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仏教は心のサイエンス 仏教と科学、その接点と融合

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人間会議 2003年冬号(出版:宣伝会議)より

午後の講演にて 観客に手を振る

チベット仏教の最高峰ダライ・ラマ14世は、過去16年から17年にわたり、物理学から、大脳科学、遺伝子、心理学と多岐のジャンルにわたる世界中の科学者たちと対話を続けてきた。その対話が、今回、初めて日本の科学者たちとの間で実現した。去る11月2日に開かれたダライ・ラマ法王来日講演「科学と仏教の対話」から、その内容を抜粋してお伝えする。

仏教は心のサイエンスである


仏教者であるダライ・ラマ法王が、なぜ科学者との対話を重要視し、繰り返しているのでしょうか。

ダライ・ラマ法王

約20年から30年前、私の中でぜひとも科学者たちと会い、対話をしてみたいという強い気持ちが生まれました。そして、欧米やインドの科学者たちとの対話が始まったのわけです。仏教を学んでくるなかで、私は、体を構成している要素、あるいは宇宙論、物理学、心理学などについても学んできました。

仏教は心のサイエンスであると私はとらえています。人間の内なる部分を助けてくれる可能性を持っているものである、その可能性は計り知れないものです。また、それは仏教だけではなく、すべての宗教に共通する可能性でもあるとも考えています。多くの宗教はその可能性を生かすことによって、人間により多くの幸せをもたらしてくれるものだと信じてもいます。

幸せは、仏教でいう祈りや瞑想ではなく、人間の中の感情や本質を見極め、それを明らかに認識すること、信心の心ではなく科学的アプローチで訓練することによって生まれてくるものでしょう。科学的アプローチによってひとりひとりが心の中の平和を得る、それがひいては世界平和を達成する手段ともなるのではないかと思っています。

心と体、宗教と科学の重要性


村上先生は、遺伝子のスイッチオンとオフということを研究されています。

村上和雄博士

遺伝子の暗号解読に20年以上携わってきていますが、ある時、気がついたことがあります。遺伝子暗号というのは、すでに誰かによって書かれたものであるということです。私たちは暗号がすでに「誰か」によって書かれていたから読むことができたわけです。

では、それを誰が書いたのか。もちろん人間ではなく、自然が書いたものとしか言えません。それも偉大な存在です。それを私は「サムシング・グレイト」と呼んでいます。サムシング・グレイトが何かというのは、人類の永遠のテーマでしょう。でも少なくとも、科学の現場でもそうした存在を仮定しなければ、私たちが生きていることの説明はつかないことは確かなのです。また自分の研究からは、楽しいことや感動することなど、精神面から来るフィーリングまでが遺伝子のスイッチオンとオフに関係しているという大胆な仮説を立てています。

心が体に大きな影響を及ぼすということは間違いないのですが、どこに影響を及ぼすのかまではわかっていません。私は遺伝子に直接か、間接に影響を与えるはずだと考えていますが、それをぜひ科学の言葉で語りたい。心と体、あるいは物質と精神、宗教的なものと科学的なものが、遺伝子と心というところでつながるのではないかと期待しています。

ダライ・ラマ法王

アメリカのウィスコンシン大学での実験で、脳が心のある状態に反応して特別な効果を得ることがわかっています。私たちの心の状態がどのようなものであるかによって脳は反応するわけですし、脳の反応によって、肉体や感情もまたいろいろに動き、変わっていくわけです。ですから、私たちの心は、体をコントロールする源のようになっているともいえます。

さらに、心にも様々なレベルがあります。すべての五感が活発に働いている状態、夢を見ている状態、深い眠りに落ちているような状態、そして死を迎えた時。臨床的には脳の働きも心臓も止まって死亡とされた場合でも、体自体はまだ生きているという状態もあり得るのです。脳死、心臓停止でありながら、肉体自体は新鮮なまま数日から一週間も留まり続けたという修行者がいます。仏教徒としては、臨床的な死であっても、肉体が新鮮なまま留まっている場合は、非常に微細なレベルの心が体の中に留まっていると考えます。それは死ではなく、死に至る過程の中の一つの状態でしかないわけです。

互いの宗教に尊敬を払う


小柴先生、いかがでしょうか。

小柴昌俊博士

科学とは、新たなものの発見です。そのために自分と客体を分けて観測する手法を用います。だからこそ、誰にでも理解できる形で示すことができ、人類共通の知的財産として残していくことができるのです。それが科学研究の一部本質的な面です。

しかし、「認識する主体」である自分をどう科学的に理解するのか、ということは非常に難しい問題ですし、科学的認識とは異なるタイプの認識の仕方があることも、私は知っています。例えば、僧の悟りですとか、モーツァルトを聴いた時に感じる陶酔感など、主観と客観が一体となっている主客未分離の認識というものがあります。このような認識をしていると思われる「宗教」には、私は全く素人ですので、何かこの場で発言できるとは思っておりません。

ただひとつ、私が歴史を見ながら感じることについてダライ・ラマ法王様にご意見を伺いたい。キリスト教徒の十字軍遠征などを見て、どのような宗教も成長する過程で、青年期のように排他的になる時期があるのではないかと思うのですが、世界の主要な宗教の中で、他の宗教への徹底的な攻撃を行わないのは、私が知る限り仏教だけです。他の宗教に対する寛容性、というところに仏教がこれから世界平和に寄与できる可能性があるのではないかと考えております。

ダライ・ラマ法王

この世には伝統的な様々な宗教がありますが、どの宗教もすべて同じメッセージを伝えていると思います。それは慈悲であり、愛であり、赦しであり、人間性であり、満足を知ることの大切さです。多くの宗教は「より多くの幸せな人生を送るために、より良きものを」という目的を持ってメッセージを発しています。

人間はこれらすべての宗教を受け入れることができるはずです。しかし、自分自身の宗教に真摯な態度を持っていないところから、問題が起こってくるのでしょう。これは仏教もキリスト教も同じです。信者たちは「自分は○○教徒だ」と言いますが、もっとも大切な「教えの実践」という部分で欠けているところがあるから間違いが起こるのです。

宗教を政治や経済など、権力の場に使ってしまうことがあります。でも間違った使い方をする一人の指導者がいるからといって、その宗教全体を非難することはできません。大切なことは、それぞれの宗教が対話を通して宗教観の相互理解を深めること、互いの宗教に尊敬を払うことだと思います。

 

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