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パンチェン・ラマについて

パンチェン・ラマとは

1956年 左から、ダライ・ラマ、
パンチェン・ラマ、ネルー首相

パンチェン・ラマは、チベットの文化と宗教、政治において、ダライ・ラマ法王に次ぐ最重要の存在である。歴代のパンチェン・ラマは阿弥陀仏(無量光仏)の化身と信じられている。

パンチェン・ラマの位は、1642年、ダライ・ラマ五世がゲルク派を強化するために、偉大な学者を意味するパンチェン・ラマの称号を師のタシルンポ僧院院長に与えたことから始まった。それ以来、交互に師となり弟子となり、仏教の発展と民衆のために尽くしてきた。

しかし、ダライ・ラマとタシルンポ僧院のパンチェン・ラマとの関係は、必ずしも常に良好なものではなかった。時には両ラマの宮廷間は緊張関係にあり、中国は両ラマの緊張関係をしばしば利用しようとしてきた。

ダライ・ラマとパンチェン・ラマの関係を、チベットに侵攻した中国は、チベット人を分断しその宗教と文化を破壊するための手段として利用した。

現在の紛争は、パンチェン・ラマ9世と、パンチェン・ラマの中国亡命を強く不満としたダライ・ラマ13世の論争に遡る。ダライ・ラマ13世は1933年に死亡して、現在のダライ・ラマは1935年に生まれた。パンチェン・ラマ9世は1937年にチベットへ帰国の途についたが、帰国途中アムドで死亡した。1939年、現在のダライ・ラマ14世が転生者として布告され、1940年2月にラサで即位した。

パンチェン・ラマ十世

パンチェン・ラマ十世

一方パンチェン・ラマは、転生者が承認される1944年まで空位だった。この転生候補者の承認には、中国の政治的状況が強く関係していた。1949年国民党(内戦で毛沢東の共産党軍と戦った中華民国勢力)は、ラサの中国大使館廃止を受け、この転生候補をパンチェン・ラマ十世として承認し、6月11日に国民党政府が認可した。

しかし数週間も経たないうちにアムド(チベット西部)が共産党軍に占領され、同時にパンチェン・ラマも彼らの手中に落ちた。彼らがパンチェン・ラマをダライ・ラマの権威失墜に利用しようとしたためだった。

1949年中国共産党が政権につき、1950年に中華人民共和国が宣言された。同年に中国はチベット全面侵攻を開始して、たちまちチベットのほとんど全土を占領した。国外、特にイギリス、インドからの援助を得られないまま、チベット政府は中国と妥協に努めるほかに選択の余地は無かった。この試みの一環として、当時16歳で全権を掌握していたダライ・ラマは、紛争解決を協議するために北京の中国政府に使節団を派遣した。だがチベット使節団は、事実上紛争解決を協議するどころではなく、中国が指示した「チベットの平和的解放に関する17か条協定」を承認することしかできなかった。これは1951年5月23日に調印された。この協定がチベットの独立を実質的に終わらせた。さらに、チベット使節団は、中国が選定したパンチェン・ラマ十世を承認させられた。

パンチェン・ラマの存命中、中国は、チベット人をダライ・ラマから引き離すために彼を利用しようとした。パンチェン・ラマは中国で育てられたため、彼のチベット人とダライ・ラマへの忠誠をチベット人が疑わしく思うこともあった。パンチェン・ラマが事実中国の道具であったか否かが明らかになるのは、まだ先のことだった。

1959年、ラサでの中国の残虐な弾圧を受けてダライ・ラマは亡命した。これがパンチェン・ラマとの関係に及ぼした影響は大きかった。両ラマの個人的な接触は実質的に絶たれたからである。

しだいに、パンチェン・ラマが期待したような傀儡ではないことが中国に明らかになってきた。チベット人とダライ・ラマは、パンチェン・ラマを真のチベット人愛国者とみなすようになってきた。パンチェン・ラマは位を剥奪され、タシルンポ僧院の僧侶たちは迫害され逮捕された。

実際パンチェン・ラマはあまりに手におえなくなったので(例えば1964年にラサで催された大祈願祭−モンラム・チェモ−で、彼は会衆にダライ・ラマはチベットの真の指導者であると語った)、中国は彼を10年間独房に監禁して、彼の生死すら外界に知らせないようにした!

中国がついにパンチェン・ラマを解放したのは、ようやく1978年2月25日のことだった。

14年目に初めて公式の場に姿を現したのは、アメリカが中華人民共和国を正式に承認した日だった。パンチェン・ラマはダライ・ラマにチベットにもどるように呼びかけて、チベットの状態が改善したと宣言した。中国はまたもやパンチェン・ラマを傀儡として利用しようとしていたのである。

パンチェン・ラマ10世は、1989年1月28日、まれなチベット訪問中に心臓発作で死亡した。53歳だった。ダライ・ラマは自伝に、彼の死でチベットは「真の自由の闘士を失った」と書いた。

現在のパンチェン・ラマ

パンチェン・ラマ10世の死で、新たな転生者探索が開始された。新しいパンチェン・ラマ選定がチベットの将来にとって重大であることが、現在の緊張した政治状況を説明するものである。

ダライ・ラマの権威と人々が彼に対して抱いている崇敬と、チベットの窮状に国際社会の注意を向けさせようとする彼の働きとがあいまって、ダライ・ラマは自由なチベットを求める闘いの中心人物となっている。中国がチベットを占領している間に法王が死亡すれば、自由チベットを求める闘いは、3つの主な理由によって必ずや弱まるだろう。

第一に、新しい転生者が探索される間、ダライ・ラマ不在の空白期間ができるだろう。これは、権威の喪失とチベット人の指導者不在を意味するだろう。

第二に、いったん新しい転生者が布告されれば、ダライ・ラマが完全に責任を果たすことができるようになるまでに数年の期間を要するだろう。この間に中国は彼らの対抗者たちを解き放ち、自由を求めるチベット人の闘いを抑圧する一層大きな機会を彼らに提供するだろう。

最後にまた最も憂えるべきことは、中国が既に傀儡のパンチェン・ラマを即位させておけば、この事実を利用して、傀儡にできそうな自分たちのダライ・ラマを選定することができる。この恐ろしいシナリオ通りに事態が進めば、自由チベットを求める闘いは当然敗北することになる。中国政府が現在進めようとしているのは、この長期にわたる政治ゲームであることは疑いようも無い。

1995年5月14日、ダライ・ラマは、パンチェン・ラマ11世発見を布告した。新パンチェン・ラマは両親とともにチベットに住んでいたが、すぐさま中国政府当局によって有罪宣告され、さらに中国政府当局によって誘拐されて、世界最年少の政治犯として収監された。

一方中国政府当局は、これまでに彼ら自身のパンチェン・ラマを布告した。ギェンツェン・ノルブという6歳の少年で、中国の就任式が1995年11月30日に行われ、実際の「即位」は12月8日に行われた。

ダライ・ラマ法王が認定した
ゲンドゥン・チューキ・ニマ少年

中国側が認定した
ギェンツェン・ノルブ少年

誘拐されたパンチェン・ラマの所在は1996年6月までわからなかったが、一年間所在不明としてきた中国側がようやく彼を拘留していることを認めた。中国が示したゲンドゥン・チューキ・ニマ拘留の理由は、チベット人民族主義者 たちによる誘拐を防ぐためというものだった!1997年1月の時点まで何ら進展は無く、パンチェン・ラマはいまだに中国によって拘留されている。

中国がパンチェン・ラマ拘留を認めたことで、彼の生存についての憶測は終息したが、彼の身の安全に関する憂慮を軽減するものではない。また、中国側はパンチェン・ラマを釈放する予定であるとも発表していない。

中国が任命した「パンチェン・ラマ」については、中国はこの少年の肖像を公開して、彼の肖像をチベット中で掲示させる計画を発表した。これは、チベットでダライ・ラマの肖像を公に飾ることを禁止した過去の運動と、著しい対照を成すものだ。

それゆえこの論争は継続する状況にある。明らかに中国は、パンチェン・ラマを擁立し続けて、彼らの選んだパンチェン・ラマが真のパンチェン・ラマであり、ダライ・ラマ法王とチベット人のチベット独立を求める平和的で正当な闘いに対抗する武器として使えることを、世界に証明しようと試みるだろう。


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