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ポタラ宮の落日

(2007年12月26日 ウーセル Woeser)

Introduction

ポタラ宮について説明する必要があるだろうか?何千もの光の矢のように古都ラサを照らすこの偉大な建築は、世界中の人々からチベットのシンボルと目されている。ラサ谷の中心でマルポ・リの頂上にまたがり、その外観のせいか見る者のせいか、あらがいがたい魅力を持っている。20世紀のはじめ、あるイギリスの記者は、チベットへ侵攻する武装軍とともに世界の屋根に足を踏み入れ、遠くから「太陽のもとに明るく輝く炎のような」ポタラ宮を望み、感動のため息をついた。「山の上に宮殿があるのではない。宮殿が山となっているのだ。」

1300年の昔、ソンツェン・ガンポ王の治世、ポタラ宮はすでにその要塞の姿を持っていた。1642年、ダライ・ラマ五世は、ガンデン・ポタン政権を樹立して国を統一し、全チベットの宗教と世俗の最高指導者となった。彼の成したもう一つの偉業は、仏典にしたがい、観音菩薩が説教を行った場所にポタラ宮を建てたことである。それ以来、壮麗なポタラは、神政国家チベットの政治と宗教の中心であった。そしてその神聖な位置付けは、1959年まで続いた。

かつて、このような歌が書かれ、チベット人の間で流行した。

黄金のポタラの屋根に黄金の太陽は昇る
黄金の太陽ではないそれは尊いラマ様のお顔
ポタラの丘に黄金の縦笛の音が響き始める
黄金の縦笛ではない それはラマ様の経を唱えるお声
ポタラの麓に 色とりどりのカタがはためく
色とりどりのカタではない それはラマ様のまとう袈裟

この歌に讃えられたラマが、他でもない、雪国に暮らすチベット人達の崇拝する観音菩薩の化身、ダライ・ラマであることは、誰にも明らかである。しかし、1959年はやってきた。3月17日の夜更け、ダライ・ラマは、離宮ノルブリンカからの逃走を余儀なくされた。その二日後、ラサにおける空前の砲撃の中、ノルブリンカとポタラ宮は殺戮の場と化し、チベットの歴史上、地を揺るがすこの事件の、物言わぬ目撃者となった。「チベットの武装反逆者鎮圧」に参加した人民解放軍のある兵士は、308砲兵連隊が何年もの間ブンパ・リの麓、ラサ川の遠岸に駐屯し、数門の榴弾砲でポタラ宮を狙い続けていた、と回想する。そして最終的には「反逆者鎮圧」の間に、全ての砲弾が正確に、黒く縁取られた紅い窓枠から撃ちこまれ、宮殿の中で爆発した。しかし当時「反逆者」であった者達は、抵抗をあきらめたのは、あの悪魔の砲弾がポタラ宮を傷つけるのにそれ以上耐えられなかったからだ、と振り返る。 だから、現存する写真やドキュメンタリーの中では、「反逆者」達が煤けたポタラを降り、白いカタを頭上に掲げ、チベットを「解放」する人民解放軍に武器を引き渡す姿を見ることができる。(実際は、このシーンは「反逆者鎮圧」の後に撮られている。捕虜たちはシーンを再現するためポタラへ戻らされ、その後投獄された。)

それ以来、ポタラ宮は空っぽのままだ。
それからの年月、ポタラはもはや中心ではなくなった。時代ごとの状況にあわせ、占領者たちによって背景へと変えられてしまった。それは興味の尽きない背景であり、なくてはならない背景であり、ミステリアスな背景であった。時と空間の変化の中で、ポタラはこの半世紀ほど、カラフルで、奇妙で、そして頼りなく悲しく見えたことはなかった。

革命の背景

まず、政府の新しい事務所や宿舎、「労働人民文化宮」と呼ばれる集会所が、ポタラ宮前の広大な草地や公園、湿地に建てられた。これらの建物はまるで軍事基地のようで、美的センスに欠けていた。さらに、革命歌手の歌にあるように、その頃にはラサは北京と「つながって」いた。何千マイルも離れた北京で起きた全ての政治運動に対し、ラサでも同じ熱意と興奮を持って精力的に応えた。 労働人民文化宮はもはや動員された何千人もの「解放農奴」を収容することができなくなったため、10万人の集会を行う場所を、いまだ静かなポタラ宮を背景に持つ戸外へと移さなければならなかった。

1966年、文化大革命の赤の恐怖と狂気がチベット中を襲った。毛沢東の「破旧立新」の呼びかけのもと、僧院は次々と破壊され、ストゥーパは次々と倒され、仏像は次々と破壊され、経典の山は次々と焼かれて灰となり…ポタラ宮までもが、「労働者階級に対し非情な圧政を行った三人の封建領主の頭の封建的な城」と痛烈に批判され、危うく悲惨な運命を辿るところであった。ポタラ宮が残ったのは、青海からチベットにわたる広大な草原の中で、これほどふさわしい背景は他になかったからだ。ノルブリンカが「人民公園」と改名され、ポタラ宮を「東の紅宮」と改名しようという提案があったにもかかわらず、ポタラが背景としての主要な資産であるもとの名前を保つことができたのも、おそらく同じ理由からだ。革命には標的が必要だ。革命には背景が必要だ。ポタラ宮に五星紅旗を掲げ、ファサードに毛沢東の肖像を高く掛け、「変貌した世界」の新チベットは生まれた。だからこそ、背景としてのポタラの効果は、比類ないものだったのである。

しかし、「チベットの真の宝」と称えられる一方で、ポタラはほとんど略奪しつくされてしまった。記録によれば、10万巻以上の経典や歴史的書物がポタラ宮に集められ、その多くは金や銀、トルコ石や珊瑚の粉で書かれていたという。貯蔵室もたくさんあり、貴重な品々や工芸品、絵画、壁掛け、像や古代の甲冑等々、チベットの歴史上のさまざまな時代のものが保管され、全て完璧に保存されていた。どれも値段がつけられないものであった。だが、かつて豊かな芸術や宝が集められたポタラ宮には、ほとんど何も残っていない。素晴らしく、最高級で、数え切れないほどあった高価な品々は、運べる物は持ち去られ、後には重たいストゥーパだけが残された。ストゥーパの中に保存された8代のダライ・ラマの遺品は、無神論者にとってなんの役にも立たなかったからだ。後には壁画だけが残されたが、赤く塗られ、毛沢東の言葉が書きつけられた。後には動かすことのできない像やマンダラ、いくつかのタンカや儀礼の道具だけが残され、ただ飾りとして陳列された。後にはポタラ宮の姿だけが残され、偉容を保ってはいたが、もはや空っぽの棚であった。

実話が証明してくれる。1988年、初めて、ポタラ宮改修のために中国政府から500万USドルの予算がおりた。改修着工の式典において、ある財務省の役人が、中央政府は財政難を抱えているにもかかわらず、緊縮してチベットに巨費を割くことを繰り返し強調した。その時、旧チベットから中国共産党政権に受け入れられた唯一の高官で、有名な政治家である全国人民代表大会副議長ガボ・ガワン・ジグメはこう言った。「国家は困難に直面しているのだから、我々は中央政府に金銭を要求すべきではない。ポタラにはNamsay Bangzod という貯蔵室があり、ダライ・ラマ五世の時代から毎年、たくさんの黄金や宝石が貯められている。それは300年以上とどまることなく、使われてもいない。だから今日、貯蔵室を開け、財宝をポタラ宮改修に使おう。十二分にあるはずだ。」実は、貯蔵室はすでに空で、そこには何も残っていなかった。ガボはその事実を知っていたと言われる。彼はあえてこのような発言をしたのだ。すぐにこう返した者があった。「貯蔵室はすでに空っぽです。どこに黄金や宝石があるというのですか?みな国家に召し上げられ、上海や天津、甘粛の国庫に移されてしまいました。」すると財務省の役人は喋るのをやめ、静かになった。物的損失を別にして、ただの背景としてのポタラ宮は、イデオロギーの色で厚く塗られてきた。「最も暗く、反動的で、野蛮で、残酷」だった旧チベットを批判するにせよ、「輝かしい」新チベットを賞賛するにせよ、パフォーマンスにポタラ宮は必要だった。結果的に、革命の舞台はただポタラ宮の足下にあった。

例えば、かつてとても有名だった「チベット革命展示場」は、「旧体制の下で行われた驚くべき残虐行為の数々」を見せるためのもので、100 以上の悲惨な彫像を劇的に並べ、来場者の怒りを引き起こすような音楽や説明、堪え難い悲劇のジオラマで誇張していた。1976年、新生中国の成果を海外へ宣伝するために作られた雑誌「China Reconstructs」には、展示についてのコメントがある。「来場者は展示場の黒いカーテンを押し開くやいなや、旧チベットの地獄に足を踏み入れる。」

展示場に加え、そこにはまさに革命に必要な場である広場がある。広場が大きければ大きいほど、「大衆の海」と呼ばれる集会の興奮は高まる。その効果は類のないものだ。したがって、広場の大きさは広がりつづけ、1995年、ポタラ宮の麓にあったショル村は、伝統的な家々や典型的なチベットの生活習慣とともに取り壊された。 チベット自治区設立30周年は、多額の予算で造られた「ポタラ広場」で祝われた。この「大祝賀プロジェクト」は62の「チベット救援プロジェクト」のうちの一つで、大規模で、不適切で、不釣り合いだった。さらに、広場の真ん中に、北京の天安門広場の国旗台に似せた台が作られた。それ以来、全国的な政治祝日にはいつも、完全武装の兵士達によって国旗掲揚式が行われている。

新しい広場建設のため、展示場も移されることになった。歴史的使命を終え、立て直しの必要もあるということだった。1999年に建てられたチベット美術館は、正面にノルブリンカ、後ろにポタラ宮があり、ちょうど二つの歴史的建造物の間に位置している。美術館の目的は、何千もの骨董品や美術品を通じてチベットの歴史と文化を展示するというものだが、ポタラ宮とは比べ物にならない。そこには革命展示場こそないが、2002年、ポタラ宮に向かって、広場に革命を記念する「チベット解放記念碑」が建てられた。それは「エベレスト山の抽象的表現」だというが、全く美的センスが感じられない。それどころか、チベット人の心を深く貫いて、空に打ち込まれた砲弾のようだ。まさに、チェコ人記者クリマが述べている通りである。「記念碑を建てる目的は" 支配者に対する人々の忠誠心を喚起すること"だが、広場を守る武装兵士の姿が強い警告を発し、つねに実際のポタラやチベットの状況を激化させている」

広場の生む限りない名声と利益の可能性

もちろん、今ではもうポタラ宮は単に政治的象徴として利用されることはない。時の変化と西側の開発計画によって、そして「開発は絶対的原理」であるため、世界的に有名なポタラ宮は 、広告業界のしゃれた用語で言えば 「限りない商機」 の鉱山となったのだ。かつて、偉大な宗教的王と大勢の高僧が集い、世俗と宗教の指導者たちの権力が集まる中心であったその場所は、今では騒がしい市場のような観光地となってしまった。かつて神聖かつ神秘的な宗教舞踊が行われたデヤン・シャルは、今ではわめき叫ぶ観光客であふれ、好き放題に自分たちの写真を撮っている。香り豊かな香の煙は残ってはいるが、最も神聖な広間の空気はもはや静かでも厳粛でもない。観光客はあらゆる物を指でさし、バターランプを運ぶ巡礼者の肩にぶつかる。観光客用のパンフレットに「白宮」と書かれたいくつかの部屋では、ツアーガイドたちがいたる所で中国語、英語、その他の言語で暗唱する声が聞こえる。「ここはダライが経をあげた所、ここはダライの寝室、ここは食堂、ここは応接間、これは彼のラジオ、これはティーカップです。」新しく公開されたタクテン・ミンギュル宮でも同様のことが起きている。誰でも単に数元の入場券代を払うだけで他人の生活の秘密を見て回ることができ、遠慮のない意見を述べることもできる。「過去の威厳は全て消え去った。」1979年のチベット訪問時、ダライ・ラマの兄ロブサン・サムテンは、太陽のもと明るく輝いてはいるが、以前とは変わってしまったポタラ宮を見て胸を痛め、こう言った。

2003年の報告によれば、近年ポタラ宮には毎年50万人以上、一日平均1500人前後の観光客や巡礼者が訪れ、その数は20%ずつ増えている。入場料は12USドル以上に値上げされたにもかかわらず、入場者数の最高記録は一日5000人にもおよんだ。このような大勢の人の流れによる圧力によって、粘土と木と石で建てられたポタラ宮はたわみ、建物のあちこちがひび割れ、崩れた所さえある。新しい規制によって、朝の4時間の開館時間には20分に50人までの入場、午後の2時間半の間は30分に50人までの入場となったが、それでも入場者数は850人にのぼる。ポタラ宮は携帯の広告、50人民元紙幣、MTVやTシャツにもあらわれる…ポタラ宮はひどく安い素材でミニチュア模型にもなり、ホテルやレストランや店のウィンドウディスプレイに使われ、イデオロギーに支配された商品主導社会の品のない光景を飾っている。こんなふうにポタラ宮は、終わりのない複製の過程を経て、天の高みから限りある命の者たちの世界に突き落とされた。

この限りある命の者たちの世界では、「開かれたチベットへようこそ!」「素晴らしい市場環境をつくろう」「分離主義に反対せよ。祖国を統一せよ」といったあらゆる政治的スローガンが、ポタラ宮の周囲の高い壁に次々とあらわれる。宮殿の前の広場は、さらに様々な方法で利用されている。次第に「近代化」されるチベットを示すため、不動産販売会や車の展示会が行われ、様々な商業展示会も企画された。チベットの衣装を身に着けた、しなやかでセクシーな女の子たちが(チベット人とは限らないが)、遠く成都や重慶の不動産や、様々な型のセダンやSUV車を熱心に宣伝している。わめき叫ぶ声の中、中国内陸からきた日用必需品の価格は2倍に跳ね上がり、質の悪い偽物も混じっている。さらに、色々な名目の宝くじが売られ、賞金や賞品で人々を誘惑し、強欲にさせている。

目もくらむようなラサの陽の光のもと、チベット人たちの物質的な欲望がこのような熱狂をもってあおられたことはなかった。しかし、一体どれだけの平凡なチベット人が、そんな贅沢な車や家を実際に手に入れることができるというのだろうか?ポタラ宮の両翼の壁に沿って広がり、広場に散らばる店やレストランを見るがいい。みな中国内陸の大小の都市のクローンのようだ。これらは、陶器のタイルでおおわれた「近代的な」建物や濃い青のガラスがはめ込まれたアルミ枠の窓と同様、農民から建築労働者となった内陸の人々からなる「建築業者部隊」の文化だ。

古い柳の木はほとんど倒され、池の上を舞っていた祈りの旗のほとんどは消え、竜王の池とも呼ばれたゾンキョ・ルカンは麻雀やカードで遊び、ムスリムティーを飲みケバブを食べる場所になり、ポタラ宮をさらに世俗の海の真ん中に浮かぶ孤島のように見せている。しかしTARの役人たちは、むしろ満足そうに、「世界の屋根」は史上最高の時代に入ったと宣言している。

では、この史上最高の時を祝って歌い踊ろうか?半世紀以上にわたって政治化や商業化によって侮辱されてきたポタラ宮に、さらにエンターテインメントやサーカスの機能をつけ加えようか?はっきり言って、ポタラ宮を背景とするこの広場は時に、宣伝や名声のためや利益を漁るためにあらゆる所からやってくる客たちを楽しませるステージとなってきた。この流れは、もうコントロールが効かなくなってしまった。

北京からきたパフォーミングアートグループ「Hearts Joining Hearts」は、中央政府からの最大限の配慮をもたらした。チベット人から贈られたカタを首に掛けたTVスターの集団は、全ての国々の連帯を賛美するプログラムの上演に息を切らした。深刻な高山病のため、酸素バッグを持ちながら演じなければならなかった者もいたという。この手厚いパフォーマンスは、「56の国々、56の花々」の合唱の中、嵐のような拍手を受けた。そして、精力的に拍手をしていた集団は、例によって、ラサの評判の良い集団や学校、軍隊から選ばれていた。

そして、ファッションモデルコンテストの会場もここに移された。報告によれば、「国内の様々な地域から51人のモデルがここに集まり、輝かしいポタラを背景に、チベット音楽の独特なリズムにあわせ、モダンな服に身を包み、モデル歩きで、巨大なT字型のステージ上で驚くべきモダンなスタイルを見せた」…「何千人ものラサの人々が集まり、T字型ステージの周りにひしめいていた」という。さらに面白いことに、政府高官やTARの軍幹部たちも「祝辞を述べ」、「優勝したモデルにチベット人の最高の栄誉である聖なるカタを贈るため」に来ていた。

「アジア一の空飛ぶ男」として知られる台湾人俳優 柯受良は、その突然の死の前の2002年10月1日、「国の祝日と、それを祝う人々のために、国産の吉利の車でポタラ広場の上を飛ぶパフォーマンスをするという、特別な贈り物をした。」「最高記録にはならなかったが、柯は建国記念日にポタラ広場でパフォーマンスを行うことができてとても光栄に感じている。彼は記者に対し、"海峡の両側は同じ家族に属している。あらゆる国籍の人々が集まって連帯すれば、中国はより強くなるだろう"と語った。」残念なのは、半分チベット人の血を引くポップス歌手 韓紅までもが、ポタラを自身の宣伝の背景と見なしたことだ。彼女は2004年の夏、ポタラ広場でソロコンサートを行おうとした。公演を宣伝するため、彼女はメディアに対し「ヘリコプターに乗って」「ポタラ広場に降り立つ」つもりだと語った。もちろん、降り立つ場所はポタラ宮の屋根ではなく、ポタラ広場だ。しかし、このような強烈なニュースは十分に衝撃的だった。

紳士淑女の皆様!どうか、ポタラに敬意を!この宗教の聖地、人類の王国の奇跡に敬意を!ポタラに押し寄せる人々が皆、繰り返し「ポタラ宮を尊重するように」と注意されるのは、単にポタラが国連によって「世界遺産」に指定されているからであって、この宮殿が真に人類の魂であるという事実は考慮されてさえいない。どうかポタラに敬意を。さもなければ、過激な欲望に駆り立てられ、ポタラ広場が世界で最も有名なサーカスの遊技場となる日が来ることも想像に難くない。かつてニューヨークで自由の女神像を「消した」偉大な手品師デイヴィッド・カッパーフィールドもやってきて、世界の注目を集めた同じ演目を上演し、ポタラ宮広場を消してしまうかもしれない。そんな日がくれば、TARの役人たちはまた誇らしく宣言するだろう。世界の屋根は世界の「仲間入り」に成功し、「国際化」を達成したと。

修復の内幕

そう、実際、政府はポタラ宮改修のために、7万USドルと、黄金や貴重な石、それに5年の作業を費やした。そう、政府はポタラ宮改修のために、何度も巨額の費用を投じた。そう、すべては事実だが、もっと重要ないくつかの事実は偽装され、改変され、忘れさられた。

例えば1959年、「反逆者鎮圧」のためにポタラ宮に打ち込まれた砲弾が、同時に仏像や壁画、その他の伝統的工芸品でいっぱいの部屋を破壊し、粘土と木で造られた建物の構造に与えた被害も少なくなかった。
例えば文化大革命の初期、「四旧打破」の運動はポタラ宮にも広がった。状況は概して、先に述べたことと同様であった。

1969 年以降、毛沢東の「深く穴を掘り、広く作物を収穫し、強い権力を主張しない」という戦略方針を実行するため、ラサもまた、他の尊敬すべき地方や 自治体、自治区とともに、いわゆる「民間防衛計画」の工事を開始し、急激に塹壕を掘り、防空壕をつくった。これらの壕は今日でも、ポタラ宮の建つマルポ・リのすぐ下に見ることができる。山の東側が封じられる一方、西側は大麦ビールを売るバーになった。ポタラ宮と道を挟んで、チャクポリの隣、現在は水道会社がある場所に、対空防衛本部が置かれていた。チャクポリの下にも、防空壕があると言われた。一般に信じられているところでは、この場所にこのようなものを作ったのは、TAR党委員会の敷地に近いからであり、敵からの空襲を受けた場合、役人たちがすぐに壕に駆け込むためだ、という。もちろん、ラサの人々の良く知っていることだが、マルポ・リの下に穴を掘り、山を掘削するために爆発物を使うことは、ポタラ宮の基盤そのものに大きなダメージを与える。当時ラサの中学校で学んでいたあるチベット人は今でも、教室にいるときに起こった、耳が聞こえなくなるほどの爆発音を覚えている。「その地域を通ると、時々地面の揺れを感じました。」つまり近年のポタラ宮の改修は、まさに当時の行いの結果なのである。

この改修が、多くの問題を起こし、さらなる破壊さえ生んだ。2004年2月3日のボイス・オブ・アメリカの放送によれば、チベットから秘密裡に持ち出されたカセットテープがこれを告発した。「ポタラの改修計画は、伝統的チベット建築技術のデリケートで複雑な性質を全く知らない中国人建設労働者に任されている。世界的に有名な文化遺産の改修を、子供の遊びのように扱っている」。例えば、「チベットの伝統的建築技術によれば、特殊な木の梁が壁の中に入れられる。しかし、事を簡単にするために、中国人はコンクリートや鉄を使っている。誰もが知っている通り、建築素材としてのコンクリートや鉄の歴史は100年程度だ。1300年以上の歴史を持つポタラ宮の改修にこのような素材を使えば、歴史を歪曲するだけでなく、新素材がもとの素材と適合せず、宮殿の構造にダメージを与えることになる」という。このような改修は伝統的チベット建築のポタラの結合力を破壊するのだ。

ポタラ宮はチベット人によって建てられたのだから、チベット人によって修復されるべきだ。なぜそれが、ラサの人々から「契約労働者」と呼ばれる中国漢民族の建設チームに任されているのか?微妙な内情は、カセットテープが示している。ある取引の結果、「改修計画は汚職と無駄な出費にまみれている」のだ。実は、汚職の風潮は中国では一般的であり、ラサのいたる所で収賄や汚職があふれている。しかしこの数年の間、それが明らかになったことはない。チベットは本当に、地球で最期の純潔の地なのだろうか?実は、「世界の屋根」の上はもはや純潔の地ではなく、太陽のもと、邪悪が消えることはなく、権力の庇護のもと、何も止めるものもない。しかし、庇護者にも理由はある。最も分かりやすい理由は、「安定は全てに優る」というものだ。だから、チベットの「安定」を乱さないよう、ジョカンやデプン、セラの僧院の入場券収入は、政府高官の子供たちの間で分けられ、人々はこの略奪に怒りの声を上げることもできない。ポタラ宮は世界遺産であるにも関わらず、カーテンの後ろから黒い手で汚されてきたのだ。

「敗れても、なお泣くことなかれ」

今日もポタラ宮は山の上に建っているが、かつての高さはない。今日もポタラ宮は純潔の地として姿を見せているが、時の変化にさらされ傷ついている。ポタラと共に暮らすラサの人々は、受け継いできた生活を変えられてしまった。覆水盆に返らず。これが現実だ。しかし、その現実の一方に、隠され、絶えることない、不屈の精神が持ち続けられている。近頃、早朝、いやもっと早い時間、夜明け前の最も暗い時間に、チベット人達が一人また一人と、その心の信仰を満たすために家から出て来る。数珠の珠を繰る者、マニ車を回す者、五体投地を行う者、ツァンパや穀物、杜松の香を供える者、命を救われた犬や羊と共に巡る者。全てはラサを巡る川の中の渦のようだ。川の中心には、取り残された島のように、ポタラ宮が静かに建っている。ポタラ宮から輝くかすかな光が、その寂しさと大きさを際立たせている。しかし、その光の道はゆっくりでも、何もこれを妨げることはできない。

1994年の夏、ポタラ宮の、黒く縁取られた紅い窓枠のたくさんの窓が点々と並ぶ白い外壁に、巨大な二つの貴重なタンカが飾られた。このすばらしい伝統的な儀式は、40年以上行われておらず、それ以降も行われていない。内陸からきた中国人の詩人が、この日の光景を記録している。「ラサのどこからでも、ポタラの混雑が見える。さまざまな国の人がいる。彼らがいる所からタンカを見ることはできないが、タンカの方角を向いて、静かに涙を流している…その日、無数の人々がポタラ宮の周りを時計回りに巡っていた。そこら中ほこりだらけだった。チベット人、中国人、西洋人、僧侶、それからあらゆる人々…赤ん坊を抱いた者、年寄りを助ける者。人類の歴史上の大移動を見るようだった」

1999年も終わろうとし、まさに21世紀が近づこうという頃、ダライ・ラマの亡命から40年を経て、 当時15歳にも満たなかった若いトゥルク、カルマパが突然チベットを離れ、また一人の有名な亡命者となった。ダライ・ラマと多くの亡命チベット人を受け入れた自由の国インドは、カルマパにとっても避難所となった。彼はそこで、ポタラ宮のそばで創作した意味深い詩を書き記した。

月のような花々、
雪におおわれた雄大な癒しの国に、
喜びの泡が湧き上がる。
霧雨の憂鬱なフルートの中、
虹のドラムのアーチの中に、
真実の風が吹く
雲を遥か北へ追いやって

あぁ...
そして今、
何千もの私たちの祈りの花が咲く。
苦難の痛みはゆっくりと薄れる

結束の南風が吹くとともに。
透きとおる青い空に
もう一度、
パタパタと
喜びの白い雲が踊り始める

さあ、
驕ることなく、
へつらうことなく、
きらめくポタラの姿、
光に照らされた小さな窓に
あなたのお顔が花開くように輝く

おぉ...
雄大で柔らかな太陽、 
今は穏やかな黄金の光の矢の中に。
その身の中で血を流す心臓は
全て真実を広めるために。
敗れても、なお泣くことなかれ





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参考リンク:ウーセルさんのブログ

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