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チベット問題解決の中道政策とその他の関連資料

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中道のアプローチ(Middle-Way Approach)について
−主席大臣サムドン・リンポチェ教授の講演

2008年6月16日 ニューデリー

(1)古代チベット

『雪山に囲まれた地』として広く知られるチベットは、四方をヒマラヤ山脈をはじめとする山々に囲まれた世界の屋根に位置する国である。チベットはチベット語で“Bhod”、サンスクリット語では“Bhota”という。どちらの言葉が起源になったのかは定かではないが、発音には明らかに共通点が認められる。仏陀の教えの中でチベットは『北方の雪国(Uttara Himpradesh)』として登場する。ヴェーダの聖者らもチベットを『Trivishtab』と呼んでいた。

考古学的調査によると、チベットには太古の昔より人類が居住していたという。6世紀に大いに発展することになったその文明は8世紀に栄華を極め、チベットはアジアでも有数の軍隊を持つ強い国家の一つとして台頭していた。

チベットの民族性は同じ地方の他民族と比較しても独特で、その顔立ちからアーリア人とモンゴル人の混血とも考えられている。

チベット人の使用言語はチベット語である。いくつかの方言はあるものの、7世紀に文字と文法が確立されて以来、チベット人は4個の母音と30個の子音をベースにした単一の言語を用いてきた。チベット語はサンスクリットの全ての言葉を忠実に逐語訳できる豊かな言語だ。チベット語が使われてきた歴史、チベット語を使用してきた人々の総数を考えると、これまでにチベット語で蓄積されてきた膨大な量の文献は、原典、翻訳を問わず、世界でも最もクオリティーの高いものだと言えるだろう。古代インドの原典の多くが現在はチベット語訳のかたちでのみ残されている。チベットの文字と文法はサンスクリットを倣って作られたもので、チベット語はインド語派に属している。

7世紀に仏教が発生するとインドの仏教文化を起源にしたチベット文化、文明も栄え、それはたちまち各地に広がっていった。

9世紀半ばまで強い影響力を持つ国として栄えたチベットも、その後次第に力を弱め、3世紀近くも統治者、中央政府不在の状態が続いた。しかしそれもチベット宗教、文化の発展の妨げにはならなかった。13世紀初頭、チンギス・ハーンに征服されたチベットはそれから50年間モンゴル帝国の支配を受けることになった。モンゴルは徐々にその勢力を中国にも拡大していった。1260年中国元朝初代皇帝フビライ・ハーンがパクパにチベット三州を与えたことで、チベット民族はチベット全土の統治権を回復したのである。その後1640年まで、サキャ、パクモドゥパ、リンプン、ツァンパの一族間でチベットの政権争いが展開されたが、その間も外国の勢力がチベットを支配することは一度もなかった。1640年、モンゴルの首長グシ・ハーンはチベット全土を征服し、1642年にそれを偉大なるダライ・ラマ5世の統治下に置いたのだった。こうしてチベット政府ガンデン・ポタンが誕生した。それから366年の年月が経った。ガンデン・ポタンはその後東の国境を固めることができずに中国の侵略を受け、チベットは『内チベット』と『外チベット』に分割されたのだった。

パクパの時代にチベットと中国の間に僧侶と施主の関係が始まって以来、浮き沈みはあったもののその関係は基本的に変わらず受け継がれていった。ガンデン・ポタンが成立した際に清の皇帝がダライ・ラマ5世を中国に招いたが、それによって両国の僧侶と施主の関係も強まった。元来この関係は、導師である僧侶と帰依者である施主との純粋に宗教的なもので、政治的な含みは一切なかった。しかしこの宗教的な関係も時代が移るに従って政治的な見返りのために様々な解釈がなされるようになっていった。チベット内部で対立が続いた第6代および第7代ダライ・ラマの時代には、モンゴルの介入なども加わってチベット民族は清の皇帝に頼らざるを得なくなった。特に18世紀末期のグルカ戦争においては僧侶と施主の関係も政治的側面が強まり、不愉快な出来事がいくつも起こる結果となった。

(2)最近の動向

20世紀初頭にはイギリス帝国が中華民国を介して様々な口実でチベットに接近を試みているが、どれも成功するには至らなかった。1904年、英帝国軍はチベットに侵攻し、停戦条約を締結した。その後、清もまたチベットに攻撃を仕掛けたがチベット軍に撃退されている。1913年から1914年にかけて締結されたシムラ条約協定をはじめとするその後一連の交渉において、イギリス帝国はチベットからの利益が見込める場合は中華民国抜きでチベットと直接交渉し、見返りのない場合には中華民国にチベットへの宗主権を与えたりしたのだった。このような一貫性を欠いたイギリス帝国の態度によって、当時の国際社会におけるチベットの立場は曖昧なものになってしまった。ただし現在のインドとチベットの国境は当時のイギリスとチベットが決定したもので、そこに中国の関与はなかった。

チベットが主権を主張しなかったり、国連の前身である国際連盟に加盟できなかったことは、当時のチベットの指導部にも落ち度がある。しかしながら中華民国とイギリス帝国が共に、国際社会における私たちの地位を意図的に曖昧なものにしていたことは否定できない。ダライ・ラマ13世はその状況を改善すべく、1913年に独立国家として認められたチベットの立場を繰り返し訴えられたのだった。

(3)文化大革命後

1949年に中国共産党により建国が宣言されて間もなく、中国軍によるチベット侵攻が始まった。チベットおよび台湾の『解放』は中華人民共和国の最緊急課題であった。中国軍は一年も経たずにチャムドまで到達した。彼らはそれを『力ずくの解放(forceful liberation )』と称していた。その後、東チベット総督であったガプー・ガワン・ジグメは仲間と共に捕虜になり、チベットから中国に派遣された代表団に加えられた。1951年5月23日、彼らは十七条協定に強制的に調印させられることとなった。中国政府はチベットを『平和解放』したと世界に公表した。マハトマ・ガンディーの著作『インドの自治(Hind Swaraj)』第7章には、イギリス帝国によるインドの植民地化について記されているが、チベットのケースもそれによく似ている。

当時の国内外の情勢の中で私たちにできることは限られており、ダライ・ラマ法王とチベット政府は協定に沿えるようできる限りの努力をした。法王は、1954年から55年にかけて中国を訪問し、毛沢東をはじめ中共、政府、軍の上級幹部らと会談している。そして法王はその時の彼らの言葉を信じてラサに帰還されたのだ。しかし1956年頃から東チベットのカムとアムドの状況が不安定になり始めた。それに加えて北京−ラサ間の道路整備が完了し、軍隊や軍用機器の移動が助長されることなった。地方の中国人役人が事態を悪化させるために故意に協定違反をした結果である。毛沢東を含めた政府指導部へのダライ・ラマ法王の訴えは未回答のままであった 。いよいよダライ・ラマ法王に身の危険が迫り、法王を守ろうとするラサのチベット人らは1959年3月10日、ついに平和的民族蜂起に至ったのである。そして3月17日の夜、ダライ・ラマ法王は一般人を装ってノルブリンカを離れ、インドを目指された。

1959年3月31日、インド国境に到達したダライ・ラマ法王をインド政府が迎え亡命が認められた。同年4月17日、初めての海外メディアに対する会見で、ダライ・ラマ法王は二つの理由から十七条協定を拒否することを宣言された。一つ目の理由は、それが強制的に調印させられた協定であるということ。そしてもう一つは中国政府自らがそのあらゆる条項に違反してきたことである。ダライ・ラマ法王はチベットの独立を回復するために闘うことをここに宣言され、1979年までその立場を貫かれたのだった。

(4)チベット問題の本質

1959年、インドに亡命して以来ダライ・ラマ法王はあらゆる方法でチベット問題の解決に尽力してこられた。しかし残念なことにチベット問題の本質自体がさまざまに解釈されているのが実情である。

(a) 政治的イデオロギーの対立ではない

チベット問題は政治的イデオロギーの対立であり、50年代および60年代の民族蜂起は共産主義に反対するものだったと捉える人たちがいる。それを理由にチベットを支援してくださる方々もおられるが、この見解は正しいものではない。チベット民族が幸福で満足していればイデオロギーは問題ではない。実際、ダライ・ラマ法王は部分的にマルクス主義に賛同しておられる。

(b) 民族間の対立ではない

この問題をチベット民族と漢民族間の対立であると捉える見方もある。チベット問題を民族間の問題にすり替えようとする人たちも大勢いる。チベット人と中国人は太古の時代より隣人として互いに助け合いながら生きてきた。特に僧侶と施主の関係が13世紀に確立されて以来、中国人仏教徒のほとんどはチベット仏教の一派に帰依してきた。もちろん戦争で両者が敵対した時もあった。しかしそれが長期化したことはなく、戦争自体も頻繁に起こったわけではない。歴史的に見ても概ね友好的な関係を保ってきた。今日でもチベット人と中国人は決して憎み合っているわけではない。

(c) 権力闘争ではない

チベット問題の本質は権力闘争ではないかと考える人もいる。中国側は大掛かりなプロパガンダキャンペーンを実施し、チベットが主権を回復しようと企んでいるかのような考えを人々に植え付けようとしているが、事実無根の話である。ダライ・ラマ法王および亡命政権には将来チベットを治めるつもりはない。そのようなことは夢にも考えていない。

ダライ・ラマ法王は、チベット問題が解決された暁には全ての政治的、社会的権限を放棄するとこれまでに何度も繰り返し宣言してこられた。その時は亡命政権の役人もまたチベットで政治的ポジションに就くことなく、一般のチベット人として生活していく意向である。チベット−中国間の問題は人々を『どう治めるか』というところにあり、『誰が治めるか』は問題ではないのである。

(d) チベット問題とは

ではチベット問題の本質はどこにあるのか。それは真実と偽り、正義と不正の問題に他ならない。言い換えれば、義務を果たすためにどう取り組むか、その姿勢の違いの問題だ。チベット民族は権利獲得のために闘っているのではなく、チベット民族に与えられた普遍的な責務を果たすために尽力しているのだ。偉大な地、インドから発生した秘密金剛乗を含めた全ての乗(小乗、大乗といった仏教の教義)の尊い仏教の伝統は、現在チベットだけに残されている。命ある全てのもののためにこの伝統を守っていくことこそが私たちの闘いの焦点なのだ。『インドの自治』でマハトマ・ガンディーが解説した『文明』の定義をよく読めば、チベット民族の闘いの本質が誰にも明確になるだろう。

仏教の伝統を守る社会は非暴力の社会でなければならない。そのためには非暴力の環境を整える必要がある。そこで私たちはチベット全土を平和地域とする展望を掲げたのだ。手段と目的に一貫性を求めるのは仏教哲学においてばかりではない。ガンディーもその必要性を強調している。私たちは手段と目的に矛盾が生じないよう非暴力の手段に徹する努力をしているのだ。現在のチベット民族の闘いが非暴力であるのはこのためである。

私たちの闘いを二者間の対立と捉えると相対する見解が出てくるのは当然である。中国は私たちを敵と見なし、その敵が勝敗、生死を賭けて闘っていると思っているようだがそれは違う。私たちは中華人民共和国当局とも友人関係を築けるかもしれないと思っている。そうなれば私たちはどちらも勝者だ。チベット民族は己の勝利や敵の敗北を目的に闘っているのではないのである。

チベット問題が近代の国家間、大陸間、文明間の大きな権力闘争が直接の原因で生じたことは明らかである。必然的に私たちの運動も大きな衝突を免れることはできないかもしれない。しかし私たちはダライ・ラマ法王のお導きによって、少なくとも大きな力の言いなりにならずにここまで来られたことを幸運に思っている。

(5)中道(Middle-Way)の語源

仏陀は『中道』という言葉を初めての説教の中でお使いになった。それは両極端を避けた中間、という意味であった。中道という言葉は初め道徳的なことについて使われていたが、後には哲学の分野でより一般的に使われるようになった。極端な考えや行動を選択すれば、真実も見失ってしまう。だからこそいかなる分野においても中道が必要になってくるのだ。

私たちの政策における『中道』では、次の二つが相反する両極端ということになる。
  1. 中国からの分離を要求すること。
  2. 現在の状況のまま中国の一部として留まること。
中道のアプローチが求めるのは、この両極端を避け、中華人民共和国憲法が規定する有意義な民族区域自治が全チベット人を対象に実施されることである。それが中道のアプローチの本質なのだ。

(6)なぜ中道政策なのか?

チベットは長い間独立国家として存在してきた。それならなぜ独立を求めず中道を唱えるのか。

  1. 世界情勢を鑑みれば、それに合った政策を作るために私たちはプラグマティックかつ現実的にあらねばならない。
  2. たとえチベットが独立して中国の隣人となったとしても政治、経済、社会面において隣人からの侵害に直面することは必至である。
  3. 海のない高原に位置するチベットは需要を満たすために他国の助けを必要とする。
  4. 中華人民共和国に留まればチベット内部の物質文化の発展が促進される。
  5. 単一民族国家(ネーションステート)というイデオロギーが世界的に緩和され、欧州連合のようなより大きな枠組みができる傾向にある。
  6. それによってインドのように友好的な国家の支援が得やすくなる。
  7. 中華人民共和国憲法は民族区域自治に関して十分な規定を定めており、私たちの要求もまた適法であり実現可能なものである。
  8. カムおよびアムドの大半は侵略を受け徐々にチベットから切り離されていった。1951年にチベットが主権を失った時にはチベットの領土はすでに現在チベット自治区(TAR)と呼ばれる部分にまで縮小していた。たとえチベットが主権を回復したところでTARの境界線を越えて領土を獲得するのは困難だろう。チベット人口の50%以上はTAR外に居住しており、実質的にチベット民族全体を統一することは不可能になる。

(7)理由はこの他にもいろいろある。

ダライ・ラマ法王がチベット問題の解決策として自治をお選びになったのはガンディーが『独立』の代わりに『Swaraj(self-rule)自治』を選択したのにとてもよく似ている。ガンディーによって1928年1月12日に発表された『独立か自治か(Independence versus Swaraj)』は私たちの最上の道標となっている。

中道のアプローチに批判的な人たちの中には、チベット民族はそれによって正当な権利を放棄することになると主張する人もいる。ガンディーの『インドの自治』第4章『自治とは何か』を読めば、私たちが求めているものの真の姿がはっきりと見えてくるだろう。時間の都合でその内容は割愛させていただく。

(8)中道のアプローチ提唱までの過程

1968年あたりから国内外の情勢に変化が訪れ、チベットの主権を回復するのはますます困難になっていった。そこで提案されたのが自治によるチベット問題解決の方法である。その件についてその後何度となく話し合いがもたれた。1970年代半ばにカシャク(内閣)と議会議長および副議長による内部協議がもたれ、「次に交渉の機会が巡ってたその時には、独立ではなく意義のある自治を要求する」という新たな政策が作られ、それが中道のアプローチの基盤となった。

当時の中国は大躍進政策や文化大革命の混乱からようやく抜け出したところで、政治状況も大きく変化していた。鄧小平氏は香港にいた法王の兄ギャロ・トンドゥプ氏を介して、ダライ・ラマ法王にチベットに戻ってはどうかとメッセージを伝えた。さらに、さまざまな問題について『独立以外のことなら』何でも話し合いを通じて解決することが可能だ、と明言したのだった。こうしてチベット民族と中国人の関係に新たなページが開かれる布石が敷かれたのである。ダライ・ラマ法王の中道のアプローチは既に確立されており、法王は直ちに中国の提案にお応えになったのだった。

その後何度も接触があったものの実質的な交渉は先送りにされ、具体的な成果は得られなかった。その間、中国指導部のチベット問題に対する見解も変化していった。そこでダライ・ラマ法王は、交渉の背景と骨子を公表するために五項目和平案を提案した。1987年のことであった。翌88年にはストラスブール提案を発表し自治の概要を説明された。ところが中国政府はそれを『半独立』あるいは『偽装した独立』として退けた。中国政府によって拒絶されたこれらの提案はその後の進展を見ることもなく、やがてはその意義さえも多少色あせてしまった。そして1944年交渉は決裂した。

(9)接触と対話の再開

その後、直接交渉は2002年に再開されたが、中国側は五項目和平案とストラスブール提案にまだ強い不信感を抱いていた。チベット問題の解決とは関係なく、五項目和平案は中国人とチベット人を含めた全人類に利益をもたらす未来のビジョンである。私たちは中国の疑念を晴らすためにそのことを根気よく説明してきた。ストラスブール提案に述べられた自治のアウトラインはあくまでも提案であり、最終決定事項ではない。交渉では、私たちの望みが中華人民共和国憲法に謳われた民族区域自治の忠実な実施であることが特使らによって伝えられた。これについてはダライ・ラマ法王ご自身も何度も繰り返されている。2005年11月18日に開催された第4回チベットのための国際議員会議の挨拶で法王は次のように述べられた。「私たちが求めているのは独立ではない。そのことは誰もが知っている。私たちが求めているのは中華人民共和国憲法の枠組みに則った真に意義のある自治なのだ。」

また2006年の『3月10日声明』でも法王は、「何度も繰り返してきたが、私が求めているのはチベットが中国から分離することではなく、中国憲法の枠組みの中での未来を見いだすことだ。この声明を聞いた者なら(疑惑で真実を見極める心が曇っている人でなければ)誰でも、私が要求している『真の自治』が『分離』を意味するものではないということが分かるはずだ」と述べられている。

(10)中華人民共和国憲法の民族区域自治に関する規定

中華人民共和国憲法が民族区域自治に関する条項を制定しているのは、多民族国家の中国にとって大漢民族主義や少数民族主義を排除すること無しに民族間の平等と団結を実現することが不可能だからだ。過去に起こった民族分離は、皇帝や中国国民党政府による少数民族からの搾取が原因だったという批判から、マルクス・レーニン主義の民族政策に倣い、民族間の平等と団結を保障するために民族区域自治政策が作られたという。

(11)中華人民共和国憲法の前文には次のように書かれている。

『中華人民共和国は、全国の諸民族が共同で作り、統一した多民族国家である。平等、団結そして相互援助といった社会主義的民族関係は既に確立しており、それはこれからも強化されるだろう。民族の団結を守るためには大民族主義、特に大漢民族主義と闘い、また地方の民族主義にも立ち向かっていかなければならない。国家は全国諸民族の共同の繁栄のために全力を尽くすものである。』

(12)同様に第4条、第1章には次のようにある。

『中華人民共和国の諸民族は皆平等である。国家は全ての少数民族の適法な権利と利益を保護し、国内の全ての民族間の平等、団結、相互援助の関係を維持、発展させる。いずれの民族に対する差別、抑圧を禁止し、民族の破壊や分裂を引き起こす行為を禁止する。

国家は諸少数民族の特徴と必要に基づいて、各居住地区の経済的、文化的発展を促進するための援助を行う。
少数民族が集居する居住地域では区域自治を行い、自治権を行使する自治機関を設置する。いずれの民族自治区域も中華人民共和国の一部である。
いずれの民族も固有の言語と文字を使用し発展させる自由を持つ。さらに独自の風俗習慣を保護、改革する自由を持つ。』
さらに第6節の第112条から第122条には民族自治区域の自治機関についての詳細が規定されている。
第116条は民族自治区域の人民代表大会に、その地域の特徴に基づいて自治条例を制定する権利を与えている。
第117条および第118条は自治機関の経済事業や財政管理について規定している。
第119条は教育、科学、文化、医療衛生、体育の各事業の自治管理について規定している。
第120条には、社会治安維持のために自治機関が公安部隊を組織できるとある。
第121条には、自治機関の公用語として現地の言語や文字を使用する、と書かれている。同様に第7節第134条には司法機関でも現地の言語で訴訟を行えることが明記されている。
また、民族区域自治法の前文には次のように書かれている。
『民族区域自治とは、国家の統一的指導の下に各少数民族が集居する地域で区域自治を実行し、その自治権行使のために自治機関を設立することを指す。国家は民族区域自治を実行することで、諸民族が地域行政を管理運営する権利を全面的に尊重・保障し、全国諸民族の平等、団結、共同の繁栄の原則を固守するものである』
民族区域自治法総則第1章第10条は、自民族の言語と文字を使用、発展させ、その固有の風俗習慣を保護する自由を保障している。

第11条は宗教の自由を保障すると規定している。
同様に第3章第19条には自治条例を定める権限についての規定がある。
第20条には、上級国家機関の決議、決定、命令、指示が民族自治区域の実情に合わない場合にはそれを執行しない権利を持つ、と書かれている。
第43条には短期の移住労働者数を管理する権限があると規定されている。
さらに憲法第31条には『国家は必要に応じて特別行政区を設置できる』とある。ということは外交と国防以外のあらゆる分野の管理運営が各地域の自治機関に任されているということになる。
これらの憲法および民族区域自治法に謳われた規定がその精神に則って執行されるならば、チベット民族の福利は実現されその固有の文化、宗教、伝統、言語の保護もまた保障されることになる。さらに、チベット民族の世界貢献も促進されるようになる。しかし周知の通り、チベット人が住む自治区、自治州、自治県においてそれらの規定はどれ一つとして遵守されていないのが実情だ。
太古の昔より全てのチベット人は、同じ宗教、文化、言語、習慣、土地そして暮らしを分かち合いながらチベット高原で共に生きてきた。もし中華人民共和国がチベット民族を国家を形成する55の少数民族の一つとして真に受け入れる(中華人民共和国は既にそうしていると言っているのだが)のであれば、それを分割して内外や大小で呼び分けたりはできないだろう。民族区域自治の規定に則り全てのチベット人に対して自治が実現されなければならない。

(13)中華人民共和国の懸念と意見の相違

2002年以来6回にわたって協議が行われてきた。私たちはチベットが提唱する中道のアプローチについてこれまで繰り返し説明してきた。しかし彼らはそれをまだ理解していないばかりか、理解しないように努めているようにさえ見受けられる。意見の食い違いはさまざまな部分に認められるが、それらは大きく二つに分類できる。まずは歴史的観点から見た相違。そして第二はチベット民族の統一に関する見解の相違だ。

中国側は、歴史的にチベットが中国の一部であることをダライ・ラマ法王も認めていると主張している。チベット側はそれが誤りであることを強調してきた。私たちが歴史的に中国の一部だという説を否定すれば、彼らのいう1951年の『解放』は『侵略』になり、今日の中国によるチベット統治も『不法な占領』と見なされる。中国はそれを懸念しているのだ。歴史の中で全く変化してこなかった国家など存在しない。過去に侵略の歴史があるからといって現在の状況が違法ということにはならない、というのがダライ・ラマ法王の見解である。チベットが自ら進んで中華人民共和国の一部として留まろうと決めた時、チベットはあくまでも自然に正当な中国の一部となったのだ。ダライ・ラマ法王はそのことを納得してもらうために努力してこられた。

チベットの統一に関しても中国側は同じような見解を示してきた。かつてチベットが統一されたことは一度もなく、したがって現在の省境界線についても変更は不可能だと言うのだ。これに対し、大昔より集落を作り共に生活してきたチベット民族全体を王たちが永きにわたって統治していた、というのが私たちの見解だ。何より中華人民共和国はチベット民族を中国の55の少数民族の一つと捉えているのだから、チベット人は単一の行政管理下に一括統治されるべきなのだ。それが実現されなければ過去の帝国主義体制下の『分割統治』と何ら変わりはない。チベット民族の統一は私たちが長く希求してきたことで突然の要求ではないのだ。17条協定に署名した時もチベット側の代表はチベット民族の統一を提言している。それに対して中国側は、チベット民族を統一するのはいい考えではあるが期がまだ熟していない、と応えている。チベット民族統一については、チベット自治区準備委員会、そして統合に向けた具体案作成のために設置された特別委員会( 中共幹部サンゲ・イェシ(天宝)が指揮) において検討がなされている。しかし極左分子の妨害により実現には至らなかった。時代のニーズに合わせて省境界線を修正することはこれまで何度となく行われており、同様のことはこれからも起こり得るのだ。

ダライ・ラマ法王が『大チベット』と『高度な自治』を要求していると中国側は吹聴しているが、実際チベット民族は単一の民族であり、大にも小にも分割することはできないのだ。私たちが望んでいるのは中華人民共和国憲法に正式に記された民族区域自治の条項が遵守されることである。私たちはそれを希望しているだけで、自治の程度を議論するものではない。中華人民共和国の指導部に政治を遂行する精神があるのなら、これらの意見の相違も解決できるはずだと私たちは信じている。


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