ダライ・ラマ法王日本代表部事務所 チベットハウス・ジャパン検索サイトマップメニュー
 
ホーム>チベットについて>チベット仏教>シネー(寂止)についての法話 第2回 ゲシェー・ロサン・ケンラプ

シネー(寂止)についての法話 第2回 ゲシェー・ロサン・ケンラプ

第1回 | 第2回 | 第3回 | 第4回

シネー(寂止)についての法話  第2回 ゲシェー・ロサン・ケンラプ

学問として他の生きものに対して慈悲の心を起こさなければならないと知るだけでなく、実際にそのことについて瞑想することも肝心です。他の生きものの苦しみを自らに引き受け、その苦を味わってみることです。自分も他の生きものも苦しみを望まず、幸福を望んでいる。もし自分が他の生きものに危害を加えたならば、相手は苦しむ。そのようなことはあってはならないと心底感じることで、煩悩を断ち切ることができるのです。

本尊のヨーガなどの瞑想によって、心の平静さを得ることはできるでしょう。しかしそれによって心の平静さを得るだけでは充分ではないのです。真の心の平静さを得るには、自らの心の欠点を知り、それにふさわしい対処法を施していくことも大切なのです。

私たちは他の存在を味方・敵・無関心な相手の三つに分別します。このような分別を行うのも自分自身へのとてつもない執着心があり、なんとしても自分を守りたいと思っているからです。自分の味方である存在は慈しみ、自分の敵である存在には怒りをおぼえる。さらに愛着も怒りも覚えない無関心な相手というものがいる。怒り・貪り・無知の三煩悩はこれらのものが基盤となって生じるのです。

ですから他者を味方・敵・無関心な相手の三つに分別してはいけません。そもそもそう分別する理由さえないのです。敵も味方も真髄を欠いています。今あなたが敵だと思いこんでいた相手が、将来味方に変じたり、味方だと思っていた相手が敵に変じたりすることもあるわけですから。また今、大したことのない相手だと思っていた存在が、将来あなたにとって、とても有益な相手になることもあります。こうした事実はわざわざ経典にあたる必要もありません。そのことについて思い巡らしてみれば、そうとわかるはずです。一時たりとも離れ離れになっているに忍びない愛しい相手が、いつしかその名前を聞くだけでもむかつくような相手になっている。反対に、最初はなんて嫌な相手だろうと嫌悪していた相手が、いつのまにか限りなく愛しい相手になっている・・・。

私は別に敵も味方も存在しないと言っているわけではありません。敵も味方も存在します。ただ、敵であるから憎む、味方であるから愛するという態度を捨てて、どうしてあるものが敵と感じられ、あるものが味方と感じられるのか、その理由を理解し、敵味方を分別するような態度を捨てなさいと言っているのです。

ではここで、瞑想してみてください。敵なるものも味方なるものも真髄を欠いていること、自分も他の生きものも、幸福を望み、不幸を避けたいと願っている点では同じであることをしばらく瞑想してみてください。

瞑想の際の心構え

禅定印


結跏趺坐


半眼で視線は鼻先に

瞑想する際には、大日如来の七つの姿勢をとるとよいでしょう。大日如来の七つの姿勢とは

  1. 結跏趺坐(けっかふざ)
    完全な結跏趺坐ができないならば半跏坐でもよいです。その場合右足を前に出すのがよいでしょう。
  2. 半眼で視線は鼻先に
    目はあまり遠くを見るのではなく、なんとなく鼻先を見ている形で。また、仏像などをじっと見つめて瞑想する人もいますが、「シネー(止、心の平静さ)」の瞑想は目などの五官にともなう意識ではなく、心の意識において行うものですから、目の意識を働かせても役に立ちません。人によっては目をつぶったほうが、「シネー(止)」をよく達成できると主張する人もいるでしょう。それはそれでけっこうです。
  3. 背骨はまっすぐ、からだが前後左右に傾ぐことなく、背筋をのばして。
  4. 肩は水平に保ち後ろに引く
  5. 舌先は上口蓋に、また歯を噛みしめることなく、リラックスして。
  6. 頭は左右前後に傾ぐことなくまっすぐに保つ
  7. 手で禅定印(ぜんじょういん)を結ぶ
    さらに呼吸を荒げることも、浅すぎたりすることもなく、くつろいでください。

なぜ瞑想する際に、このような姿勢をとるべきなのかというと、体が正されれば体の中に走っている脈管が正され、脈管が正されれば脈管のなかを走る風が正され、風が正されれば心が正されるからです。密教では、風は心の乗り物といいます。風の行くところどこにも心は行くのです。風は目の見えない存在、心は、目は見えるものの脚のない存在に喩えられます。片方だけでは動きはとれないが、両者が一体となることで、自由に動けるようになるのです。

瞑想にふさわしい姿勢がとれたところで、先ほど私が述べた瞑想をしてみてください。

瞑想には2種類あります。分析的瞑想(dpyad sgom)と心を平静に一点に集中させる瞑想です。あることがらについて分析しながら瞑想するのが分析的瞑想です。自分が敵とみなしている相手が本質的に敵そのものなのかどうか、味方とみなしている相手が本質的に味方なのかどうかを瞑想するのも、分析的瞑想の一種です。分析的瞑想とは理由を問う瞑想法です。これを充分にやってからでなければ、次の段階の瞑想に進むことはできませんし、後になって、ああではないか、こうではないかと心に疑いが生じることでしょう。

分析的瞑想を行ない、自他ともに苦を望まず、幸福を望んでいるがゆえに、他の生きものに苦しみを与えまい、敵、味方と区別するのは意味がないから、他の生きものに危害を加えるようなことはしまいという結論に達してみてください。

質疑応答

Q :世界には憎悪や憎しみが渦巻いています。我々はそれにどう対処すればよいのでしょうか。

ゲシェー:

まず自分の心の中を覗き込み、自らのなかに怒りや憎しみがあることを知り、それを退治するべく努めてください。自分の中の怒りを滅することで、次第に外の世界にある怒りを滅していくことも可能になります。

外の世界の怒りを、他者の怒りを消すのはとても難しいのです。それより自分の中の怒りを滅し、自分の心をコントロールするすべを覚えたほうがよいでしょう。裸足で岩道を歩けば、足の裏は傷つきます。その時、ごつごつした地面に腹を立てても無意味です。代わりに分厚い靴を履けば、足の裏は傷つかずに済みます。怒りが生じたなら、怒りの対処法である忍耐(忍耐とは苦をただ忍ぶことではなく、いかなることが生じようとも揺るがない心を育むこと)を行じてみてください。腹の立たない時にいくら忍耐心を行じても、いざ腹が立つような状況が生じたときに怒ってしまってはなんの役にも立ちません。腹の立つような状況でこそ、怒りの生じた時こそ、忍耐心を行じるべきなのです。なぜならば忍耐は怒りの対処法だからです。

ダライ・ラマ法王もおっしゃっています。腹立たしい相手を敵と見なすかわりに、自分の忍耐行の師であると、「忍耐心を養いなさい」とアドバイスを与えてくれる先生であると思いなさいと。このように忍耐の心を養うことで怒りは鎮めることができます。

皆さんのような社会人は、部屋の中に独り篭って瞑想の時間を持つのも大変でしょう。日々の仕事があるわけですから。そのかわり、日常生活の中で、仕事に行くにも、車に乗るにも、歩いて行くときにも、常に自分の心のありようを観察し、自らの心を訓練していってみてください。そうすれば、日常生活のなかで仏教の教えを実践していることになります。

仏の境地に達するということはもしかして非常に簡単なことなのかもしれません。身体・言葉・心を存在の真のありように適した形で動かすことができれば、それがすなわち仏の境地なのですから。ですから、あえて部屋に篭って瞑想しなくても、日常生活の中で正しい形で身体・言葉・心をコントロールするすべを習得できればよいのです。

Q :人ごみの中にいると、それだけでもやりきれない思いに、嫌悪感にかられます。どうすればよいのでしょうか。

ゲシェー:

そうした嫌悪感が生じるのも、過去に何かの原因があり、その結果が現在あなたの身に生じているからです。あなたは自分の身に起きたことの原因を外に求めてはいけません。もともと自分の中に原因があり、その結果を自分が引き受けているにすぎないと思ってください。ただし嫌悪の情というものは、怒りそのものではないので、どうしても退治すべき煩悩ではないのです。ただしその嫌悪の情に怒りや貪りといった根本煩悩が混じっているならば、やはり忍耐の心を行じるべきでしょう。貪りの心を退治するには、不快なもの、不浄なものを観想します。また先ほど述べたように、敵味方の分別をする必要がないことを、平等心を瞑想するのも良いでしょう。あるいは縁起について考えてみることもよいでしょう。

Q :肉体と心の関係を教えてください。

ゲシェー:

人を肉体と心に切り離して考え、肉体は衣服のようなものであり、死ぬのは衣服を脱ぎ捨てるのとなんら変わりないと考える宗教もあります。そういう宗教は肉体や肉体に基づく苦しみを無視しがちです。しかし仏教では、人(個人存在gang zag)は肉体の上に成り立っているとみなします。歩くといった単純な行為も肉体があって成り立つものです。仏教では、五蘊(人間存在を身心の五つの要素に分けたもの)に拠らない人(個人存在)はありえないとみなしています。しかし宗教によっては、肉体と心は別のものであり、肉体を軽んじて、切り捨ててもいい、自殺してもなんらかまわないと教えるものもあるのです。仏教では肉体と心を関連付けて考えます。

Q :縁起論を誤解して、他人が不幸な目にあうのはその人自身の過去生に原因があり、不幸な境遇に陥った相手になんら同情する必要はないと主張する人もいますが、そういう人々の考えをどう正したらよいのでしょうか。

ゲシェー:

苦しんでいる他者に対して、「おまえが苦しんでいるのは前世で悪いことをした結果だ。因果応報だ」と言って哀れみの心を起こさずにいるのでしたら、大乗仏教の道そのものを、いや仏教徒としての道そのものを踏み外しています。苦しんでいる相手に哀れみの心を起こすのは当然です。「この人は因果の法則を理解せずにこんな目にあってしまったんだ。なんて可哀想に」と思わなければならないのです。

仏教徒ならば、前世を、輪廻転生を百パーセント受け入れています。そして輪廻には始まりはないのです。輪廻に始まりがないなら、生きとし生けるものすべてが、最低一度は我々の父や母であったことがあるはずです。かつて自分の両親であった貴い存在が目の前で苦しんでいるのにどうして哀れみの心を起こせないことがありえましょうか。

逆に自分がなにかの苦しみにあっても、その苦しみの原因を外の世界に求めてはなりません。

チベットを例にとってみましょう。チベットは他国を侵略するための武器もなければ、そのような意図もありませんでした。チベットは豊かな国ではなく、食糧もかつかつです。そんな国でチベット人は自分たちのささやかな幸福な生活を営んでいたのです。にもかかわらずあれほどの苦しみを受けた。その原因は過去のカルマとしかいいようがありません。チベットが中国に侵略を受けてからすでに50年あまりの歳月が過ぎました。しかしダライ・ラマ法王は常々、中国人に対して怒りの心を持ってはいけない、逆に彼らが悪業をなしたことに憐れみの心を持ちなさいとおっしゃっています。

輪廻が存在する証拠は様々なところで見て取ることができます。どんな生きものも本能的に自分の仔を慈しむことを知っています。こうした本能も前世があるからこそ生じるのです。同じ親から生まれた兄弟の性格や知性が異なるのも前世からの影響といえます。

Q :私は瞑想の初心者ですが、毎朝、瞑想するとして、どのような瞑想を行うべきでしょうか。

ゲシェー:

先ほど行ったような瞑想でもよいですし、自分の心に怒り・貪り・無知の三煩悩のうち、どれが一番強いか見極め、その煩悩を特に退治するための瞑想法を行ってみてもよいでしょう。

Q :人が事故や災害やテロにあって死ぬというのはその人の前世に原因があるのでしょうか。

ゲシェー:

そうです。というより、原因のない結果はありえません。然るべき原因を積むことで、何かの結果が生じるのです。外の世界を見てもそのことは明らかでしょう。種が無ければ花も咲かず、木も生えません。ですから、私たちがいかなる苦難を受けようと、究極的にはその原因は自分にあります。他人にその原因を押し付けることはできません。

Q :では、そうした不幸にあった人々のために祈ることは、何か役に立つのでしょうか。

ゲシェー:

まったく役に立たないとは言いませんが、単に祈るだけで救いがもたらされるなら、我々はとっくの昔に輪廻から脱出できているはずです。釈尊は我々を救うために悟りを開かれ、我々に無量の慈悲の心を注いで、我々をなんとか仏の境地に導こうとしています。しかし我々の身体・言葉・心が不浄であるために、いかんともしがたく、そこで我々はいまだに輪廻世界に留まっているのです。でも死者のために祈願することは、死者のために道をつけてあげることであり、それはそれで大切な役目があると思います。また祈願したあなた自身、善根を積むことができます。


第1回へ

第3回へ


第1回 | 第2回 | 第3回 | 第4回

チベットについて

ページトップへ戻る


トップページサイトマップお問い合わせ

チベットの現状をご理解して頂き、どうもありがとうございます。
ダライ・ラマ法王日本代表部事務所はチベット亡命政権の代表機関として維持しつつ、さらに幅広い広報活動を続けるため、日本の皆様に暖かいご支援をお願いしております。ご寄付される方は、以下の口座宛てにご支援をどうぞ宜しくお願い致します。

■ゆうちょ銀行

 口座記号番号:00100-1-89768
 加入者名:チベットハウス

■三菱UFJ銀行

 支店名:新宿通支店(店番:050)
 口座種別:普通
 口座番号:2999213
 口座名義:特定非営利活動法人 チベットハウス・ジャパン