スピーカー :ガワン・ワンドゥン
対談相手 :イーデス・ハンソン
(アムネスティ日本特別顧問)
通訳 :高橋明美
(ルンタ・プロジェクト)

 


2002・チベットの拷問被害者 スピーキングツアー【チベットの真実】
拷問というつらい体験を乗り越えて


【東京講演】2002年11月30日(土)午後2時〜4時半
   場所:明治学院大学白金校舎 3号館3201教室

◆ ガワン・ワンドゥン語る チベットの真実

私は、13歳で出家しました。当時から既に中国当局によって僧籍に入る数は制限されており、また僧院の中には公安当局の派出所があり、外出するにも届出をしなければならない状態でした。1988年9月28日、デプン僧院でデモが起き、チベット全体の僧院、尼僧院もそれにならってチベットの独立、信教の自由を求めるデモが起きたのです。

そして、1992年2月3日、私を含む尼僧6人でラサでチベットの独立を訴えるデモを行いました。これは、「チベット独立!」と叫ぶだけの平和的なデモだったのですが、すぐに私たちは大勢の警官らに取り囲まれ、トラックに無理矢理乗せられてしまいました。そして護送中のトラックの中でも殴られ蹴られ、グツァ刑務所に収監されたのです。

◆ グツァ刑務所

グツァ刑務所で「デモの黒幕は誰か」と尋問され、容赦ない拷問が始まりました。そして、「誰の意図でデモを始めたのか白状すれば、釈放してやる」とまで言われました。私は以前、こうして捕まった尼僧たちに刑務所まで食糧の差し入れをすることがあって、ああいったデモを行うとどういう結果になるかは充分分かっていました。私は尋問室から刑務所の広場に出され、「ずっと腕を上げていろ」と言われ、耐えられなくなって腕を下ろすと殴られるといった拷問が続きました。そうした拷問が続いている間、仲間の尼僧たちの叫ぶ声が尋問室のあたりから聞こえてくるのです。ようやく拷問から解放され、独房へ連れ出される時、仲間の尼僧たちとすれ違ったのですが、彼女たちの顔はまるで別人のように腫れあがって無残な形相になっていたのでした。

独房に収容されてからも4日おきくらいに拷問に呼ばれ、拷問のない日も、いつ拷問に呼ばれるのかと心臓は高鳴っていました。独房は窓もなく、一体昼か夜か分からない状態でした。トイレも無く、ただバケツが1個あるだけで、そこに用を足さなければなりませんでした。一カ月半ほど独房に収容されて、ようやく4人部屋に収容されました。しかし、そこでもバケツ1つがあるだけでトイレも無く、皆それで用を足さなければなりませんでした。バケツは1日1回だけ取り替えられるだけでいつも汚臭が部屋に充満し、不衛生極まりない環境でした。

さらに私たちは、裁判のないまま、強制労働に駆り出されたのです。特に辛かったのは、肥溜めに腰まで浸かり素手で肥料をバケツで汲み出す仕事です。仕事が終わっても手も洗うことも許されないので、その手で食事をしなければなりませんでした。また、中国語がちゃんと話せないと拷問を受けることになりました。その上、血液検査として称して血液の採取がありました。私は、この「検査結果」というのを一度ももらったことはありません。こうした苛酷な状況の中で、食事は朝食にお茶かパン、昼食はパン一切れ、夕食もパンとお茶だけといった大変粗末なもので、皆病気になってしまいました。中には気を失って病院に連れて行かれた尼僧もいましたが、まともな治療は受けた形跡はありませんでした。こうして懲役刑も下されないまま6ヵ月が過ぎ、一刻もこの状態を打開するため、私たちは早く刑を決めてもらうよう当局に嘆願書を送りました。そして、まともな裁判もないまま通知のみが来て、ティサム刑務所での3年の懲役刑が下されたのです。

 

シェーラブ・ンガワン

政治囚、シェーラブ・ンガワンは15歳の若さで亡くなった。彼女はティサム刑務所から釈放された2ヶ月後、1995年4月17日に亡くなった。獄中で自由を求める歌を他の尼僧たちと歌っていたため、電気棒、砂を詰めたプラスティックの管で殴られたらしい。 ある筋によると、「看守たちにひどく暴行され、誰だかわからないくらい体中が打撲傷だらけになっていた」
また別のある筋によると、独房に3日間監禁された後、シェーラップは背中に鋭い痛みを感じるようになる。腎臓も悪くなっていたらしい。 記憶喪失にもなり、普通に食べることさえ困難になっていた。 囚人仲間が中国当局に懇願し、ようやく2度病院に運ばれた。
「釈放された時、拷問といい加減な治療で重体になっていた彼女は、ラサの他の病院に運ばれた」とあるラサの非公式の情報筋は語る。彼女を診断した医者たちによると、彼女は腎臓の機能不全及び肺に損傷を受けていたらしい。 )

(TCHRD(チベット人権・民主センター)1999年発行 「テールズ・オブ・テラー チベットでの拷問」より



 

◆ ティサム刑務所

ティサム刑務所では、強制労働のノルマが課され、ノルマを消化できないと刑が伸ばされるというものでした。さらに軍事訓練を強制的に行わされ、食事もほとんどないまま、私たちは行進を行ったり、中国語で中国共産党を称える歌を歌わされたりしました。さらに冬は、刑務所近くに駐屯している軍隊の洗濯などをさせられました。冬のチベットで水で洗濯するということは、手指がちぎれそうになるほど辛い仕事です。ここでも私たちは中国語ができないと、集団で殴る蹴るの拷問を受けました。私たちはほとんどが貧しい農村の出身で、充分な教育も受けておらず、ましてや中国語などまともに話せるわけありませんでした。

私はついに倒れ、手術で17日間入院することになりました。しかしすぐに、不完全な手術後の傷口もまだ膿んでいるのに刑務所に連れ戻され、強制労働、軍事訓練に駆り出され、ついに血を吐いてしまいました。しかし、その診断は「胃が悪い」と言われただけでした。「良心の囚人」と言われた人たちは皆、私と同じような境遇に陥っていました。

それでも、私は12人の尼僧たちと共にチベットの独立を求める歌を歌いました。そしてすぐに、100人近い監守や警官などに取り囲まれ、電気棒などで殴る蹴るなどの拷問を受けました。それは夜の10時から朝の3時まで続きました。その後、独房に収容されましたが、その独房は人が1人寝るだけのスペースしかなく、窓もなく、また毛布もありませんでした。床は以前収容されていた囚人の汚物で汚れていました。1日に1回、用足しのために独房を出ることが許されるだけでした。7日間の独房収容の後、尋問室に呼ばれました。「自分のやったことは間違いだったと認めろ」と言われ、酷く殴られました。尼僧の私も刑務所では髪が伸びてしまっていて、その髪を引っ張られ、そして耳もひっぱられて、ついには片耳がちぎれてしまいました。ちぎれた耳のあたりから血がとめどなく滴り落ちてきたのですが、全身が痛くて、自分の耳がちぎれたことなどわからないほどでした。そして気を失うとバケツで水をかけられ、気が付くとまた拷問が始まるという有り様でした。しかし、他の人は、もっと酷い拷問を受けていたのです。

仲間の尼僧のシェーラブ・ンガワン(※左欄参照)は、釈放の数日後亡くなりました。彼女の体は拷問のあざだらけで拷問の後遺症で亡くなったことは明らかでした。私は95年に釈放されました。釈放後も夜いきなり、当局が家宅捜索にやってきたりするなど常に監視や嫌がらせを受けていました。仏教の修行も許されませんでした。

私はついにインドへ亡命しようと決意しました。22日間、ヒマラヤを越えてインドへ行ったのですが、これは仏教の修行を続けたいこともありますが、自分の経験を語り世界中にチベットの現実を伝えたいことと、ダライ・ラマ法王に会いたいという気持ちからのものでした。ダラムサラにようやく着き、ダライ・ラマ法王に初めて謁見したときのことは私の一生の忘れられない大切な思い出です。


ガワン・ワンドゥンさん
ガワン・ワンドゥンさん。2002年12月3日ダライ・ラマ法王 日本代表部事務所にて撮影
 

◆ Q&A質疑応答

Q: 獄中のワンドゥンさんにとって心の支えになったものは何でしょうか?
ワンドゥン: それは他の人々が私以上の苦しみを受けたことを思うことです。
Q: 監守に対してどんな気持ちだったのでしょうか。彼らを恨みましたか?
ワンドゥン: 監守には中国人もチベット人もいます。彼らも制度の中でああした拷問を行うわざるをえない状況にあることを私は充分理解しています。同じ人間である彼らを憎んではいません。憎むべきは、ああいった人を動かす制度です。
イーデス・ハンソン: でも最初からそういった考えを持っていらしたんでしょうか。
ワンドゥン: はい、刑務所に入ったその日から重々覚悟はできていました。その思いで3年間、過ごしました。
Q: ワンドゥンさんのご家族は反対されなかったのでしょうか。どういったお気持ちだったのでしょうか。
ワンドゥン: 自分の家族のためにだけ生きるのではなく、チベット人600万人のためにチベットの独立を主張したかったのです。
Q: 恐怖感とかはなかったのでしょうか?
ワンドゥン: デモの前日まで不安と恐怖でいっぱいでした。でも実際、デモに投じると、恐怖感がなくなっていったのです。
Q: チベット人の監守の割合はどのくらいなのでしょうか。
ワンドゥン: 監守にはチベット人も確かにいますが、刑務所所長クラスなど管理職になるとほとんどが中国人です。

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主催: 社団法人アムネスティ・インターナショナル日本
協力: ダライ・ラマ法王日本代表部事務所 /チベットサポートネッワーク・ジャパン/ チベット問題を考える議員連盟/ルンタ・プロジェクト