カルマ・ゲレク・ユトク師の仏教基礎講座シリーズ Part1
私は、ここに仏法について短い法話を載せることを嬉しく思っています。この記事が、興味をお持ちの読者の皆さんに、真に有意義で価値のある釈尊の尊い教えを理解するうえで助けとなるよう、心から望んでいます。仏教の教えの基本的要素を簡単な言葉で説明するよう努力致します。もちろん、これは私が受けた伝統、すなわちチベット仏教に基づいてお話し致します。
カルマ・ゲレク・ユトク(元日本事務所代表)
◆ まずすべきこと/法について学べる資格のある師を見つける
ある人が法(ダルマ)に真の興味を持った時、まずすべきことは、法について学べる資格のある師を見つけることです。はじめの段階で適切な師を探し出すことが、最も重要なこととされています。その理由は納得できるものです。なぜなら、私たちを取り巻く日常でも、不適任でひどい教師によって生徒の一生をだめにしてしまうことがあるからです。ある教師がある生徒の一生をだめにする一方、不適任な法師(ダルマの師)は私たちの何百という生涯を簡単に滅ぼしていくといわれます。法(ダルマ)をマスターすることは、歴史や心理学のような一般の科目を学ぶこととはだいぶ違うのです。
こうした理由で、法師(サンスクリット語でグル:チベット語でラマ)の役割と働きは、仏教において大変重要と見なされ強調されています。特に高等仏教教義では、法師は1番大切な役割を担っているのです。まさにこういった教えから、有名なインド仏教の聖者ナロバ・マハーパンジッドが忠実なチベット人弟子のマルバ・ロツァワに次のことを告げたといわれています。
「師の存在以前には、ブッダという名前さえ存在しないのである」
大部分のチベット仏教における教義、祈りは、師をたたえるスタンザ(連)から始まります。最も基本で一般的な仏教修行である三宝(仏:ブッダ、法:ダルマ、僧:サンガ)の帰依にさえ、チベット語版の解釈では、4番目の宝「ラマ」が三宝の前に加えられています。それゆえ、全ての実践において、チベットでは「ラマ」と呼ばれる法師が、仏以上に尊重されているのです。これらのはっきりと目に見える修行を見て、専門的な知識にひどく欠ける昔の近代作家らが、風変わりにもチベット式の仏教を「ラマ教」と名付けたのです。もっと不思議なのは、日本を含むいくつかの国で、チベット仏教伝統の50歳にもなるこのあだ名を、正しく学術的な名称であるかのようにまだ使用していることです。全てのチベットの師は、この「ラマ教」という名称を大変嫌がっております。彼らが嫌う理由は、この名称が、深遠なる伝統について非常に誤った印象を作りあげたからに他なりません。その理由を挙げると、
- チベット仏教は、その内容と実践において完全で純粋なオリジナル仏教である。
- 法師の大切さについて強調される点は、ほとんど全ての高等仏教教義の中に明示されており、チベットの師(ラマ)が自らの利益のために後から作り出したものではない。
- 法師を強く信頼することを強調したからといって、三宝の信頼が二の次であるということではない。
- 三宝の対象以上に法師を優先的に崇拝するのは、それが分離した、または4つ目の宝の対象だからではなく、弟子にとって、法師は三宝が1つに合体した生身の代理人だからである。
- 法師に対して高い尊敬の念を与えるのは、彼個人より彼が担っている精神的役割とイメージがとても重要だからである。
- 法師に欠点を見出すことなく、完璧な存在として見るよう指示しているが、これは客観的事実とはほど遠く、本来、弟子の主観的自我を清めることを意図したものである。
- 師と弟子は厳粛な関係であるゆえに、法師を目指すものに対して出される戒めの内容は非常に厳しいものである。
- 人間社会のあらゆるレベルにおいて地位を濫用した重大な過失はごく一般的なものになり、チベットのラマたちも同様である。最近、多くの不適任でインチキなラマが増えている。彼らが自分たちの生活を営むために法(ダルマ)を口にしてあらゆることをなしている。
ある人を自分の師とするにあたって、慎重かつ注意深くやらなければなりません。急がずに、十分に時間をかけて、法師の行動、性質に常に注意をはらうことが、基本として挙げられます。師の候補となる人についての情報を信頼する人から聞くこと、関わりを持つ以前の彼のスピーチやダルマ説法を聞くこと、彼の日常の生活や行動をきちんと吟味すれば、これから自分の法師になろうとする者について知ることができます。大変立派な師として有名でそのような基本的調査の必要がないといった場合があります。このような場合、唯一のテストは、自分と師との間に過去において精神的なつながりがあったかどうかです。偉大な師であることは疑う余地はなくても、ある人には師としてふさわしくないこともしばしばありうるのです。これは、師にその資格がないということではありません。師に対して不必要で行過ぎた調査は避けるべきとされています。それは大変美味なものの中に刺激物を加えたり、煮過ぎてしまうようなものです。同様に、ある者が何の調査もなしに自分の精神的師にすることは、未知のもの、生のまま何かを口にするようなものです。
仏教の法師に対して定められた条件は、厳しいものです。ここで細かく述べることは不可能で、またその必要もないと思われますので、もっとも簡単な要約を下記に述べます。
その条件を有する法師は、
- 学識かつ経験を積んだダルマを体得した人であること。
- 正直で平静かつ謙虚な者。
- 最高の真理を会得し、それに従って生きる者。
- 生きとし生けるものに溢れる慈悲の心を持つ者。
- 精神的な師としての務めに常に励む者。
または、
- 法(ダルマ)においてふんだんな知識と経験を持っている者。
- この世の営利に執着を持たない者。
- 自分自身より他者の利益を大事にする者。
- あらゆる機会に対し、完全な慈悲心と誠実さを持つ者。
- ダルマ研究に忍耐強く勤勉な者。
もう1つは、
- 真の倫理を守っている者。
- 真の分別の知恵を守っている者。
- 真の利他主義を守っている者。
上記の条件に十分相当する師は、この世でどんなに貧しい身分でも、たぐいまれな精神的師と言えるのです。
(原文英語より和訳)
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