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中華民国との関係(1911-1949年)

チベット亡命政権 情報・国際関係省著「チベット入門」より抜粋

この時期(1911年〜1949年)、中国の立場はいまひとつ明確でない。国民党政府[=中華民国政府]は、その憲法、あるいは海外向け報道のなかで、チベットが中華民国の1地方(民国の「5民族(漢族、チベット族、満族、モンゴル族、ウイグル族)」のひとつ)だと一方的に公言していた。しかし一方で、チベット政府と交わされた公式文書のなかで、国民党政府はチベットが中国の1部でないことを認めている。そのうえで、中華民国総統はダライ・ラマ13世とチベット政府に書簡や使節を何度も送り、チベットも中華民国に「参加」しないかと呼びかけた。同じことはネパール政府にも通達された。チベットもネパールも、これを一貫して拒否している。

中華民国大総統・袁世凱(えんせいがい)からの第一信に対し、ダライ・ラマ13世は民国参加の要請を拒否した。その釈明文は慇懃(いんぎん)ながらも毅然として、チベット人民は過去の不当な行いから国民政府に「賛意を示さない」と述べ、さらに以下のように書いている。

中華民国は成立したばかりでありますゆえ、まだ国の基礎が固まっていないとお見受けいたします。大総統にとりまして、今は国内の秩序維持のためにエネルギーを注ぐべきときではないでしょうか。チベットの件につきましては、チベット人民は現状のままで十分に国を維持してゆくことができます。大総統には、このような遠方の些事のことで、心をお砕きいただくには及びません。

1919年にダライ・ラマ13世が北京から派遣された「使節」に向けて述べたという言葉を、中国の白書は次のように引用している。

「イギリスと親しくするのは私の本意ではありません。(中略)私はチベットに忠誠であることを誓い、5民族の幸福を目指しています」

同じ年、非公式の代表団がラサを訪れた。ダライ・ラマに布施を献上するというのが表向きの訪問理由だったが、そのじつダライ・ラマを説得し、民国参加の同意を取りつけようというのが真の狙いだった。ダライ・ラマは交渉の提案を一蹴し、そのかわりラサで改めて3者交渉を開くことを提案した。

チベット人と中国人の混血女性であった劉曼郷(りゅうまんごう)がラサ入りしたのは、1930年のことだった。訪問は私用だと伝えられていたにもかかわらず、彼女は袁世凱の意を受け、チベット政府への接近を試みた。だが、チベット人の反応は冷やかだった。

中国の白書では、ダライ・ラマ13世が自身はチベットを中国の1部だと考えていると、彼女を通して表明したとする。白書の引用に言う。

「私がもっとも望んでいるのは、中国の真の平和と統一なのです……」

しかし歴史記録をひもといても、ダライ・ラマ13世が同年にこのような発言をしたという記録は存在しない。むしろチベットの公式記録に記された、1930年にダライ・ラマが大総統に送った返答の記録内容は、白書の記述と食い違っている。この公式記録には、袁世凱がダライ・ラマに送った8件の質問と、それに対するダライ・ラマの回答とが記されている。

対中関係および中国のチベット支配について、ダライ・ラマ13世は次のように述べている。

チベットの聖教一致体制を安定に保ち、チベット人の幸福を守るためには、交渉に応じて条約を結ぶべきなのかもしれません。そうすれば、信頼できる取り決めが生まれる余地もあるでしょう。

また、チベットの独立、および中国に返還を要求している国境地帯については、次のように語っている。

「僧侶と施主」という、長らく続いてきた両国の関係の下で、チベットは自由な独立気風を享受してきました。これからもそうであってほしいと願っています。失った国境沿いの土地をチベットに返していただけるのでしたら、2国間の安定は今後も続くでありましょう。

ほかにも黄慕松(こうぼしょう)将軍が1934年に、また呉忠信(ごちゅうしん)が1940年にそれぞれチベット入りしているが、チベット政府はいずれに対しても、独立維持の意向を明確に表明している。1933年に崩御したダライ・ラマ13世の摂政にレティン・リンポチェが任命された件について、中国の白書では、中国政府ないし「特別使節」(黄慕松のこと)が摂政の任命に関与したかのように書かれている。しかし実際のところ、中国または中国の使節が摂政の任命に関与したことなどなかったのである。

黄慕松は1911年以来、公務でのチベット入りを許された初めての中国人だった。チベット人が彼の入国を拒まなかったのは、故ダライ・ラマ13世への弔問に布施を携えてやって来たからに他ならない。黄慕松は1934年4月にラサに到着し、レティン・リンポチェはその3カ月後に摂政となった。国民議会(ツォンドゥ)は摂政として、

  1. レティン・リンポチェ
  2. ガンデン・ティパ・イェシェー・ワンデン
  3. プルチョク・リンポチェ

の3人を候補に選んでいた。そしてポタラ宮観音像の前で行われた抽籤(ちゅうせん)の儀式により、3人の中からレティン・リンポチェが摂政として選ばれたのだった。

また白書によれば、1931年と1946年の両年、南京で開かれた中華民国の国民議会に、チベット政府の役人が派遣されたことになっている。しかし1931年の場合、ダライ・ラマ13世がケンポ・クンチョク・ジュンネを南京に送った目的は、中国との交渉を継続するため、南京に臨時渉外本部を準備することであった。同様に、1946年にチベット使節団がデリーと南京に送られたのも、第2次大戦の連合国の勝利を、英米両国と中国にそれぞれ祝うためだった。一行は、国民議会に出席する指示も権限も与えられていなかった。現ダライ・ラマ14世は1959年8月29日、国際法律家委員会の法律査問委員会の席上でこの件についてこう語っている。

「一行(南京のチベット代表団)は、会議に対して何ら公的な役割を担っていませんでした。中国の政治宣伝に利用されるだけだと気づき、わが政府は出席するなと電報を打ったのです」

国民党政府が蒙蔵委員会を設立したことにしても、チベットが中華民国の領土だとする主張を形式的に補ったにすぎない。台湾の国民党政府はいまだこの委員会を存続させ、チベットばかりかモンゴル全域の支配権まで−しかも1924年、国際的に独立を認められたモンゴル国の支配権をも−所有すると主張している。もちろん、チベット政府はこの委員会など認めたことはないし、また、同委員会がチベットに関する権限をもったこともない。

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