チベット民族の起源

「チベット政治史」(亜細亜大学アジア研究所)より抜粋

チベット民族の起源に関しては二つの伝説がある。一つはインド人起源伝説とでも呼ぶことができよう。カウラヴァ軍のルーパティなる王もしくは指揮官がパンダヴァとの大戦争に敗北し、部下と共にチベットへ逃亡したという説である。チベットの多くの学者たちが彼らこそチベット人の祖先であると主張している。この説は仏陀が入滅して約百年後にインド人パンディット、シャンカラ・パティ(デジェ・ダクポ)によってしたためられた書翰に基づいている。その書翰の中で彼はルパティの部下たちがチベットへ移住したことを詳述している。

第二の伝説によるチベット人は猿、正確には観音菩薩の化身である雄猿の子孫ということになっている。この雄猿は羅刹女と交わって六つの種族を生み出した。これらの子供たちは尾が無いことを除けば、外観はほかの猿となんら変わることはなかった。けれども次第に彼らは猿の特徴を失っていった。父親に似た子供たちは大変慈悲深く、知性があり、豊かな感性を持ち、無駄話をしない者となった。母親の羅刹女の性格を受け継いだ子供たちは顔が赫く、罪深い行為を好み、非常に頑固であった。

伝説によると、これが起こったのはウー・ツァン地方のツェタン近郊であるという。ツェタンの裏にはコンポリなる山があり、これら猿の祖先は遊んでいた洞窟を今なお見ることができる。十一世紀にチベットを訪れたインド人パンディット、アティーシャはラサのチョカン寺(大昭寺)の柱の中にある文書を発見した。七世紀のソンツェン・ガムポ王の御代の伝承に従って書かれていたその文章は、第二の起源説を支持する証拠を与えるものであった。

現代の人類学者たちは、チベット人はモンゴル人種に属すると主張している。チベット人は何世紀にもわたってモンゴルと密接な関係を保ってきたことからも、この主張はもっともらしくみえる。しかし今日にいたるまでチベット人とモンゴル人の頭蓋骨の比較は行われていない。チベットのウー・ツァン地方の人々の大半は、背丈は低め、短頭種で、頬骨が尖っているため、他の地方の人々とは少々異っている。ド・ドゥー(カム地方)とド・メー(アムド地方)の人々は背が高く、四肢は長く、長頭種である。

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