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『入中論』の法話会 2日目

2020年7月18日
インド、ヒマーチャル・プラデーシュ州ダラムサラ

ダライ・ラマ法王は、今朝も微笑みながら部屋に入られると、正面のモニターの中に見覚えのある人々を見つけて手を振られ、着席された。法王は、すぐにチャンドラキールティ(月称)の『入中論』の続きをはじめられた。

オンライン法話会の2日目、正面のモニターに映し出されたナーランダー・シクシャのメンバーの中に見覚えのある人々を見つけて手を振られるダライ・ラマ法王。2020年7月18日、インド、ヒマーチャル・プラデーシュ州ダラムサラ(撮影:テンジン・ジャンペル / 法王庁)

「すでに申し上げたように、チャンドラキールティは偉大な哲学者であり修行者でしたが、ナーガールジュナ(龍樹)同様、すでにこの世にはおられません。人間は長くても百年程度しか生きられませんが、彼らの著作は千年以上も存続し読み続けられています。こうした数ある著作の中でも、『入中論』は特に重要な論書のひとつです」

「私が持っている知識は、若い仏教学者たちのようには新しくないかもしれませんが、これまで科学者、学者、指導者といった方々と直にお会いして話をする機会を多く持てたことは、私にとってとても有益な経験でした。私は現代科学に魅力を感じており、チベットの僧院でも科学を学ぶよう奨励しています。実際に、デプン僧院ロセリン学堂には研究室が設けられ、僧院の学習カリキュラムに科学の授業が加わりました」

「前にも言いましたが、古代インドの知識は現代においても大変有益です。今日の諸問題は感情に端を発しており、その解決方法は、祈りではなく、分析によって見出すことができます」

「昨日は、空性を理解することの重要性についてお話ししました。空性の理解は、智慧と方便という仏教の二つの修行のうち、智慧のカテゴリーに入ります。今日は、第1発心の9偈以降に説明されている方便の修行、すなわち布施、持戒、忍辱などについて学びます。私たちは、国際連合(UN)のように、貧しく困難を抱えた人々に施しをするべきです。施しをする人のまわりには友人が集まります」

「今日の世界には、非常に大きな貧富の差があります。私たち自身が社会の一部であるのと同様に、貧しい兄弟姉妹の方々も社会の一部です。そのように考えるなら、貧しい方々を助けることは、裕福な人々にとっても布施を実践する有益な機会が得られます。そして、貧困にあえぐ人々を目にすると、慈悲の心だけでなく、実際に手を差し伸べて助けよう、という意思が生じてくるのです」

ナーランダー・シクシャの要請によって開催された法話会の二日目、法王公邸からインターネットを介してお話をされるダライ・ラマ法王。2020年7月18日、インド、ヒマーチャル・プラデーシュ州ダラムサラ(撮影:テンジン・ジャンペル / 法王庁)

「次の第2発心では、持戒(倫理と自己制御)について説かれています。布施行は、他者への搾取を伴ってはいけません。自分の評判や名声などは気にかけず、ただひたすら他者の幸福を願うべきです。温かい心から生じる布施の行いは、商売上の取引とは違います。戒律や社会の規範を守ることは今世における利益をもたらすだけでなく、来世において幸せな転生を得る土台にもなります」

「第3発心には、忍耐についての教えが説かれています。誰かがあなたを害した時、怒りで相手に反撃しても問題は解決しませんし、何も得るものはありません。相手を許し、ネガティブな気持ちを手放すほうが賢明です。怒っていると表情が歪みます。怒った顔を見て心地よく思う人はいません。怒っていては正しい判断もできませんし、怒りは私たちを盲目にしてしまいます。怒りは、私たちの心の平和を破壊する最大のものであり、身体の健康にまで害を及ぼしてしまいます」

「誰かがあなたを非難した時、もしあなたが微笑んでいれば、相手は攻撃の手を緩めるでしょう。忍耐は良いカルマをつくり、来世に良い影響を与えます。日常生活においても、実際的な利益をもたらしてくれます」

「智慧と方便という二つの修行の中で、布施、持戒、忍辱の修行は方便の側に属します。これらは仏陀の色身(形あるお体)を得る因となる、とチャンドラキールティは第3章12偈で次のように述べておられます」

布施、〔持戒、忍耐〕の三法(三つの修行)は
大概の善逝が在家の者たちに称えている
福徳と言われる資糧もまた、これら〔の三つであり〕
仏陀の色身の本質となる因である

「第4発心では精進について説かれています。そして、心の修行は簡単に達成できることではないので、決意とたゆまぬ努力が必要だと説かれています。第5発心には、一点集中の瞑想、つまり禅定について解説されています」

「智慧について説かれている第6発心では、目が見える者は、盲目の人々を導く責任がある、と説いています。私たち人間は、全員が幸せを望み、幸せに生きる権利を持っています。盲目的な無知に覆われた人々を救うには、智慧が必要です。実際のところ、幸せは心の内から生じるものですが、一般的に私たちは、幸せは外からやって来ると思いがちです。私たちは、内なる平和を育む方法を知る必要があります」

オンライン法話会の2日目、チャンドラキールティ(月称)の『入中論』について解説されるダライ・ラマ法王。 2020年7月18日、インド、ヒマーチャル・プラデーシュ州ダラムサラ(撮影:テンジン・ジャンペル / 法王庁)

続いてチャンドラキールティは、『入中論』のテキストの中で述べられているように、ナーガールジュナが引き継いできたナーランダー僧院の伝統に基づいて解説されている。過去に多くのインドの導師たちが「究極の真理」を理解しようと探求を深めた結果、説一切有部(ヴァイバーシカ学派)、経量部、唯識派、中観派という四つの仏教哲学学派が形成されたのである。

チャンドラキールティが属する中観帰謬論証派は、すべての現象は単に名前をつけられたことによって成立しているに過ぎないと主張している。法王は、チャンドラキールティのようなインドの偉大な導師たちは、人間の知性を最大限に活用していると述べられた。チャンドラキールティは、アサンガ(無著)やヴァスバンドゥ(世親)は、ナーガールジュナの解説を完全には理解していない、と指摘している。チャンドラキールティは、すべての現象は原因と条件に依存して生じているのだから、それ自体の側から他のものに依存せずに存在しているのではなく、固有の実体を持って存在しているのではない、と明確に述べられている。

「ナーランダー僧院の伝統は、発祥の地インドでは次第に衰退していきましたが、その知識は、チベットにおいて、また一部はモンゴルにおいて、数世紀にわたって生きた伝統として継承されています」

「『入中論』のテキストの中には、過去世で積んだ良き資質の習気(習慣性の力)により、空性についての解説を聞くと抑えきれない喜びが沸き起こってくる人がいると述べられています。髪の毛が逆立つような感覚を覚えるのは空性に関心があることの証であり、そういう人こそ、この教えを聞くにふさわしい器だとされています。第6発心の7偈の最後には、“〔歓喜地〕を熱望する者はこの〔修行〕道について聞くべきである” と結ばれています」

続いて法王は、モニターに映った参加者からの質問を受けられた。本日の司会者アニタ・ドゥーダン博士は、世俗のレベルにおいてすべての現象が存在することを、どうやって証明できるのかと尋ねた。法王は、これはすべての現象が存在するかしないかを区別するとても重要な点であると指摘された。中観帰謬論証派の主張によれば、「七つの論理(七相道理)」に従って対象物を分析するならば、いかなる客観的な存在をも見出すことはできない。すべての現象の中に、他のものに依存せず独自の力で存在するような実体を探し求めても、これが実体であると指を差して示せるようなものは何も見つからない。しかし、世俗のレベルにおいてはすべての現象は確かに存在しているのである。

法王は、ナーガールジュナの『根本中論頌』第22章を引用された。

〔如来は〕五蘊ではなく、五蘊と別のものでもない
〔如来の〕うちに五蘊があるのではなく
如来が五蘊を所有しているのでもない
では、如来とはいかなるものであろうか(22章第1偈)

法王ご自身は日頃から、この偈頌の “如来” という言葉を “私” に置き換えて、自我について繰り返し考えていると述べられた。

〔私は〕五蘊ではなく、五蘊と別のものでもない
〔私の〕うちに五蘊があるのではなく
私が五蘊を所有しているのでもない
では、私とはいかなるものであろうか

すべての現象を分析してみても、他のものに依存せずそれ自体の力で存在するような実体を見出すことはできない。それでも世俗のレベルにおいてはすべての現象は確かに機能を果たしているのだから、すべての現象は確かに存在している、という結論に至る。法王は、ジェ・ツォンカパが、これは中観派の見解の中でも最も難解な部分だと述べられていることを指摘された。実体をもつ客観的な存在は論理によって退けられる。しかし、単に名前を与えられただけの存在として、すべての現象は存在するのである。そのことを否定してしまうと、昨日お話しした「論理に反する4つの誤った結論」に陥ってしまう。

オンライン法話会の2日目、インターネットを介して参加者の質問に答えられるダライ・ラマ法王。2020年7月18日、インド、ヒマーチャル・プラデーシュ州ダラムサラ(撮影:テンジン・ジャンペル / 法王庁)

次に、シッキムのガントックで教鞭をとる助教授は、所知障はどのようにして、私たちが現象をあるがままに見るのを妨げるのかと質問した。法王は、二つの真理(二諦)は異るものである、と答えられた。縁起の見解を理解するためには、縁起の見解が世俗のレベルの存在を否定するものではない、と理解することが必要である。なぜなら、すべての現象は他の要素に依存して存在しているからである。色(しき:物質的存在)と空は概念としては別異のものであるが、同じ本質を持つものである。仏陀の境地に達していない者には、すべての現象は実体をもった客観的存在であるかのように現れてくる。菩薩の第十地に至った菩薩でさえ、瞑想から立ち上がったときには、所知障のせいで現象には実体があるかのように感じるのである。

続いて、空について一点集中して瞑想している時に体験するとされる「虚空のような空」と、瞑想から立ち上がった時に体験するとされる「幻のような空」についての質問に対して、法王は即座に答えられた。虚空のような空を体験している時、心にはいかなる対象も現れず、ただ空のみが現れている。しかし、瞑想を終えて日常に戻った時は、すべての現象が、あたかも実体のない幻のように見えてくる。いずれにしても、空は、対象物との関係においてのみ語ることができるものなのである。

法王は、“人” を例にとって次のような分析をするよう勧められた。「“私” は、私の心に現れているようには存在していない。しかし、“私” は存在しないのではない。これは私の体だが、“私” は体なのではない。私の心に生じる思考は私の心の一部であるが、思考が “私” なのではない」法王は、 “私” という存在を、この身体と心の集合体(五蘊)の中にまったく見出せないと深く理解すると、時々自分の手を触って、“私は存在する” ということを確かめずにはいられなくなることがある、と述べられた。

最後に、どのようにして印中間の国境問題や、新型コロナウイルスの世界的大流行を慈悲と思いやりをもって平和的に解決したらよいか、というラダックの学生からの質問が挙がった。法王は笑われて、新型コロナウイルスの世界的大流行を慈悲と思いやりで収束することはできない、と述べられた。とはいえ自暴自棄になったり、落胆するのは良いことではない。それでは免疫力が弱まってしまう。法王は、仏陀でさえ、必要があれば薬を飲んでおられたことを指摘された。

法王は、「あなたの心が穏やかであればあるほど、不安は減ります。菩提心があれば、他者を利益するために働こうという勇気と決意が生じます」とアドバイスされた。

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