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思いやりと個人 “COMPASSION AND THE INDIVIDUAL”

(ダライ・ラマ 1991年)

人生の目的とは?

私たちが意識的、無意識的にそれについて考えていようといまいと、1つの重大な疑問が日々の経験に中に潜んでいます。それは、人生の目的とは何かということです。私はこの疑問について、いろいろと考え抜いてきました。そして私の考えに触れた人々が、そこに何か直接的、実際的に有益なものを引き出して下さればという願いから自分の考えを述べてみたいと思います。

人生の目的とは幸せになることだ、と私は信じています。誕生の瞬間から全ての人間は幸せを望み、苦痛を欲しません。社会的条件、教育、イデオロギーといったものもその希求を奪うことはできません。私たちの存在の核そのものからして充足を願っているのです。無数の星雲、星座、惑星を包含するこの宇宙にもっと深い意味があるのかどうか、私にはわかりません。しかし、少なくともこの地上に住む私たち人間が幸せになろうと努力しているのは確かです。ですから、何が真の幸せというものを意味するかを把握することはとても大事なことだと思います。

いかに幸せに到達するか?

まず、全ての種類の幸せと苦痛を精神(心)と肉体という2つのカテゴリーに分けて考えることができるでしょう。この2つの中で、私たちに最も強い影響を与えるのは心の方だと思います。重病に陥ったり、基本的必需品を欠いたりしていない限り、肉体的状態は生活の中で二義的役割を果たすに過ぎません。けれども心の方は、たとえそれがどんなにつまらぬことであっても、1つ1つの出来事を心に留めてゆきます。ですから、私たちは心の平安を生み出すために最大限の努力を払う必要があるのです。

私は、自分の限られた経験においても、最も深い内的静謐さは愛と思いやりを深めることによってもたらされるということを学びました。

他者の幸せを大切にすればするほど、私たち自身の幸せへの意識が深まってゆきます。他者へあたたかい親近感が深まれば、自然に自分の心も安らいでくるものです。この気持ちが、どんな恐れや不安を抱いていてもそれを取り除く手助けとなり、直面する障害に打ち勝つ力を与えてくれます。これが人生における究極的な成功の源となるのです。

この世に生きている限り、私たちは数々の問題に出遭わざるをえません。そのような時に希望を失い意気沮喪してしまっては、困難に立ち向かう力も減退してしまいます。しかし、苦痛を味わっているのは私たちだけではなく全ての人間がそうなのだということを思い起こせば、このより現実的視野によって問題を克服しようとする決意や能力も一段と深まることでしょう。まさにこの態度によってこそ、どんな新たな障害も私たちの心を更に向上させる貴重な機会として受けとめられるのです。

こうやって私たちは徐々に、より一層に思いやり深くなれるよう努力することができるのです。つまり、他者の苦しみに対する真の哀れみとその苦痛を取り除いてあげたいという意志の両方を培ってゆけるのです。そのようにして私たち自身の心の静けさと内的な力は増してゆくのです。

愛の必要性

なぜ愛と思いやりが1番の幸せを生み出すのか、一言でいってしまえば、私たちの愛そのものが他の何よりもましてそれを求めているからにほかなりません。愛がなくてはならないものだということは、まさにこの人間存在の根源に関わっているのです。それは、私たち全てが互いに分かち合っている深い相互依存から生まれてきます。個人としていかに有能で熟練していようと、たった1人では男も女も生き残れません。人生の順風満帆の時期にいかに人が元気旺盛で独立を謳歌していようと、1度病気になったり、乳飲み子であったり、非常に年をとってしまった時には、誰かの助けがなくてはなりません。

相互依存性は、自然の根本原則です。生命の高次元の形態においてだけではなく、宗教、法律、教育といったものがない微細な虫の多くも自分たちの相互関連性を本能的に知覚しそれに基づいて互いに協力しあって生きています。ごく僅かな物理現象も相互依存性に支配されているのです。私たちの住む惑星から、私たちを取り巻く海洋、雲、森林、花々に至るあらゆる現象界は、エネルギーの微妙な形態によって生起しているのです。この正常な相互作用を欠くと、事物は解体し衰滅してしまうのです。

愛の必要性が人間の存在の根源に関わっていることは、人間の存在はそれほどまでに他者の助けに依拠しているからにほかなりません。ですから私たちは、他者の幸せに対する誠実な責任感と真摯な関心を必要とするのです。

私たちは人間とは本当は何なのかということを考えねばなりません。私たちは、機械が作ったものではありません。もし単なる機械的存在物であるなら機械そのものが私たちのの苦痛を軽減し必要を満たしてくれることでしょう。しかし、単なる物質的生物ではないのですから、外的な発展のみに幸福の希望を全て託すのは間違いです。そのかわり、自分たちの原点や本性を熟考し、私たちが真に何を必要としているのかを知らなければなりません。

宇宙の構造や発展という難解な質問はさておき、私たちは両親によって生まれたという点では、少なくとも一致できるでしょう。妊娠は性欲による結びつきというより、子供が欲しいという両親の意志がもたらすと考えるのが普通です。この両親の決心は、生まれた子供が独り立ちできるまでは心を込めて面倒を見てあげようという責任感と他者への愛に基づいています。ですから、妊娠という瞬間から両親の愛が私たちの誕生に直接介在しているのです。

更に乳飲み子の段階から、私たちの母親の手に完全に委ねられています。科学者たちによれば、妊婦の精神状態は、安定していても不安定であっても、いずれも胎児に直接身体的影響を与えているといいます。

愛情表現は、誕生時において非常に大切なものです。私たちが生まれてまずやるということといえば、母親の乳房に吸い付くことですから、私たちは母親を1番身近に感じるはずです。そして、母親もまた、立派に育ててあげたいという愛情を感じるに違いありません。もしそのとき、腹を立てたり、恨みを抱いていたりしたら、母乳も十分には出なくなるでしょう。

生後3、4歳までの段階が脳の発達に非常に大切な時期であり、この時期における身体的接触こそ、幼児の正常な成長に欠くことができない最も大事な要素なのです。もし幼児が抱き上げられたり、ぎゅっと抱きしめられたり、愛されることがなければ、その成長は損なわれ脳は正しく発達しないでしょう。

幼児は他人に世話をしてもらわなければ生き延びてゆけないのですから、愛情こそ1番大事な栄養源なのです。幼児期の幸せ、たくさんの恐怖の克服、健康な自信の芽生えといったもの全ては、この愛情に直接支えられています。

今日多くの子供たちが不幸な家庭に育っています。もし彼らが正しい愛を授けられなければ、後になって両親をなかなか愛することができず、他人を愛することも難しくなってしまいます。これはとても悲しいことです。

子供が大きくなり学校に行くようになれば、心の支えを教師によって満たされてゆくはずです。教師が教科科目だけを教えるばかりではなく、生徒たちの将来の人生に備えるための責任を担ってやるなら、子供たちは信頼と尊敬を抱き、その教えは生涯心に刻み込まれることでしょう。それに反し、子供たちの生涯に渡る幸せに心から関心を払わない教師の教えたことは、一時的なものとなり長く心に留まらないでしょう。

同様に、人が病気になり入院し、あたたかい人間味溢れる医師に治療を受ければ、病人は安心し最善の看護をしてあげたいという医師の思いは、その医師の技量に関係なく、その思い自体が治療行為となるでしょう。一方、医師が人間的感情に欠け、冷淡でいらいらした投げやりな態度を示すなら、たとえその医師が高く評価され、正しい診断を下し、適切な薬を処方していたとしても、人は不安を感じるでしょう。そして、ひいては治療の内容、完全度に微妙な影響を与えることになるかもしれません。

日常的会話でも人が人間味溢れる話し方をしていれば、聴いて快く、また気持ちよく反応できるでしょう。話題がどんな些細なことであろうとも、会話全体が生き生きと興味のあるものになるものです。その反面、人が詰めた乱暴な言葉で話せば、私たちは落ち着かなくなり早く打ち切って欲しいと感じるでしょう。どんなつまらないことでも重要な事柄であっても、他社の好意や敬意というものが私たちの幸せにとっては欠かせないのです。

最近会ったアメリカの科学者たちは、この国の精神障害者の率が非常に高く総人口の12%に上がると話していました。そして話しているうちに、鬱の主な原因は物質的に充足していないからではなく、他者の愛情喪失だということがわかりました。

これまで私が述べてきたことからお分かりだと思いますが、1つのことがはっきりといえます。それは、生まれたその時から自覚的であろうとなかろうと人間的愛情がなくてはならないという不可欠性が私たちの血肉に刻み込まれているということです。たとえその愛情が、動物や普段自分の敵とみなしているような存在から生まれてくるものであっても、子供も大人も自然にそれに心をひきつけられてゆくのです。

この愛の不可欠さを必要としない人は、1人としていないと私は信じます。近代的思想の流れの中には、そういう傾向のものがありますが、人間を単に肉体的なものとして定義づけられてならないのは明らかだと思います。物質的対象物がいかに美しい貴重なものであっても、私たちが愛されているとは感じさせてくれません。なぜなら、私たちのより深い個人性、真の性格というものは、心の主観的本性に根ざしているからです。

思いやりを深める

ある私の友人は、こう言いました。愛や同情は素晴らしいし良いことだが、それだけで十分対処できるものだろうか。この世界はそういったものがさしたる影響も力も持てない場所なのではないか。怒りや憎しみがあまりに人間性の1部になり過ぎ、人間は常にそれらに支配されてゆくのではないだろうか、と。しかし私はその考えに組しません。

私たち人間は、現在の形態で約10万年間存在してきました。もしこの間に人間が怒りや憎しみに本来支配されてきたのだとしたなら、人類の人口は減少していたでしょう。しかし、今はいろいろな戦争があったにも関わらず、世界の人口は昔よりずっと増えています。これこそ愛と思いやりが世界を左右してきた明確な証だと思います。だからこそ、いやな出来事は「ニュース」になるのであり、思いやりある行動はあまりに日常的なこととして当たり前に受け取られているのでほとんどが無視され「ニュース」にならないのです。

これまで思いやりの精神的有益さを強調してきましたが、身体的健康にも立派に寄与します。私の個人的経験から述べても、精神的安定と身体的健康は直接関係しています。怒りと動揺は、人を病にかかりやすくさせることは疑いようがありません。反面、心が安らぎ物事に積極的に取り組んでいると、肉体もそうやすやすと病にはかからないものです。

しかし、私たち全ては他者への愛を妨げる生来の自己中心性を有していることも確かです。私たちが平静な心によってのみ生じる幸せを願い、このような心の平安さは思いやりある態度からのみ生まれるのであれば、どうやってその心を育てればよいのでしょうか。もちろん、思いやりは素晴らしいものだとただ思うだけでは不十分です。それを育むためには、一致した努力をしなくてはなりません。つまり、日常的な事柄の全てを私たちの考えや行動を変化させるために利用しなくはならないのです。

第1に、思いやりとは何を意味するのかが明確になっていなくてはなりません。様々な情愛的感情は、欲望や執着が混じり合っています。例えば、両親の子供への愛情は、自分自身の感情的欲求と非常に重なり合っていて、完全な愛情とはいえないものです。結婚においても然りで、夫婦の愛は、特に初期のころは互いの深い性格を十分に理解しておらず、真の愛よりも執着の方へと寄りかかっています。非常に欠点のある相手であっても、好きだと思い込んでしまうととても良い人に見えてしまうほど、私たちの渇愛は強いものです。それに私たちは、僅かな長所を過大視する傾向があります。それで、一方の態度が変わると相手はがっかりし、自分の態度も変わってしまいます。これは、その愛情が個人的欲望に誘発されたものであり、相手のことを心から思っていない証拠です。

真の思いやりは、単なる情緒的反応ではなく理性に基づいた確たる関わりあいなのです。それゆえ、たとえ否定的な相手に対してであっても、真に思いやりのある態度というものは決して変わることがありません。

もちろん、こうした思いやりの心を育むことは容易ではありません。ではまず、以下の事実を考えてみましょう。

人が美しく友好的であろうと、魅力に乏しく非友好的であろうと、結局は私たちと同じ人間なのです。私たち同様、他の人間も幸せを望み苦痛を欲していません。そして同じように、苦痛を克服し幸せになろうとする権利は誰にでも平等に与えられているのです。そこで、もしあなたが、あらゆる存在は幸せでありたいという願いとそれを得る権利があるという点で全て平等であると認めるなら、あなたは自然に気持ちを通じ合い親しみを感じるでしょう。この普遍的な他者の思いやりの感覚に心がなじんでくれば、他者への責任感、人々に手を差し伸べともにいろいろの問題を解決しようという願望が深まってゆきます。この願望は選択的なものではなく、全てに等しく適用できるものです。彼らが、あなたと同じように愛と苦しみを経験している人間である限り、両者のあいだに差別の垣根を築き、否定的行動をとったからといってあなたの関わり方を変える道理はありません。

忍耐と時間さえ与えられれば、この種の思いやりの心を育むことは、自分の力で範囲でやれるという点を強調したいと思います。もちろん、私たちの自己中心性、自立的感情、自己の存在「我」というものへの個別的愛着は、本来的に哀れみの心を妨げる働きをしています。確かに真の思いやりは、このような形の自己把握を消し去る時にのみ経験されるのです。しかしだからといって、試み前進しようとしても無駄だ、ということはありません。

いかに出発するか?

私たちは、哀れみや思いやりの心にとって最大の障害である怒りと憎しみを取り除くことから出発すべきです。私たち皆がよく知っているように、この2つは非常に熱烈な感情で私たちの心全体を覆い尽くすほどです。にも関わらず、それらを制御することができるのです。しかし、もしそれができなければ、この否定的感情は容易に私たちに付きまとい、私たちの愛に基づく幸せを求める気持ちをくじくことになるでしょう。

そこで最初に、怒りというものに価値があるかどうか、吟味してみる必要があります。何か困難な状況の中で気落ちしたときなど、往々にして怒りが力や自信や決意のようなものをもたらすように思われ、役に立ちそうな気がすることがあります。

しかし、ここで私たちは、その精神状態をよく調べてみなくてはなりません。なるほど、怒りが特別な力を発揮するのは確かですが、その力の性質を注意深く観察すると、それがいかにも盲目的であることがわかります。怒りの結果が建設的なのか破滅的なのか、わかっていないのです。これは、怒りの感情が私たちの脳の最高の部分、即ち理性を暗くしてしまっているからです。ですから、怒りのエネルギーはほとんどといってよいくらい常に信頼できるものではありません。それは、測りしれない破壊、不幸な行為を引き起こします。しかもその感情が極点に達すると、人は凶器となり、他人を傷つけるとともに自分をだめにしてしまいます。

しかし、同じように強力でありながら、困難な状況をずっと上手に処理することの可能な、より制御されたエネルギーを発展させることもできるのです。

この制御されたエネルギーは、思いやりのある態度からばかりではなく、理性と忍耐からも生まれます。これが、怒りに対する最強の解毒剤です。しかし残念なことに、多くの人が、この特質を弱さの現れと誤解しています。実はその逆だと、私は信じています。それは、内的力の真の現れなのです。哀れみの心は、本来温和で平和的で柔軟なものですが、非常に力強いものでもあります。すぐ忍耐心を失う人は心がもろく不安定なのです。だから私には、怒りの爆発は弱さの端的な表れに思われるのです。

そこで、問題が起こったらまず謙虚になり、誠意ある態度を保ち、結果が公正なものかどうか留意すべきです。そのとき相手があなたより有利に立とうとし、公平であろうとするあなたの態度が相手の不当な攻撃を一層勇気づけてしまうようなら、断固として対応に出るべきです。しかし、これとてもあくまで思いやりの心を失わず行うべきであり、意見を述べ、協力な反撃手段を講じる必要性があるとしても怒りや悪意を伴わずに実行すべきです。

たとえ相手があなたを傷つけようとしても、最後にはその暴力的行為は彼ら自身を傷つけることになるのです。仕返しをしたいという衝動を抑えるためには、思いやりを身に付けたいという願いを思い起こし、相手が自分でやったことでひどい目にあわないようにしてあげる務めを自らに引き受けることです。

あなたが、穏やかな態度で対策を講ずれば、もっと効果的で的を得た力強いものとなるでしょう。怒りの盲目的な力に基づいた報復は的はずれに終わることが多いのです。

友人と敵

思いやりや理性は、ただ忍耐が大切だと考えているだけでは、それらを深めるのには不十分だということを再度強調しなければなりません。私たちは困難が起きるのを待ち、そこで実践しようと試みるべきです。

では一体、誰がその機会を作ってくれるのでしょう。もちろん、友人ではなく敵の方です。彼らこと、1番面倒なことを持ちかけてくるのですから、だから本当に学ぼうと思うなら、敵こそ最上の教師と見なすべきでしょう。

思いやりの心と愛を培おうとする人にとって、寛容さの修得は欠かせません。そのためにも、敵こそまたとない相手です。静謐な心を養うのに、1番役立ってくれるのですから、私たちは敵に感謝してしかるべきでしょう。個人や社会生活でもよく起こることですが、状況の変化によって昨日の敵が今日の友になることだってあるのです。

したがって、怒りと憎しみは「常に」有害であり、私たちの心を鍛え、そのマイナスの力を弱めるように努めなければ、怒りと憎しみはいつまでも私たちを妨げ静謐な心を養おうとする努力をくじこうとするでしょう。怒りと憎しみこそが、私たちの本当の敵なのです。これこそ私たちが全面的に立ち向かい克服すべき相手なのであり、人生に時として現れる一時的な「敵」は、真の敵とはいえないのです。

もちろん私たちが誰しもが、友人を欲しがるのは当然です。もし本当に自己中心的になってみたいというのなら、うんと利他主義に徹してみるべきだ、と私はよく冗談に言います。他人の面倒をよく見てやり、幸せを考えてあげ、手を貸し、世話を焼き、もっとたくさんの友人、たくさんの笑顔をこしらえてごらんなさい。その結果、どうなるでしょう。あなたが助けを必要としたとき、大勢の支援者が集まるでしょう。その反対に、他人の幸せを無視していれば、長い目で見れば、あなたは敗者になっているでしょう。また、友情は、いさかい、怒り、嫉妬、激しい競争から生まれるでしょうか。私は、そうは思いません。愛情だけが、真に親しい友を作り出してくれるのです。

今日の物質的社会では、お金と権力があればたくさんの友人ができると思うでしょう。しかし、その人たちは、あなたの友人ではなく、あなたのお金と権力の友人なのです。あなたが、富と力を失ったとき、その人たちの姿は跡形もなく消えてしまうに違いありません。

問題なのは、物事がうまくいっている時です。私たちは、何でも自分でできるという自信を持ち、友人など要らないとまで思ってしまいます。しかし、いったん地位を失い、健康を害した時、いかにそれが間違っていたかに気づくはずです。この時こそ、誰が本当に助けになり、そのような事態を考えるなら、助けを必要とする時に頼れる本当の友人を作っておくため、私たちは利他愛を培ってゆくことが大切なのです。

私がそう言うと、時々人は笑いますが、私自身いつももっと友人が欲しいのです。私は笑顔が大好きです。そのために、どうやってもっとたくさんの友人を作り、どうやってもっと多くの笑顔、特に本当の笑顔を見つければ良いのかと頭を悩ませているのです。笑顔にも、幾つかもの種類があります。皮肉な、技巧的、外交辞令的笑顔などです。多くの笑顔は、本当の満足感を与えるどころか、時として疑惑や恐怖さえ呼び起こすことがありはしないでしょうか。それに対して、心からの笑顔は、何か新鮮な感じを与えてくれます。そしてこれは、人間独特のものではないかと思うのです。もし、そういう笑顔を求めるのであれば、私たち自身の中にそういう笑顔がうまれる要因を持たなくてはなりません。

思いやりと世界

おしまいに、この小冊子の主題を超えて、もっと論点を広げて私の考えを少し述べてみたいと思います。個人個人の幸せは私たちの共同体の改善にも大きな貢献をなし得ると思うのです。

私たち全ては愛というのものへの普遍的必要性を分かち合っているのですから、どんな状態であっても、出会った人々を兄弟姉妹だと感じることが可能です。顔がどんなに見慣れないものであろうと、着ている衣装や動作がどう異なっていようと、私たちと他の人間の間には大した違いなど存在しないのです。私たちの根源的本性は同一なのに、外見上の差異にこだわるのはばかげたことです。

究極的に、人類は1つであり、この地球だけが私たちの住処なのです。自分たちの家を守らねばならぬとしたら、私たち各人が普遍的な他者への思いやりという生き生きとした感覚を味わおうではありませんか。この感覚こそが、人を欺き、虐待しようとする自己中心的衝動を取り除くのです。もしあなたが誠実で寛容な心を持っていれば、自らにきっと誇りを持ち自信を感じており、他人を恐れる必要はないはずです。

家族、部族、国家、国際、それがどんなレベルの社会であろうと、より幸せでより良い世界を作る鍵は、この哀れみの心を深めてゆくことだと私は信じています。私たちは何も、宗教に凝ったり、あるイデオロギーの信奉者になる必要はありません。1番大切なことは、私たち各人がよき人間的資質を培ってゆくことなのです。

私は誰と会おうと、古い友人として迎えようとしています。このことが私を本当に幸せな気持ちにさせてくれるのです。これが、思いやりの実践です。

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