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1240年〜1350年 モンゴル帝国皇帝との関係

チベット亡命政権 情報・国際関係省著「チベット入門」より抜粋

モンゴル王チンギス・ハーンとその子孫は、ヨーロッパとアジアの広大な土地を征服し、太平洋からヨーロッパに至る、かつてない一大帝国を築き上げた。1207年、チベットに北接したタングート部はモンゴル軍の襲来によって崩壊し、続いて1271年、モンゴル帝国は帝国の東半分を治めるべく元朝の成立を宣言した。さらに1279年には南宋が滅び、元は中国統一を完成させた。中国は今日、元を正統王朝に位置づけることにより、モンゴルの征服地のうち少なくともその東半分を中国の領土だと主張している。

1240年、チンギス・ハーンの孫にあたるゴダン・ハーンは、チベットに遠征隊を派遣し、チベットの指導的高僧サキャ・パンディタ・クンガ・ギェルツェン(1182〜1251)をみずからの幕舎に招いた。チベット・モンゴル間の関係が、これによって開かれることになった。同時にこれが、「寺と壇家の関係」(チュ・ユン)の始まりとなる。

世祖フビライ・ハーンは、ゴダン・ハーンの路線を受け継いでチベット仏教を受け入れ、サキャ・パンディタの甥ヂョゴン・チョゲ・パスパ(パクパともいう)を養育し、これを導師として仰いだ。このチュ・ユンの関係をもとに、フビライ・ハーンは仏教を国教となし、パスパは仏教界の最高権威となる。1254年、フビライ・ハーンは謝意にかえてパスパにいくつかの称号を授与し、チベット全土に及ぶ政治権威を与えた。

このような初期のチュ・ユン関係が結ばれた後も、同じような関係が引きつづきモンゴル王とチベットの貴族・高僧との間に多くみられた。中央アジアに出現したこの風変わりな関係は、後に清朝諸帝と歴代ダライ・ラマとの間に受け継がれてゆく。

チュ・ユン関係は、純粋に個人的なものである。その関係は、在家の保護者(施主)が僧侶に帰依するところに原点がある。それゆえ施主の政治的地位が変わっても、チュ・ユン関係の絶えることはなかった。そのことは、モンゴル・チベット間の関係が、元朝滅亡後も存続したことから明らかだろう。

チュ・ユン関係においてひとつ重要なのは、施主が僧侶に保護を与える動機というのが、自分に対する忠誠への見返りではなく、仏の教えと恵みに対する見返りだという点である。しかしなかには政治的側面をもったチュ・ユン関係もあり、高僧やその宗派組織を守るべく、皇帝が出兵の要請を受けることもあった。とはいえ、中国が宣伝工作(プロパガンダ)に記すのとは異なり、かならずしも施主が優位な立場にあったわけではない。俗界の施主は上師(ラマ)の弟子であり、上師(ラマ)への帰依者なのである。

元朝において仏教が国教となり、サキャ・ラマ(パスパ)が宗教の最高権威となった当時、モンゴル・チベット間の関係は、相互依存という言葉で表すのがふさわしい。世界帝国の皇帝と宗教の導師が政教界の最高権威を2分し、優劣なく互いに依存しあう関係にあった。上師(ラマ)が皇帝の保護を受けてチベット統治を保証してもらう一方、皇帝は帝国統治が正当であることを上師(ラマ)に保証してもらった。

モンゴル帝国がチベットを傘下に納めたことは、たしかに否定できない。とはいえ、中国の白書に

13世紀紀半ば、チベットは正式に元朝に編入された
と記述されるのは、誤りである。モンゴルの王が、チベットを直接治めようとしたことはない。チベットはモンゴル帝国に納税したこともないし、モンゴル帝国から中国の1部だと見なされたこともないのである。

チベットがモンゴルと政治的な関係を絶ったのは、1350年、チベット王チャンチュプ・ギェルツェン(在位1350〜1364)が、サキャ・ラマ(パスパ)をチベット最高統治者としてチベットに召還した時だった。チャンチュプ・ギェルツェンはチベットの政治制度からモンゴル色を一掃し、チベット独自の新制度を導入した。同王はまた、「15ヵ条の法典」を制定し、法に基づいた刑罰を行った。それから18年後、中国人はモンゴルから独立を勝ちとり、明王朝を建てることになる。

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