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ダライ・ラマ法王が著した1959年3月10日

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FREEDOM IN EXILE「ダライ・ラマ自伝」より

・・・夏の最中にカムとアムド全地域が公然たる戦闘状態に突入した。ゴンポ・タシという指導者に率いられた解放戦士は日に日に数を増し、中国側に対する襲撃は大胆さを強めていった。中国軍も容赦なく反撃し、町や村は爆撃、砲撃によって広い地域が廃墟と化した。そのため数千にのぼる難民がラサに逃げ込み、市の外の空き地にキャンプを張った。人々のもたらした空恐ろしい話の数々は、あまりに残酷で何年も信じる気になれなかったほどだった。1959年に、国際法曹家委員会が出した報告書を読み、私の耳にしたことがやはり本当であったことをやっと受け入れたくらいだ。

1959年3月の民族蜂起、
ラサのポタラ宮前に集まった夫人たち

磔、生体解剖、腹を裂き内臓を暴き出す、手足の切断などざらであり、打ち首、焙り殺し、撲殺、生き埋め、馬で引きずり回して殺したり、逆さ吊り、手足を縛って凍った水に投げ込み殺すといった残虐さは枚挙にいとまがなかった。処刑の最中に「ダライ・ラマ万歳」と叫べないよう舌を引き抜いたりもした。

中国当局から間接的に連絡があり、私がいつ観劇に来られるか正確な日取りを教えろと言ってきた。わたしは3月10日が都合がいいと伝えた。観劇の前日、中国人将校が私の親衛隊長の家にやってきて、軍事顧問であるフー旅団長との会見のため旅団司令部に同道して欲しいと言われたと告げた。明晩の観劇について打ち合わせがしたいというのである。

親衛隊長が出向くと旅団長はこう切り出した。中国当局は、いつものような形式ばった訪問儀礼を省きたいと思っている、と。そして
チベット兵は連れてくるな、どうしても必要というのなら、2、3人の丸腰の護衛だけにしろ
と主張し、
すべては極秘で運びたい
と告げた。何もかも胡散臭く思われ、私の側近たちはあれこれ討議したが、結局招待を断れば、非常に憂慮すべき結果となりかねない約束違反を問われずに済むまいということになった。で、仕方なく事を荒立てないよう一握りのお供だけで行くことに同意した。

(省略)

私の行動を秘密にしておくことはもともと不可能であり、中国当局がそれを強制しているという事実は、わたしの安否を非常に気遣っている市民に大きなショックを与え、そのニュースは燎原の火のようにたちまち町中に広まった。

ラサに集まった群衆

結果は破局的であった。翌朝、祈祷と朝食を終え、早朝の静かな朝の光を浴び、庭園に散歩に出た私は、遠くから上がる叫び声に驚かされた。すぐ邸内に入り、人をやって喚声が何なのか調べさせた。帰って来た使いは、ラサ市内に人が溢れ、こちらに向かっている。彼らは中国人の手から私を直接守ろうと決心しているようだと報告した。人数が次第に増え、あるものは1団となって離宮の入り口を固め、あるものは周囲をパトロールし始め、昼までにはその数はおよそ30,000人にも達していた。朝、離宮に入ろうとした閣僚3人も群衆に阻まれ立ち往生する有様だった。人々は、中国側に協力したと疑われる者には誰であろうと敵意を示した。中国人護衛と一緒に車に乗っていたある高級官僚は裏切者と思われ投石を受け重傷を負わされた。彼は誤解されたのである(これについて、1980年代になって、「17か条協定」に強制署名させられた代表団メンバーだった彼の息子がインドに行き、当時の模様を詳しく書いている)その後、実際に殺された人がいる。

この報に私は背筋が寒くなった。状況を緩和するために何かをしなくてはならない。激情に駆られ、群衆が中国駐留軍を襲うかもしれない。自然発生的に民衆は何人ものリーダーを選出し、チベットはチベット人に返せと要求し始めていた。私は鎮静を祈らずにはおれなかった。もはや中国軍司令部での観劇など問題外である。で、侍従長に観劇辞退を電話で伝えさせ、あわせて、平静さを速やかに回復し、群衆に解散するよう説得すると伝えた。

だが、群衆はノルブリンカ離宮の前から動こうとはしなかった。市民やリーダーたちとしては、ダライ・ラマの命が危機に瀕しており、その晩中国軍司令部に行かないという私自身の確約がないかぎり、てこでも動かないと覚悟だったのだ。私は側近の1人にその旨を伝えさせた。だがそれだけでは不充分だった。人々は私が今後も決して司令部へは行かないと約束してほしいといってきた。私は再度確約し、その時点でリーダーの大半はその場を去り市内に入り、新たなデモを組織しはじめた。しかし、ノルブリンカ離宮の外には依然多勢の群衆が残り、立ち去ろうとはしなかった。残念なことに、人々は、彼らがそこにいることによって、よりいっそうの危険を招来しかねないことを 理解していなかったのである。


「ダライ・ラマ自伝」 山際素男訳 文芸春秋より