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2000年までに死刑全廃を目指す国際連帯運動の創設会議に寄せて

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(1993/12/9-10 欧州議会 ブリュッセル)

人間や動物たちを含む生きとし生ける物全ては、幸福を求め、苦しみを避けようとするものです。この点について、私たちは皆同じです。事実私たちは、幸福を追求し苦痛を回避する権利を有しています。しかし、自分の幸福を探し求める課程では、自己の利益と他者の利益に関し、賢明な判断を迫られることもあります。

人間として生を受けるのは、極めて得難いものです。これは、仏教の中で強調して説かれていることですが、他の宗教や哲学も同様な立場をとっています。仏教の教えによれば、(輪廻に生死を繰り返す)生き物たちが人間として生まれるのは、実に稀有で困難なことであり、その貴重な機会は、余すところ無く有意義に−自分自身と他人とが心の解脱へ至る長い道程を進むために−生かされなければならないのです。

人生の中で私たちはしばしば過ちを犯し、自分自身や他人を害する結果を招いてしまいます。私たちがそうした過ちを犯すのは、まさしく無知に起因するのです。ある行為が、実際には自分を苦しみをもたらすのに、それが幸福をもたらすだろうと考えてしまうのです。利己心,貪欲,憎悪,慢心といった感情は、時として他者を害するように私たちを仕向けるものです。それは、他者を害することが自分自身の利益となり、それによってある種の幸福を得られるだろう−という間違った確信に裏打ちされています。しかし実際のところ、他者を害するという行為は、その被害者ばかりでなく加害者自身にも苦しみをもたらすものなのです。まさに、加害者本人の心の平安をひどく掻き乱し、苦しみの種を自ら育ててしまうわけです。

人間というものは集まって生活することを必要とし、人生の重要な局面の多くで相互依存の関係を形成しています。それゆえ人間社会に於いては、お互いに平和で調和のとれた暮らしを送るため、行動に関する道徳律が必要となってくるのです。宗教や哲学は、かかる道徳律を向上させ、啓発する機能を有しています。政治的な社会では、法律という形でルールが制定されるわけですが、それは道徳的なルールに基づいて定められる場合もあるし、また時としては道徳に反するようなものとなってしまうケースもあります。とにかく、各国の法律制度のもとで、犯罪行為は当局により罰せられることになるのです。

何をもって犯罪とみなすかは、それぞれの国によって、判断の非常に異なる場合があり得ます。例えばある国々では、人権について率直な発言をすることが犯罪にあたるとされていますが、別な国々では自由な発言を妨害することの方が犯罪になるのです。犯罪に対する刑罰も、かなり異なっています。それらの殆どは、様々な形態の禁固刑または懲役刑,罰金刑の範疇に入るものですが、幾つかの国々には肉体的苦痛を課する刑罰も存在します。ある国々では、政府が特に重大だと判断した犯罪に死刑を適用し、犯人を殺すことを持って刑罰としているのです。

他者を害することが間違っているのはもちろんだし、規則を定め法的な強制力をもって犯罪を抑制し、被害の発生を防ぐことが必要なのは当然です。刑罰は予防措置の一環と位置付けられます。なぜなら、他の人間が同じ罪を犯さないために警鐘としての役割を果たすし、同一人の再犯を防ぐことにもなるからです。このように、刑罰は必要不可欠な機能を有しています。しかしながら刑罰を課することが、第一義的に被害者,或いは社会が犯人に対し抱いている憎悪と復讐の感情を満足させる目的でなされるならば、それは正しいものといえません。官憲の手で課されるという形の刑罰が、被害者たちの心理からして求められる度合いが高いとしても、他人へ苦痛を与えることは、既に存在する苦しみを益々強めるばかりで、関係者の誰一人とて幸福を増大させる結果にはならないのです。

復讐ではなく、罪を許す心こそ、育み発展されてゆくべきものです。主な宗教の殆ど、そして人道主義の哲学者たちが、この点を強調しています。

死刑が犯罪予防の役割を果たすことは確かですが、また復讐の一形態としての側面があることも極めて明白でしょう。死刑は刑罰の中でも際立って過酷なものです。なぜならそれはある意味で、後戻りできない結果をもたらすからです。人間としての命に終止符を打つということは、つまり刑死した人から更正,賠償,贖罪の機会を永遠に奪い去ってしまう結果になるわけです。

仏教徒にとって生き物の命を奪うことは、たとえ虫一匹であっても罪悪になります。まして、人間の生命を奪うという行為の重大性は、計り知れないものがあるのです。そうした行為の責任を帰せられる人は、大変な悪行を積むことになります。なぜなら、人間として生を受けたことは、(輪廻に生死を繰り返している)生き物にとって、向上のための貴重な機会だからです。犯罪に関する問題は、犯人を殺すことで解決がつくわけではありません。教育を通じ、また普遍的責任感を確立し、それによって心の優しさや慈悲を育んでゆくことだけが、長い目で見て事態を改善し得るのです。

今日多くの社会で、こういう大切な鍵となるべき価値を高めてゆくための教育や行事,社会的プログラムは、殆ど重視されていません。実際に一例としてテレビ番組を取り上げてみるならば、娯楽として高い価値を誇っているのは殺人を含めた暴力です。これは間違ったアプローチを示す、氷山の一角というべきものです。

私は人間が生まれながらにして凶暴な生き物ではないと信じています。だからこそ人間は、鋭く長い牙で他の生き物を襲ったり殺したりしないのです。人間が暴力的になるのは、主として周囲の環境や状況の結果にほかなりません。暴力やその他の犯罪への対抗手段としての暴力を是認しても、もくろみと逆効果になる可能性があります。確かに重大な罪を犯した被疑者を殺してしまえば、他の人々に対する潜在的脅威を除くという点で、短期的には目的を達せられるかもしれません。しかし、犯罪−特に暴力−を減らすということに関し、長期的でより一層重要な目的を、それによって達成するのは不可能です。幾つかの国では、いわゆる政治犯という理由によっても、人々が殺されています。こうしたことは社会にとって、とりわけ有害です。死刑によって、犯罪という問題を解決することはできません。そして多くの場合、復讐や殺人を正当化するような考え方を助長しています。暴力が、より一層暴力を増殖させる−とマハトマ・ガンジーが考えたとおりなのです。まさに死刑は、暴力の一形態にほかならないのですから。

私は全ての人に訴えます。子供も大人も慈悲と優しさへ向かい、善なる心を育てる道を歩めるよう、教育などの方法について前向きかつ真剣に考えて欲しいと思います。そうしたことに、まだ社会の中であまり多くの努力が払われていませんが、それこそ進むべき唯一の道なのです。