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【コラム】歴史証言

ソナム・ワンフェル・ラーデン・ラ(1876-1936)

警察という単語は、主権国家の権力機関を想起させる。1950年に共産主義部隊が駐留を始めるまでは、チベットは警察機能を含む自由国家としての属性を確実に有していた。チベットが侵略され、1959年に完全に占領される以前には、チベット国内で権力を行使した中国人警察官はただ一人としていないということを認めざるを得ない。

今日の中国当局が主張することに反し、実はチベットは前世紀初頭から果敢に改革と近代化に乗り出していた。例えば、ダライ・ラマ法王13世のトップテン・ギャツォ(1876-1933)は、開かれた政治を行い、様々な分野で主導権を発揮していた。ダライ・ラマ法王13世は、若いチベット人をイギリスや英領インドへ派遣し、硬貨鋳造の機械化、銀行紙幣の発行、土地の再分配、不正債務の取り消しを行い、さらには外務省・軍部・警察機関から寺院組織にいたるまでの再編にも着手した。

そんな中、ラサの警察機関のイギリス式近代化を目指し、起用されたのが、シッキム人の ソナム・ワンフェル・ラーデン・ラである。ソナム・ワンフェル・ラーデン・ラの孫娘であるデキ・ロードは、夫のニコラスとともに、彼女の祖父について非常に興味深く、また歴史的な価値のある一冊の本「A Man of the Frontier, S. W. Laden La (1876-1937) His Life and Times in Darjeeling and Tibet. Library of Numismatic Studies, Calcutta, 2006」を出版した。国民の大部分を占める保守派や多様な障害に直面したが、チベットの指導者達は勇気と長期的展望を持ち、時代とチベットのおかれた現状に立ち向かうため、果敢に改革を推し進めた。この記事でデキとニコラスが語る証言や、彼らのこの雑誌のための特別書き下ろし、または他の多くの物語がその事実を十分に証明している。我らの祖父、ソナム・ワンフェル・ラーデン・ラは、ナムツァンコパ氏族に属するシッキム地方のブティア族の出身であった。

もともと彼らの祖先は、シッキム東部で数世紀にわたって生活をしていた民族で、その後チベットへ移り住んできた。シッキム東部では、ニンマ派を前身とするペマヤンツェ寺院との関係を深めていた。祖先の一人は、18世紀半ばにドルジェ・リン寺院をダージリンの見張りの丘に建立した。彼の父親は、ギン寺院の高僧であった。ギン寺院は、ダージリンの丘の麓のレボンの丘に位置し、ペマヤンツェの影響下にあった。ラーデン・ラは幼い頃に両親を亡くし、ペマヤンツェ寺院に修行に出された。その時まで、彼が受けていた教育は、シッキム地方で高僧を親に持つ子供達となんら変わるところはなかった。しかし1880年代半ば、彼が10歳の時に彼の人生は数奇な運命をたどり始める。

彼の父方の叔母、チョキは、その時代に最も尊敬された僧の一人であるウギエン・ギャツォの妻となっていた。チョギャル(シッキム王国君主の尊称)は、1874年にイギリスへ対し、ウギエン・ギャツォをダージリンの学校へチベット語と仏教の教師として採用するように推薦した。この学校は、シッキムの名士であったカジ家や、豪族の子息達のために開校された。彼はダージリンでの任期中、ブティア学校の校長であるサラット・チャンドラ・ダスとともに仕事をした。ベンガル研究で著名なサラット・チャンドラ・ダスは、チベットの宗教や歴史の研究も手がけ、その功績や、さらにはチベット語-英語の辞書を編纂したことでも知られる。

ウギエン・ギャツォは、ある時は単独で、またある時はダスを伴い、チベットを幾度も訪れた。その目的は、チベット語の文献探索や、当時開発が進んでおらず地形学的に未知の部分の多かったチベットついて、インドの地理研究所へ報告することであった。彼の努力と学術的アプローチは、イギリスの目のとまるところとなった。1880年代半ば、ベンガルの教育省を統率していたアルフレッド・クロフト卿は、近代化への挑戦を夢見ていた。彼は、英領インドとチベットの関係を改善するために、チベット文化と西洋文化の両方に精通する人物の仲介が必要であると考えた。このため、彼はウギエン・ギャツォにダージリン有数の学校で西洋の教育を受ける資質のある、シッキム出身の若者を一人候補に出すように依頼した。ウギエン・ギャツォは、自身の甥であり、さらに若い優秀な修行僧として名の知れていたラーデン・ラをこの新しい教育の冒険者として選出した。

このようにして、ラーデン・ラは、ダージリンへ送り出された。簡単な英語学習の後、イエズス会のサニー・バンク校で勉学に励むこととなった。サニー・バンク校は、後に移転し、名をノース・ポイントと変え、現在でも北インド全域で最も名高い学校の一つである。さらに、イエズス会の聖ジョゼフ校は今日においてもダージリンのノース・ポイントで学校として機能している。

サニー・バンクに通う間、彼は、ダージリンから6キロの距離にある小さな村、グムの僧院で、モンゴル人の高僧であるゲルパ・シュレブ・ギャツォのもとで暮らしていた。その後彼は、カルカッタで名の知れたイエズス会の学校である聖ザビエル中学校で一年を過ごした。このようにして、彼は可能な限りの最高の教育を受けると同時に、チベット仏教の伝統のなかで西洋的規範を身につけた。彼の才能はどんどん開花していった。

1890年になるとラーデン・ラの叔父であり、イギリスに地理学的に大きく貢献したことで知られるクンレイ・ギャツォが渡英した。彼はおそらくチベット人としてヨーロッパを訪れた最初の人物であり、ビクトリア女王にも謁見を果たした。若いラーデン・ラはこれに大変刺激を受け自身も広い世界を開拓することを望むようになった。

勉学を終えると、彼は二年間ダージリンのベンガルの出版業界で、現在でもチベットの聖文書を訳すのに最も適しているとされているサラット・チャンドラ・ダスのチベット語-英語辞典を担当した。その後、彼はダージリン警察副署長の通訳翻訳者として従事した。数多くの地方言語と英語を巧みに操り、さらにフランス語の基礎も身につけていた彼の能力は国境地帯の住民との連絡役として最適であった。そしてその後彼は警察官となる訓練をうけた。人々は、そこでこそ彼の才能が一段と発揮されると考えたのである。

二年後、彼はダージリンへ戻り、ダージリンの帝国警察へ役人として入庁し、これまではヨーロッパ人に占有されてきた重要なポストに就いた。彼はダージリンの訪問者と面会を行い、チベットやロシア、さらには中国への連絡役となることが可能な人物を探した。また、ラサからの商人達へと対話を通してチベットの情勢を出来る限り把握するように努めた。これらの任務でも彼は才能を発揮した。彼はダライ・ラマ法王が信頼を寄せるロシア人、ドルジエフの秘書や、チベットへ非合法に潜入してきたイギリスの役人達の中から旅行者を判別した。その当時、ブリアトロシアがすでにチベット政府と強い関係を築いていた一方で、イギリスはチベット政府との関係が希薄であることに頭を悩ませていた。イギリスの多大なる努力にも関わらず、イギリス政府がチベット人たちと直接の関係を築くには至っていなかったのである。

1903年、英領インドの副王であったカーゾン伯爵は熱望されている緊密な関係を築くのには、軍事的手段をとるしかないと考えた。国境地帯での外交的努力が実を結ばなかったことから、強大な力を持つ軍隊が編成され、ラサへと派遣された。ラーデン・ラはチョンビの谷での連絡将校として駆り出され、交通の取り締まりと現地住民との友好関係構築に従事した。そんな状況下、1904年にラーデン・ラが残した功績には、4言語の難語辞典がある。この辞典はラサのチベット語、シッキムのチベット語、ドロモ(ヤツンとも呼ばれる、シッキム王国とチベットの国境の町)の方言との違いを比較しながら、意味の該当する英語をあてたものである。将校としての活躍を賞して、彼はチベット系としておそらく他の誰も受けたことの無い、大変名誉のある銀勲章を与えられたが、実は彼は軍事行動をとったことも、ラサへ近づいたこともなかった。

1904年の騒動の後、ラーデン・ラは警察官としての任務を再開した。1905年から1906年にかけては、パンチェン・ラマがインドの聖地を訪れる際の任務を任された。彼は安全の確保のみならず、巡礼の手配の全ての責任を負っていた。彼は信心深い仏教徒であったので、聖地巡礼に同行できることは大変名誉なことであった。ラーデン・ラは、いかなる宗教的・文化的摩擦も生じないよう、常に状況に配慮していたため、チベット支配層の南方の隣人へ対する評価も和らいでいった。また、ラーデン・ラの尽力が功をなし、多数のチベット人高官達がインドを訪れるようになった。

そんな1907年、チベットの大臣ツァロン・シャぺがカリンポンを訪れた際、到着してまもなく何者かに3000ルピーが盗まれた。人々はこの問題を軽く扱っただけであったが、ラーデン・ラは違った。彼は、現地の多くの寺院にこの事件の犯人を公然に批判し、永遠の劫罰が下されると説くように依頼をした。

当時の人々は宗教的権威に従順であったため、盗まれた金銭は密かに戻された。二つの民族と二つの政府は、1904年のイギリスの軍事行動にも関わらず、友好関係を築くに至った。

この間、ダライ・ラマ法王はモンゴルと中国へ逃れていたが、そこでは皇帝に服従する者として扱われ、悪い事態を予感させることとなった。1909年、猊下がラサに戻られた直後、中国軍隊が侵攻を始めた。この事態に面し、ダライ・ラマ法王は賓客として、そして正当な主権国家の指導者として迎えられるインドへの亡命を決意された。ラーデン・ラは連絡将校として、また無数の重要な任務を果たしてきた身としてダライ・ラマ法王の境遇に心を痛めた。彼は新たに仏教の聖地巡礼を手配し、二国間の関係の強化に努めた。

中国の皇帝支配を覆す革命の後、ラサ駐留の中国軍の処遇が問題となった。1904年が過ぎると、ロンドン、ロシア、そして中国はいかなるイギリス政府の役人をもラサへと赴かせないことで合意した。デリーでは、副王がラーデン・ラが仲介役として最適であると判断し、ダライ・ラマ法王やチベット議会、さらにはチベット政府の全面的な支持のもと、迅速にラサへと赴任させた。残念なことに、ロンドンは、ラーデン・ラはイギリス政府の役人であると考え、彼がラサへ赴くことは他の列強国との取り決めに反すると考えた。ラーデン・ラはチャクサムの川を渡るところで逮捕され、インドを通じて中国軍撤退の交渉が成し遂げられたギャンツェへ戻らざるを得なくなった。

情勢が落ち着くと、ダライ・ラマ法王はチベットへ戻られ、1912年7月、ラルンでラーデン・ラと面会された。そこでラーデン・ラは、猊下からこれまでの功績を称えられ、金章褒が授けられ、将軍の地位を与えられた。ギャンツェでは、ダライ・ラマ法王と当時緊張関係にあったパンチェン・ラマがダライ・ラマ法王との会談を実現させるためにラーデン・ラへ接触した。ダライ・ラマ法王のラルンご滞在中、ラーデン・ラはパンチェン・ラマとの面会を設定した。この会談は、それまでの誤解を解く実り多いものとなった。ラーデン・ラはここでも名誉を授かることとなる。

ロンドンがこの会談についての情報を得るや否や、最高司令官がラーデン・ラのチベット政治への介入を阻止する命令を出した。しかしながら、ギャンツェの英国代理商であったバジル・ガウルドによって、この命令の伝達は会談が終わるまで故意的に遅らされた。1913年には、ラーデン・ラは未だギャンツェでの任務中であったが、チベット政府は国家近代化へ貢献させるべく、4人の少年をイギリスへ西洋的教育を受けさせるために派遣した。少年達は、チベット士官代表のチポン・ルンシャーに同伴され、さらにラーデン・ラが全体の後見人として選出された。このようにしてラーデン・ラはルンシャーと4人の少年達とともに一年間をイギリスで過ごすこととなった。

この一年の間、彼は多くのイギリス人役人と出会い、そこで知り合ったフランシス・ヤングハズバンドに依頼され、チベット・インド情勢についての講義をしたこともあった。彼はルンシャーと少年達を伴いバッキンガム宮殿へ出向き国王に謁見し、価値の計れないほどの品々を贈呈し、ダライ・ラマ法王から賜った友好のメッセージを伝えた。この期間中、チベットで増大を続けるイギリスの影響力を憂いていたルンシャーは内密に中国や日本を含む外国使節団と接触した。

ラーデン・ラはイギリスの秘密諜報員と緊密に連携を図り、ルンシャーの動きをイギリス政府に報告をした。1914年初頭、ラーデン・ラはルンシャーを伴いヨーロッパを横断し、大戦直前のドイツを訪れた。渡英から一年が経ち、4人の少年達が十分現地に馴染んだこと確認したラーデン・ラは4人の少年達をラグビー校に残し、インドへ戻った。少年達は、その後4年間をラグビー校で過ごすこととなる。インドへ戻ったラーデン・ラはイギリス・チベット間の国境について合意を結ぶシムラ会議へ出席をした。

会議には中国政府代表者も出席していたものの、残念ながら政府を代表して合意を批准する権限を持っていなかった。1914年当時、中国のラサでの影響力は非常に限られたものであったが、それでも帝国主義の当時、イギリスから中国は強大な権力として認識されていた。

ダージリンを離れて早くも4年が経った1914年後半、ラーデン・ラはダージリン警察へ復帰した。彼がダージリンを離れていた間に、彼の妻は亡くなっており、子供達は妻の両親に育てられていた。彼はすぐに彼の亡き妻の姉妹のうちの一人と再婚し、家族生活を再建させた。彼は地方問題に取り掛かり、ダージリンをベンガルから離脱させ、行政的に特別な高地位を得られるよう活動した。また、彼は地域の数十の仏教寺院が構成する委員会に参加し、マハボディ協会とも親交を深め、ラサにも気を配りつづけた。マハボディ協会はインド各地の聖地の保存修繕、さらに国内外での仏教の普及を目的に1891年にスリランカで創立され、現在でも活動を続けている。

1920年、イギリスの政治家であるチャールズ ベル卿がラサを訪れた。彼のラサ訪問が公になると、彼はラーデン・ラに一団に加わるよう依頼した。ラーデン・ラは初めてラサを訪れる機会を得て、またダライ・ラマ法王に再謁見できることに歓喜した。彼は一年をラサで過ごした。イギリス代表団がインドへ向けて出発してまもなく、ダライ・ラマ法王はラーデン・ラがチベットの役人になり、ラサで警察を組織するよう、公式に依頼した。1923年、手続きが終わり、ラーデン・ラはラサでDzasaの栄誉を受けた。彼は直ぐに新しい警察組織の確立に取り掛かった。彼はラグビー校で教育を受けたモンドを含む役人達を採用した。警察本部は旧ヤメン中国人街の中国大使館跡に設けられた。

採用された者には、立派な制服が与えられた。少しずつ彼らはラサでの安全と衛生に影響力を持ち始めた。その一方で、寺院組織関係者は彼らの権力低下を危ぶんでいた。その同時期、ツァロン・シャぺは彼とラーデン・ラがチベット近代化の先鋒者として認識されるように、軍隊を増強し国家の安全保証に努めた。これらには費用がかかるものの、パンチェン・ラマは近代化のための増税には反対であった。彼は中国へ出向いて反対を唱え、ツァロンとラーデン・ラを難しい状況に追い込み、近代主義と保守主義の対立が目立ち始めた。ラーデン・ラは暗殺の危険に冒され、根拠の無い罪で告発されることもあった。彼が新しい役職に就いて一年後、彼はこの状況下では、契約を更新せずにインドへ戻ることが賢明だと考えた。ダライ・ラマ法王は近代化政策は想像以上の反対のために困難な状況にあると認識された。ツァロン・シャぺは軍隊指揮官の役を解かれ、インドへ長期休暇に発った。その後数年に渡り、ルンシャーは意図的に軍部と警察力の弱体化を図り、支配力を手に入れた。また、ツァロン・シャぺとラーデン・ラが古来からのダライ・ラマ法王の権力を剥奪しようと企てているという噂が広まった。このようにして、ルンシャーは20世紀の独立国家社会に加わるよりも、中世からの古い方法でチベットが統治されることを望む寺院権力を筆頭とする保守派の指示を得た。

ラーデン・ラはインドへ戻った後、警察での職に復帰していたが、彼はダライ・ラマ法王を含むチベットの友人と連絡を取りつづけていた。1925年には猊下から、チベットの経済を妨害する偽通貨流通の阻止を依頼された。彼は偽通貨を数ヶ月に渡り追跡調査した後、偽通貨はカルカッタの違法工場で製造されていることなどを突き止め、秩序を取り戻すことに成功した。猊下は彼に個人的な感謝の意を表明された。

ダージリンでのラーデン・ラの職務の一つに、現地を訪問する高官の世話役があった。1925年のベルギー国王と王女の来賓の際には、彼の仕事が高く評価され、レオポルド二世の騎士の称号が与えられ、さらには、残念ながら実際に使用することは出来なかったものの、ベルギー鉄道を生涯無料で使用できる権利を与えられた。この間、イギリスはチベットの近代化の支柱であるとのイメージを持たれ、またツァロン・シャぺとラーデン・ラの件もあり、チベットと英領インドの公的関係は悪化した。イギリス人高官はラサに入ることが出来なくなり、ギャンツェでイギリス人植物学者のフランク・ルドローが維持していた学校は閉鎖された。イギリスは関係の改善に最善を尽くしたが、無駄に終わった。

1928年、ある外交的事件が起こった。チベット当局がラサでネパール人の逮捕を目論み、ルンシャーはラサのネパール公使館に当局が圧力をかけることを許したのである。容疑者は逮捕され、ネパールはこのことが1856年にネパール・チベット間で締結された条約に反し、外交特権を侵害したと激怒した。状況は、チベットで拘留されていた容疑者が死亡したことで悪化した。ネパールは、事件の指揮者でもあるルンシャーが管理責任を果たさなかったことに対しての弁明を求めた。イギリス人政治家のウェイル大佐のシッキム人補佐官であったノルブ・ドンデュプが仲介役としてラサへ派遣されたが無意味であった。緊張状態は拡大し、双方が部隊を編成し戦争の危機が迫った。最終的に副王によってこの事態の沈静化交渉には、猊下と個人的交流のあるラーデン・ラが最適であると判断され、彼はデリー、ラサ、そしてカトマンズとの直接連携のもと、チベットへ派遣された。ラサの反動的勢力は彼の任務を妨害しようとし、ネパールからは過度に親チベットであるとの批もあり、彼に反対する勢力が強かったが、猊下からは暖かく迎えいれられた。1930年の新年の祝い行事の合間を縫って個人的会合が重ねられ、ついにラーデン・ラは猊下に事件の深刻さと謝罪を表明することの必要性を説得することに成功した。チベット政府もこれに同意し、ネパール政府に謝罪を申し入れ、事態は沈静化された。

ルンシャー率いる反イギリス過激派の影響力が衰えたことにより、ラーデン・ラはウェイル大佐をラサへ招待することに成功し、英領インドとチベットの関係改善を果たした。秘密裏に進められたラーデン・ラの任務は輝かしい成功に終わったと言える。4ヶ月に渡る幸福で刺激的なラサでの時の後、ラーデン・ラはダージリンに帰ったが、すぐにウェイル大佐とその妻、そして彼らの従者達と共にチベットへ戻ってくることになる。

しかし瞬く間にウェイルとラーデン・ラの関係は緊張した。ウェイルが、自身が失敗に終わったチベットとネパールの紛争解決をラーデン・ラが成し遂げたことを快く思わなかったのである。彼はダージリンの田舎出のラーデン・ラがチベット社会でDsazaとして認知されることを受け入れられず、さらに彼の個人的な縁故のために、彼を部下にすることもできないことに憤慨していた。ウェイルのラサ訪問は、ラーデン・ラの働きで期待された成果を得ることができ、英国支配下のインドにおいてイギリス政府の役人がラサ入りを断られることは無くなった。

しかしながら、ラーデン・ラは彼のキャリアの中で初めて、公務員である限り、人種差別的イギリス人にさえも仕えなくてはならないということを実感した。1931年、彼が55歳の時、ダージリンの自治と世界への仏教布教のために時間を費すべく、彼は公務員の職を辞した。彼は西洋では「死者の書」として知られる、W.Y.エバンス・ウェンツのチベット語の大いなる自由についての本の翻訳を手伝い、ヒルメン協会の理事となり、ダージリンの役所の教養のあるガイドとなった。彼はダージリンの住民が人種や出身の差異無く住民が最大限の利益を享受する統治がなされるよう、最大限の努力をした。彼は地域の仏教寺院のみならず、キリスト教教会やイスラム教寺院、さらにはヒンズー教をも支援した。また、彼は西洋人から様々な形で寄せられるチベット仏教への関心にもこたえた。彼は彼のチベット人の友人達、特にツァロン・シャぺやダライ・ラマ法王13世、そして中国にいるパンチェン・ラマらと共に尽力した。1936年、彼は新ベンガル立法議会にダージリン地区からの選出を目指して活動をしていたが、突然、多くの未達成の計画を残し、この世を去った。

しかし彼の遺産は大きなものであった。20世紀、チベットの歴史家の多くは、もしも1920年代の近代化が実現されていたなら、1950年以降の困難は避けることができていたと認識している。また、ダージリンをベンガルから分離させ、行政的に特別な地位を得ることを目的に1917年に彼が残した計画が実現されていれば、ダージリンには大きな利益をもたらしていたであろうと現在でも政治家は評価している。彼の西洋世界での仏教布教の努力は、世界的に多くの関心者を集め、実を成したといえる。1880年代の革新的な教育的試みは真に偉大で、自身の功績よりも行動を重視する人物をつくりあげた。彼が若くして命を落とすことがなければ、彼はチベットの確固たる地位を築き、世界におけるチベット仏教の認知度を高めることに貢献していたであろう。

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