大革命の恐ろしい時代に今戻りつつあるのではという恐怖がおこります。例えば、一九九八年には、我々の僧院は社会主義を教えるよう法律で命じられました。これによって、中国人の役人がクンブン僧院の僧坊に住んだり、僧に政治を勉強するよう押し付けるということが起こっています。もっと重要なことは、ダライ・ラマ法王を公に非難するよう命じられ、私は僧院全体にダライ・ラマ法王を非難させるよう命じられました。我々の精神的指導者を非難することは我々の宗教において罪になるので、この命令は全く難しいことでした。このような政策がとられた時、私はもはやクンブン僧院の僧たちの誠実な指導者でいることは出来ないと思いました。もし私が僧院を守るために中国の要求に従ったなら、私は僧院を存続させるという堅い信念を貫くことはできなかったでしょう。

ここで中国の宗教自由化政策における非常に重要な要素を指摘したいと思います。すべての人々が宗教を選ぶ権利があると述べた中国の憲法があります。しかし、法律は憲法によって規定された権利を保障する為に制定されましたが、中国憲法の他の条項とは違い、所謂、宗教の自由を保護する為の法律は全くないのです。法律がないので、政策立案者はどんなことでも厳命でき、宗教の自由がくじかれても訴える手段はないのです。政策立案者は宗教の自由の「めんどりの小屋を見張るキツネ」のようなものです。確かに、ある政策が実行される時がありますが、そのうち、まったく根拠なくその政策は禁止され、罰せられるようになるので、その政策は変わったものになります。この不安定で難しい状況は、私が祖国を離れざるをえない要因の一つとなりました。中国が憲法に従って宗教を守る法律を制定するというのが、私の差し迫った望みです。

私の個人的な葛藤は一九八九年にパンチェン・ラマが亡くなり、彼の転生化身の捜索が始まった時から、より危機的になりました。パンチェン・ラマは、チベット仏教においてダライ・ラマ法王に次ぐ最も重要な精神的指導者です。すべてのチベット人がパンチェン・ラマの後継者である転生化身をしきりに待っていました。転生化身は我々の宗教の強固な擁護者であり、中国政府に対して率直であった前パンチェン・ラマと同じくらいの素質を備えた人物であろう、と我々は望みました。私はパンチェン・ラマの転生化身を捜すため中国政府によって組織され、た「委員会」の一員でした。歴代、ダライ・ラマ法王によって選ばれたパンチェン・ラマの転生化身とパンチェン・ラマによって選ばれたダライ・ラマ法王の転生化身を見つけることは、チベット仏教の重要な部分となっていました。亡くなったパンチェン・ラマの師であるジャヤ・リンポチェは、パンチェン・ラマの転生化身の探索参加を中国政府に願い出ました。

リンポチェはまた、新しい転生化身の選定がチベット人の希望通りに行われるように、ダライ・ラマ法王の助言を仰げる選定チームを作ることも頼みました。中国政府の見解は、ジャヤ・リンポチェのすべての要求を認めて選定委員会を設立するというものでした。しかし、時が経つに連れて、中国政府から何の回答も寄せられなくなりました。選定委員会は宗教的なものではなく、政治的なものだったので、直接、政府によってのみ運営されることになったのです。ジャヤ・リンポチェが亡くなり、ラサ近くのタシルンポ僧院の僧院長代理であるチャデル・リンポチェが委員長として引き継ぎました。

1995年、選定委員会は、重大な容疑があり聞くことがあるということで直ちに北京に来るよう命令されました。政府は委員会のメンバーの一人であるチャデル・リンポチェに、パンチェン・ラマの転生化身を選定するためにダライ・ラマ法王の意見を仰いだという反逆罪を言い渡したのです。委員会がダライ・ラマ法王と連絡をとりあうことを政府は許可してくれると我々全員は考えていたのですが、反対に我々はチャデル・リンポチェを非難し、刑務所に入れるために政府に加担するよう命令されたのでした。また、我々は、ダライ・ラマ法王によって認められたパンチェン・ラマの候補者を公然と非難して、新しい候補者を選ぶよう命令されました。この時、もう私は黙ってはいられませんでした。私はこの命令に反対し、チャデル・リンポチェを釈放してダライ・ラマ法王の任命した候補者を認めるよう政府に申し立てをしました。そして、私は脅迫され、静かに生まれ故郷に帰り、中国政府に対する私の忠誠を実証するよう言われました。その後、私自身を含めて全ての委員会のメンバーたちは政府が決めた金の壷の儀式のため、ラサに来るよう命令を受けましたが、それはパンチェン・ラマを選ぶ為の方法だったのです。私は中国政府が転生化身選出のプロセスを監督するということが信じられなかったので、ラサへは行きたくありませんでした。たとえどんな根拠があったにせよ、中国政府が前もってギャルツェン・ノルブをパンチェン・ラマの転生化身として決めていたことは、その選定のプロセスに関わった人々の間には周知のことでした。私は病気になって入院しましたが、それでも、私は病院を出てラサに来るよう強制されました。その後、私は委員会に辞表を提出しましたが、否認されました。

私がチベットに残っていたならば、ダライ・ラマ法王とチベット仏教を公然と非難して中国政府に従うよう強制されていたことでしょう。このことは、チベット仏教や私の信念に背いて政策に参加するということを意味します。クンブン僧院の僧院長として、私は政府にチベットの人々に受け入れられるパンチェン・ラマの選定を手助けするよう強要されました。これは、私の深い信念を冒涜することになりました。まさに祖国を去らなければならない時だと考えていました。ついに私は恩師の指示に従うことを選びました。恩師は、私が五十歳になったら政治生活を引退し、チベット仏教の修行に専念すべきだと助言してくれました。恩師の助言に従うために唯一できることは、中国支配が及ぶ所から完全に逃れることでした。

以上をまとめると、私は少年の頃、孤独な生活を送りました。というのは、私の恩師や協力者は投獄され、我々の僧院は閉鎖されたからです。青年の頃、私は強制労働者として農場で働き、僧としての職に従事することは許されませんでした。年をとってから、中国政府から与えられた権力や地位によって得た財産があったにも関わらず、私は精神的に辛いことを行ったり述べたりすることを余儀なくされました。私はこれらのことをしばらくやりました。このことが、チベットの人々に尽くしチベットの伝統を守る唯一の方法だと思ったからです。しかし、チベットの人々は自分たちの宗教を信仰する真の自由がなく、チベットの伝統を支えることが出来ないと苦しんできました。このような状況の下、私は留まることができず、去らねばならなかったのです。

2000年3月2日の新聞記事が一つの例であるように、再び国際的に注目されているチベットの最近の出来事からご存知の通り、私はここアメリカにおいて思い切って述べることによってもたらされる影響を心配しております。祖国にいる他の僧や親近者はアメリカで与えられているような同じ権利や自由を共有できません。

もちろん、中国政府がチベットにおいて真の自由を許可することが私の望みです。ダライ・ラマ法王が中国人とチベット人の両方に恩恵をもたらすために祖国へ帰ることが私の祈りです。私はこのような宗教の自由を達成するために祖国を救う方法が見つかるよう祈ります。私の今日の証言はチベットを去って以来、初めての公式な声明です。私が自分自身の真実を話し始める時が来たので、私はこの申し出をお受け致します。私は、ここアメリカで、可能な限りの方法で、祖国の人々を助けることができるようになるでしょう。ご静聴、有難うございました。

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