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1956年11月 ダライ・ラマ法王、 インド釈尊入滅2500年記念祭ブッダ・ジャヤンティに出席

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「チベット政治史」(亜細亜大学アジア研究所)より抜粋

1956年、インドは釈尊入滅2500年記念祭ブッダ・ジャヤンティの準備を始めていた。その年の春、インドのマハーボーディ協会会長シッキムのマハーラージャ・クマールがマハーボーディ協会よりの招待状を携えてラサにやってきた。ダライ・ラマはインドでのブッダ・ジャヤンティ祭に招待された。ダライ・ラマは招待をうけた。インド出発の日が近づくと、ラサの中国当局は、

「ダライ・ラマの存在はチベットの首都に不可欠である」と主張しはじめた。「準備委員の仕事は山積みしているし、カムやアムド地方では何回も決起が興っている」

というのである。そこで、ダライ・ラマの専任教授補であるティジャン・リンポチェがダライ・ラマの代理に任命され、インド行きの準備にとりかかった。

ブッダ・ジャヤンティは仏教徒にとって重要な式典である。ラサ周辺の大僧院の高僧や、ラサの民衆などは、ダライ・ラマ当人がブッダ・ジャヤンティに臨席すべきであると声高に叫びはじめた。その上ネルー首相も、ダライ・ラマがこの式典に出席するためにインドを訪問することができるなら誠に有益であろうと北京に忠告していた。最終的に中国当局は、ダライ・ラマに対し旅行を許可し、その後、ダライ・ラマの2人の専任教授とパンチェン・ラマと3人の閣僚を随行させる手はずを整えた。一行の出発に先だって中国はダライ・ラマにどういうふうにふるまうべきかを指示するのを忘れず、また演説の草稿も手わたした。

機上の人となる1日、ナトゥ峠を越えたダライ・ラマは、車でシリグリに向かった。シリグリのバグドグラ空港から特別機に乗りかえたダライ・ラマは、1956年11月25日、インドの首都デリーのパーラム空港に到着し、インドの副大統領、首相、その他の指導者や外国要人に出迎えられた。

ダライ・ラマはユネスコの会合に出席し、求められるままに、インドからチベットに仏教が伝来した経緯とチベットにおける仏教の現状について講演した。その際ダライ・ラマは中国人の指示を無視し、用意された演説原稿も破棄して、

「世界中で平和が説かれるなか、小さな独立国家が強大な国々によって虐げられる例がみられると述べ、このようなことは決して見逃されてはならない」

と強調した。

ダライ・ラマはニューデリーよりインドの聖地をめぐる巡礼の旅を行い、また多くの工業地帯を視察した。カリンポンより、ギャロ・トゥンドゥプ、僧官書記補ロサン・ギェンツェンと通商代表団団長W・D・シャカッパはチベット社会福祉委員会のメンバー数名を率いてダライ・ラマ一行に加わり共に旅をした。通商代表団団長たちは何回も閣僚たちと話し合いの席をもち、

中国側がカムとアムドで”強制改革を挙行し、これらの諸改革がその地の人々より強い反対をうけている”こと、また中国が17条協約を破って、それらの地域の僧侶を殺害し、宗教施設を破壊しているとのニュースが伝えられていることや耳に入った他の証言を披露し、ダライ・ラマの随行員たちにその信憑性と、ウー・ツァン地方でもそのような残虐行為が犯される可能性があるかどうか

を尋ねた。

閣僚たちはしばらく明確な解答を避けた。しかし、ある暇なおり、彼らはチベットを象のもちあげた足の下に置かれた卵に喩えてみせた。象は中国であり、卵の命は象がどう出るかにかかっているわけである。私たちは、そのような壊滅的状況を回避するための何らかの計画があるかと尋ねたが、高官たちは互いに警戒して、そのような計画を抱いている者があったとしても、中国支配下のチベットの状況について明確に描いてみせた者はいなかった。

この機会を捉えて一時なりともダライ・ラマをインドに留めおき、その間にインド政府を通して北京政府と平和的交渉を行うようにと通商代表団団長らは彼らに説いた。彼らはその時、祖国の将来のために好ましい決着をもたらすことができるに違いないという希望を抱いていた。閣僚たちは北京にこの提案をしてみると返答したが、はたして彼らが実際にそうしたかどうかはわからない。しかしダライ・ラマがその時すでにネルー首相に、

「平和的手段によって、自分たちの自由を勝ちとるまでインドに残りたい」

との希望を表明していたのは確かである。インドの首相はダライ・ラマにチベットへ戻り、17条協約を信頼して中国と平和的交渉にあたるよう助言した。ネルーはまた、

「来印の予定のあった中国の首相周恩来とこの問題を話し合ってみる」

ことを約束した。こうしてダライ・ラマのラサへの帰還が決定された。