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シネー(寂止)についての法話 第4回 ゲシェー・ロサン・ケンラプ

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シネー(寂止)についての法話  第4回 ゲシェー・ロサン・ケンラプ

今、私たちの心は外の世界に、物質的世界に魅力を感じ、なにか良いものがあるとたちどころに、それに引き寄せられてしまいます。心とは揺らぎやすいものなのです。修行を行うにも、手っ取り早く修行を行ってすぐに悟りを開こうなどという甘い考えを持って行うのではだめです。修行とは長期展望を持って行うべきもの、始めから短期決戦でなどと思っていたら、修行するごとにくたびれてしまうでしょう。こんなに長くかかるはずではなかったといって・・・。

六つの力

「シネー」(寂止)の各段階を達成するにあたり、六つの力が必要となります。『声聞地』に述べられているに六つの力とは以下のものです。

  1. 聴聞力(thos pa'i stobs )
  2. 思惟力(bsam pa'i stobs)
  3. 憶念力(dran pa'i stobs)
  4. 正知力(shes bzhin gyi stobs)
  5. 精進力(brtson 'grus kyi stobs)
  6. 習熟力('dris pa'i stobs)

  1. 聴聞力
    聴聞力により、「シネー」の九段階の最初のもの、「それぞれのものに心を安住させる」が達成できます。初心者は、師からのアドバイスに耳を傾けて、対象に心を安定させます。
  2. 思惟力
    思惟力によって、「シネー」の九段階の二番目「続けて安住させる」が達成できます。まず、教えを受けて、言われたとおり対象に心を集中させることを行い、さらに、自分自身でも考えをめぐらして対象に心を集中させ、安住させるとはこういうことなのかと納得する。それによって、心を対象に続けて安住させることができるようになるのです。
  3. 憶念力
    憶念力(注意深さ)によって、「シネー」の九段階の三番目と四番目「引き戻して安住させる」「身近に安住させる」が達成できます。対象から意識が散乱しても、注意深さによって、それを押しとどめることができるからです。
  4. 正知力
    正知力によって、「シネー」の九段階の五番目と六番目「折伏する」と「鎮める」が達成できます。
  5. 精進力
    精進力によって、「シネー」の九段階の七番目と八番目「極めてよく鎮める」「集中する」が達成できます。
  6. 習熟力
    習熟力によって「シネー」の九段階の最終段階「平等なる境地に安住させる」が達成できます。

この六つの力ですが、習熟力を生むためには、まず精進力がなければなりません。精進力を生むためには、正知力がなければなりません。正知力を生むためには、憶念力がなければなりません。正知力とは、「シネー」を行じている最中に、沈み込みや昂ぶりが現れていないかを監視する力のことです。ですから、そもそも憶念力(注意深さ)そのものを欠いていては、正知力も生まれようがないのです。さらに憶念力を生むには、思惟力がなければなりません。思惟力を生むには、まず聴聞力がなければなりません。このように六つの力は、最初の力が次の力を生み出し、次の力がさらにその次の力を生み出していくのです。

これまでは、「シネー」(寂止)についての簡単なご紹介です。紹介されたものを、実際に利用してみるかどうかは、あなたがたの自由です。

ここまで私がお話した教えは、なにも私自身が勝手に作りだした教えではありません。釈尊の説かれた教え、それに対するインドの学者たちの解説書、チベットの学者たちの解説書などに基づいてお話しているのです。『ラムリム』の教えには、インドの大学者たちの教えが凝縮されたかたちで入っています。

「シネー」(寂止)を行じる際、沈み込みや昂ぶりがどういう状態であるかを知ることが大切です。心が昂ぶるとはどういうことかというと、心が何か魅力的なものに惹き付けられてしまうことです。つまり煩悩のなかの貪りの心と関係があるのです。

瞑想をしている際、心が対象から逸れるのはよくあることです。昂ぶり(掉挙)だけが、瞑想の対象を失わせる原因ではありません。瞑想中に何か別の思考が生じれば、それだけで瞑想の対象を失ってしまいます。しかし、三大煩悩である怒り・貪り・無知のなかで、一番心をかき乱すのは貪りなのです。怒りは確かに破壊的な威力を発揮しますが、四六時中怒ってばかりいることはできません。怒りによって、瞑想の対象を失うこともないわけではありませんが、少ないといえます。

そのことは、みなさんが自分自身を振り返ってみてもわかるはずです。朝起きてから夜寝るまで、仕事をしていても、家事をしていても、気懸かりなのは物質的な事柄や、金にまつわることばかり。怒るとしても時々にしかすぎません。このように、日常生活で私たちの心を揺るがすのは、貪りにかかわることが多いのです。まあ、怒り狂って、車を暴走させる人もいるようですが(笑)。

石や樹などといったあまり魅力的でないものを瞑想の対象とすべきではないと言う人もいます。瞑想の対象には仏の姿とか、無常・空性などが良いのです。そうすれば、煩悩を退治する力ともなってくれるはずです。

無常

釈尊も、サールナートで初めて仏法を説いたとき(初転法輪)、まず無常の教えを説かれました。そして、クシナガラで入滅の際に、最後に説かれたのもやはり無常の教えでした。無常の教えは、仏教の入り口のようなものです。修行に精進することができるのも、無常の教えがあるからです。最終的に仏の境地に至ることができるのも、無常の教えがあってこそです。

無常もいろいろな姿をとります。外の物資的世界を観察してみても、そのことはわかるはずです。髪の毛を剃っても、また生えてきます。内部で微細な変化が生じ、その変化が最終的に外面的な粗い変化となって現れる。つまり黒い髪なり、白い髪なりが生えてくるわけです。内からの変化がなければ、外に変化が現れることはありません。

年をとると、身体を構成していた地水火風の四大の力が弱まり、さまざまな老いの兆候が現れます。例えば私でしたら、もうすでに歯がぐらついています。こうした老いの変化は私たちすべてに襲いかかる運命なのです。無常の理についてどうして考えを巡らす必要があるのかというと、私たちがいつ死ぬかわからないという現実に、無常が結びついているからです。人として生まれたならば、100パーセント死ぬ運命にあります。ひょっとしてここにいる私たちだって、明日には死んでいるかもしれません、大地震でも起きるかもしれませんし。

にもかかわらず、私たちは自分が死ぬことがないように振舞って生きています。明日は死ぬまい、明後日は死ぬまい、今日生きている人は明日も明後日も無事だろう、すべては恒常のままであるふりをして生活を送っています。この私自身も、この前インドから来て今日は日本におり、明日はインドに戻って・・・などと計画を立て、無常についてあえて考えようとしません。こういうのを常見へのとらわれといいます。私たちは皆、内心、昨日の自分がそのまま今日ある、今日の自分はそのまま明日あると思い、自分が変化していることにはあえて目をつぶったままです。

無常のなかでも、時に自分がいつ死ぬかわからないことについて瞑想してみることが大切です。米国でこれと同じ話をしたら、そんな不吉な話は聞きたくないといわれました。しかし、これこそが仏教の一番大切な教えなのです。ちなみに米国で貪りの退治法として、身体を不浄なものとして瞑想する方法を教えましたら、これまた嫌がられました。でも、私は皆さんに、力及ばずながら、仏教の教えをそのままお伝えしたいと思っています。

無常に関連して大切なのは、人はいつ死ぬかわからないという厳然たる事実です。しかし、人はいつ死ぬがわからないといっても、世俗の出来事を今すぐ放棄せよといっているわけではありません。死がいつ訪れるかわからないことを考え、貪りの心をなるべく少なくしなさいといっているのです。死ぬときには、この肉体は後に残していくしかありません。今生でいくら苦労して物質的な富を築いても、死ぬときはそれを残していくしかないのです。では、無常について、あるいは人はいつ死ぬかわからないということについて、ここで五分ほど瞑想してみましょう。

(参加者全員で五分間、瞑想の実践)

質問者Q :「シネー」(寂止)と観を行じることでどのようなご利益があるのでしょうか。

ゲシェー・ロサン・ケンラプ:

観(lhak thong)とはlkak par thong pa、直訳すれば「特別に観じる」です。心を安住させて、ものごとの究極の本質を、つまり空性を智慧によって観察することをいいます。

「シネー」(寂止)を行じて、どのようなご利益があるかというと――すなわち、これらを行じて、どのような修行の成果を得られるかというと、心を善なる方向のみに向けることができるようになります(不善の方向に向けるのでしたら、修行なしでも誰でもできるわけですから)。

如所有性(にょしょうしょう あるがままなること、法性)と盡所有性(じんしょうしょう すべての現象界の差別のありさま)を智慧によって観じるのが、すなわち観です。声聞・独覚・大乗の三乗すべての果は、止観によってえられるともいえるのです。

「シネー」(寂止)を完成するには、さきほど述べた九段階の各段階に習熟しなければなりません。心を一点に集中させるすべがわかっていなければなりません。

知恵にもさまざまな知恵があります。知恵イコール「善」ともいえないのです。慈悲なき知恵、人類を滅亡させるような武器を発明する知恵もあります。そうした知恵は、仏の方便に反する知恵です。他を害するための慈悲なき知恵です。本当の知恵とは利他の心にあり、他人を慈しむのが善なる知恵、本当の智慧です。

すべての心のありようは、善なる智慧は、止観の中に集約することができるともいわれます。とはいっても、すべてが止かといわれれば、そんなことはありませんし、すべてが観かといわれれば、それもまた違います。


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