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チベット文明の誕生

ダライ・ラマ法王日本代表部事務所 前代表
カルマ・ゲルク・ユトク師

チベットとは、地名であるばかりでなく、長い歴史を持った1つの国の名前でもある。来年、世界中が西暦2000年を、アメリカが独立223周年を祝うが、チベットはチベット暦2127年を迎える。現在の状況にも関わらず、チベットの文化及び政治面における歴史は、常にイギリス、インド、中国、日本といった世界の大国に比肩する。チベットが外国政府の下で破壊され、バラバラになったとしても、その独自の歴史と文化は生き残り続けるのは確かである。事実、古代遺産の神秘的な力によって、チベットはいつの日にか必ずや復活するのであるから。

土地と人々

チベットの領域は主として250万キロ平方メートルものチベット高原から成る。それゆえ、歴史上のチベットは日本の6倍以上の土地となり、海抜4000mを超え、およそ日本の有名な富士山ほどの高さに匹敵する。ヒマラヤを含む高山から成りまたこれらの山脈に境界をなしているチベットは、アジアを流れる主要な川の全ての源でもある。インダス河、ガンジス河、サトレジ河、ブラマプトラ河、サルウィン河、メコン河、揚子江、黄河、これら全ての河は、チベットが源である。つまり、環境学的に見ると、チベットはアジアの中でも最も重要で微妙な地域なのである。言い換えれば、拡大したアジアの環境システムはチベットで起こる出来事に左右されることになる。このことから、チベットがチベット人と中国人だけの問題ではなく、アジア諸国とその人々にも関わっていることが分かる。

1959年、チベットの人口は600万人であった。これは、チベットの国土が日本の6倍であるにも関わらず、人口は日本の20分の1であることを意味している。初期の近代歴史家は、チベット人口の大部分は「ラマ」(僧と尼)であったと述べている。正確なチベット公式記録によると、1959年には約59万9千人の僧と尼がチベットにいた。つまり、実際には僧と尼の数はチベット全人口の10%程度だったのである。その数は、チベットの他の社会集団に匹敵するほど大きいものであったと明らかにされている。例えば、当時のチベット軍はその10分の1にも満たないものだったからである。

チベットには地方性と方言の様々な地域が何百とあるが、チベットとチベット民族は、「チョルカ」と呼ばれる3つの地方に大きく分けられる。それは、ウーツァン、カム、アムドと呼ばれる地方である。ウーツァンはチベット中央部と西部から、カムはチベット東部、アムドは北東部から成る。現在、ウーツァンの全域がいわゆるチベット自治区に、アムドの大部分は現在の中国の青海省となっている。カムの大部分とアムドの1部分は中国の甘粛省、四川省、雲南省に組み込まれている。自然にあるいは人為的に分割の基礎が築かれたにもかかわらず、これらのチベットの3大地方は何世紀にも渡って存続し、卓越したチベット共通の文化遺産の価値によりしっかりと結びつけられている。

文明と伝説

隣接するインドや中国といったアジア主要国での文明誕生とちょうど同時期に、チベットでも文明が誕生したのは言うまでもない。しかしながら、地理的に孤立していたことにより、記録において有史以前の様子を知ることはほとんどできない。興味深いことに、1977年と1984年チベットの2つの発掘現場で新石器時代の遺跡が発見され、当初、紀元前5000年のものであるとされた。後に、考古学者たちは、チベットで初めて定住が行われたとされる中石器時代(紀元前1万3千年〜紀元前1万年)のものであると推定した。つまり、現代のこうした発見によっても、チベット文明が誕生してから少なくとも7000年を経ていることが分かる。

人間の命と文化がいかに誕生したか、それに関するチベットの伝統的な解釈はより一層興味深いものである。起源は定かではないが、それは非常に独特で詳細で明瞭なものである。その内容のほとんどがいくつかの重要な原始仏教の教えに由来し、大部分が何世紀にも渡り口承で伝えられてきたものである。現代の科学時代の到来により、その古典的解釈は歴史的価値があるものとしてより、民俗伝承として認識されるようになった。チベット人も含む現代の歴史家の多くはこの伝統的解釈から手を引いた。証明されない昔話の全てが神話でなければならないとみなしたのである。だからこそ、最も尊い書物に収められている私たちチベット人の起源についてここで語ることは大変光栄だと私は感じる。その物語は、以下の通りである。

チベットは長い間水の中にあった。それから徐々に水が涸れたか浸透したか定かではないが、高山に囲まれた新しい高原が誕生した。「雪の国」と呼ばれたその新しい土地に野蛮な聖霊や動物といった全てのものが住み始めた。観音菩薩(アバロケテシヴァーラー)は人類という特別な種類として現れたので、その土地の君主になるよう運命付けられていた。そのため、彼は1匹の雄猿に姿を変えた。その後「ヤルン」と呼ばれる谷を見下ろす岩山ではタラ菩薩(アリャターラー)が鬼女に姿を変えた。猿と鬼女が1つになり、6人の子供が生まれ、その子供たちがやがてチベット民族となっていったのである。

猿と鬼女が出会った山、一緒に暮らした洞窟、6人の子供が遊んだ平地は全て今でもチベットに存在し確認できる。最初に出来た村の1つは今でも遊び場という意味の「ツェタン」として知られ、猿と鬼女の混血児6人が遊んだ土地と同一のものであると確認されている。6人の子供たちの直系としてチベット民族の6つの氏族が誕生したと信じられている。

最初の異種間交配による新種から最初の人類までの進化過程にどれほど膨大な時間がかかったか想像できる。それがどんなに長い時を要したとしても、猿という1匹の動物から普通の人間に進化する何百倍も短いことを証明するに足る理由がある。その理由とは極めて簡潔だ。もし猿が生物学的に見て人間に近い存在であるなら、鬼(チベット語で「シンポ」)は猿よりも人間に近い存在である。鬼は、精神面同様、身体的特徴においても人間とほぼ同一のものであると言われているからである。

最初の子供たちに生まれつき尻尾がないと言われても仕方がない。これは猿の重要な身体的特徴(尻尾)が、尻尾のない相手と1つになったという巡り合わせで失くなってしまったからであろう。それに子供たちが父親よりも体毛が少なかったはずだ。岩に住んでいた鬼は多くの人種がそうであるように、体毛が無く、その肌は赤みを帯びていたと信じられている。おそらく、チベットの場合、より早い進化の過程を示すこの4つの理論を打ち出したのは、私が初めてだろう。断固として私がこれを主張しても、さして何も変わらないだろう。今の時代に本物の鬼女を見つけることなど不可能だから。

しかしながら、チベットの伝説を一方的に否定することはできない。これは、もしチャールズ・ダーウィンの進化論が科学的大発見として認められているなら、チベット人が信じているこの話が単なる民俗伝承にすぎないものと見なすことが出来ないことは前述の通りだ。実際、チベット人の考えは様々な点でダーウィンの進化論よりも優れている。その考えが11世紀に遡ること、信頼できる歴史的背景が存在すること、子孫が今でも確認できること、その両親の種族が詳述されていることによって、その理論はさらに明らかにされている。例えるなら、馬が徐々にラバに進化していくことよりも、馬とロバが1つになってラバになることを話す方がより理解しやすいということである。

チベット人の信じているものが神話であろうと事実であろうと、チベット文明は約紀元前200年という測り知れない時代の後、このような伝説として残っているものが重なりあって誕生した。「ヤルン」谷で全てが始まってから、チベット文明と後に現れた最初のチベット王朝はそれぞれヤルン文明・ヤルン王朝と呼ばれている。また、世界の他文明のようにチベット文明は農耕牧畜文明として誕生したとされる。地方の領主がそれぞれの社会を支配し、統一されたチベット王国は今でも確立されたままとなっている。チベット初期の時代に主流であった「ボン教」という宗教は、当時すでに人々に浸透していたと言われている。

チベットについて

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