ダライ・ラマ法王日本代表部事務所 チベットハウス・ジャパン検索サイトマップメニュー
 
ホーム>チベットについて>チベット仏教>シネー(寂止)についての法話 第1回 ゲシェー・ロサン・ケンラプ

シネー(寂止)についての法話 第1回 ゲシェー・ロサン・ケンラプ

第1回 | 第2回 | 第3回 | 第4回

シネー(寂止)についての法話  第1回 ゲシェー・ロサン・ケンラプ

(翻訳:三浦 順子)

ゲシェー・ロサン・ケンラプ師

image

2002年夏に来日したチベット仏教ゲルグ派の高僧で現在ダラムサラのネチュン僧院で教鞭をとっておられるゲシェー・ロサン・ケンラプ師による法話をシリーズでご紹介致します。師は、チベット仏教最高の博士号ゲシェー・ラランパを首席で卒業され、修行を積まれた南インドのデプン僧院で「学殖豊かな大僧正」に選ばれるほどの名僧でもあります。
私たちの心が外なる対象ばかりを追い求めていては、決して幸福を見出すことはできません。仏教では自らの心を変革することを求めます。この法話は、私たちの心から様々な刺激(迷妄)を断ち切って、安らぎの境地に達するための瞑想法(仏教用語で「止」、チベット語で「シネー」)を伝授するものです。


基礎段階の教え――帰依

仏教徒と非仏教徒の区別は、仏・仏法・僧伽(修行者たちの集まり)の三宝への帰依があるかどうかにかかっています。ならば、帰依とは何でしょうか。帰依の言葉を唱えようと唱えまいと、つまるところ、帰依とは心においてなす行為です。帰依を行うための因としては

  1. 怖れ
  2. 信心

の二つが必要です。人は怖れを感じるからこそ、帰依の対象に救いを求めますし、また帰依の対象に信をおくことができなければ、これまた帰依を行うことはできません。

では、人は何を怖れて帰依をするのでしょう。来世、地獄・餓鬼・畜生の三悪趣に転生する恐怖もありますし、煩悩障や所知障(一切智の境地に至るための微細な妨げと智慧の障害)への怖れもあるでしょう。こうしたものに怖れを感じて、我々は救いをもとめて帰依をするのです。この帰依の対象となるのが、仏・仏法・僧伽の三宝です。仏は帰依すべき対象を示してくれた存在であり、仏法とは帰依の対象そのもの、僧伽とはその仏法を修行する際の仲間のようなものです。

このように人は怖れを覚えて帰依するわけですが、その際、帰依の対象に百パーセント信をおかなければなりません。帰依の対象に少しでも疑いの気持ちや不信の念を抱いたなら、その段階で帰依は失われますし、帰依が失われれば、仏教徒ではありません

帰依をするにも菩提心を起こすにも、まず輪廻転生を、今の人生が終わっても、次の生に生まれ変わることを事実として受け入れることが肝心です。そして、今生の物質的幸福や世俗の喜びを得ようとしか考えない近視眼的な発想は捨てて、来世の自分に役立つことは何かを考えてみるのです。

今日は皆様にシネー(止)の瞑想法についてお話する予定です。しかしシネー(止)の瞑想法は仏教だけでなく、他の宗教にもあります。ですから仏教のシネー(止)を行じるには、まず仏・仏法・僧伽の三宝に帰依し、仏教の見解を受け入れておく必要があるのです。またこの教えを受けるにあたり、疑問が湧いたら、その疑問を私にぶつけて見てください。いや、正しい答えを知っている人がこの場にいるならば、誰が答えてもよいのです。仏教が他の宗教と異なる部分は盲目的な信仰を求めないことです。自らの知性を用いてよく吟味し、納得がいけば受け入れればよいし、納得がいかなければ受け入れなければよいのです。

盲目的な信仰は避ける

仏教では「四依四不依(しえしふえ)」、つまり四つの拠り所とすべきものと四つの拠らざるべきものを説いています。四つの拠り所とすべきもの(四依)とは、以下の四つです。

  1. 人に拠らず教義に拠れ
  2. 言葉に拠るのではなく、意味に拠れ
  3. その意味が完全に解明されたものに拠り、完全に解明されていないものには拠るな
  4. 意味が完全に解明されたものでも、智と結びついたものに拠れ

(1) の「人に拠るのではなく教義に拠れ」は、釈尊自身のアドバイスでもあり、仏教に特有のものです。あなたがたは仏教の教えが正しいものかどうかを自分の知性を用いて、吟味判断しなくてはなりません。「私が仏法を説く」などと言う人がいても、それを鵜呑みにしてはならないのです。「五根にまつわる意識(dbang shes 眼・耳・鼻・舌・身体にまつわる意識)ではなく、心の意識で判断せよ」とも言います。私たちの思考(bsam shes)は心の意識によってもたらされるものです。身体や言葉は言ってみれば心の奴隷のようなものです。心が「ここに居ろ」と命じれば身体はずっと一つの場所に留まりますし、「どこそこに行け」と命じれば、身体はそこに行きます。心が「このようなことを話せ」と命じれば、その通りに口から言葉が出るはずです。

このようにすべては心の意識(チベット語のyid shes pa=『心の意識』とは、認識し判別する心という意味で、現代語でいう『意識』とは多少意味が異なる)にかかっています。また煩悩は心の意識を縁として生じます。ですからもし煩悩を退治しようとするなら、煩悩のおおもととなっている心の意識に、この退治法を用いなければならず、それ以外に退治法を用いてもなんの効果も持ちえません。

(2) の「言葉に拠るのではなく、意味に拠れ」とは、飾られた言葉に惑わされることなく、その真の意味に拠らなくてはならないという意味です。こうしたアドバイスは実に仏教に特有のアドバイスと言えるのではないでしょうか。なぜならば、すべての判断はあなた方に委ねられているからです。イニシアチブをとるのはあなた方なのです。「わたしの言うことに、なにがなんでも従いなさい」と命令されているわけではありません。仏教の修行者というものは、心の意識を用いて考えを巡らし、判断し、それに従って行動します。さらに身体の行為よりも、心の動きが重要視されるのです。身体の行為のみでしたら、傍からもよく見え、良し悪しの分別もつきますが、心の行為、心の動きは、自分でその良し悪しを判断するしかありません。

教えは実践することが肝心

あなたがある教えについて納得したなら、実際にそれを自分に用いてみなくてはなりません。それを用いるとはすなわち瞑想をするということです。しかし一時間なにがしかの瞑想を行ない、その一時間が終わったら扉を開けて外に出て行くかのように、瞑想中のことはすっかり忘れて日常生活を送るのであってはなりません。そもそも瞑想している時間と瞑想していない時間を比べてみると、瞑想していない時間の方が長いわけです。ですから、瞑想中に得たものをそれ以外の時間に用いるのが、正しい生き方なのです。瞑想は言ってみれば、自動車にガソリンを入れるようなものです。ガソリンを入れた自動車は快適に動きますね。そのように、瞑想によって得た力で、私たちは日常生活を望ましい形で生きることができるのです。

このように仏教にまつわるものは、すべて心の行為と関連しているのです。チベット語では仏教のことをnang chos(内なるダルマ)と呼びます。「内なるダルマ」の内とは心のことです。煩悩の障害(煩悩障)、智慧の障害(所知障)をすべて浄化しつくした心には、虚空のごとき澄明さがたちのぼります。これがすなわちダルマです。

縁起

ならば、心の汚れをすべて浄化するための方便があるのでしょうか。もちろんあります。釈尊の説かれた縁起にまつわる教えがそれです。縁起とは、何かの原因に縁ってある結果が起きることを言います。

釈尊がこの世に現れるまで、さまざまな宗教では、特にヒンドゥー教などでは、この世界には全能の神や造物主がおり、この宇宙のすべてのものは造物主によって創造されたと説いていました。

しかし仏教ではそのようなことは受け入れていません。すべてのものは、原因があって生じている、これに縁ってあれが生じると釈尊は説かれたのです。さらに原因や条件にふさわしい結果が生じるものであり、ふさわしくない結果が生じることはないのです。例えば、あちらに馬がいて、こちらに赤い花があったとする。この場合、馬と赤い花は通常、因果関係にはありません。馬は赤い花を生み出すための原因とはなっていないのです。

先程も言ったように、他の宗教では全能の神や造物主が存在すると説きます。この全能の神の匙加減ひとつで、あるものは食べ物もこと欠く貧乏人となり、あるものはすべてに満たされた金持ちとなるのです。すると人は、神はあいつには幸運を恵んでやっているのに、自分にはちっとも幸運を与えてくれない、いったいどういうわけだと嫉妬するはめになるのです。しかし仏教ではさまざまな理由をあげて、造物主、全能の神の存在を否定し、すべてを引き起こしたのは自分自身なのだと説きます。ある種の宗教哲学は、人には恒常不変の霊我があり、肉体は霊我が一時まとう衣服のようなものだと主張します。こうした考えを信仰する人にとっては肉体は軽視の対象であり、爆弾をかかえて自爆することさえできるようになります。所詮、肉体などただ一時まとっている衣服にすぎず、それがだめになれば別の服をまとえばよいわけですから。チベット仏教ではすべては原因と条件によって変化すると説きます。生まれたものはすべていつか死にます。たとえば、寿命六十年の人がいたとして、その人物の残りの人生は刻々と減っていくのです。個人の存在(pudgara)もまた、恒常の存在ではなく無常であり刻々と変化しています。何故無常なる存在なのかというと、原因と条件(因縁)によってできあがったものだからです。

幸不幸となるための因はあなたの手中にある

ですから、不幸を望まないなら、不幸の因を作らないようにすればよいし、幸福を望むなら、幸福の因を作るようにすればよいのです。あなたの人生が幸福になるか不幸になるかは、全知全能の神にかかっているわけではなく、あなた自身に、幸福なり不幸なりの因を作るかどうかにかかっているのです。

煩悩障などの悟りへと至るためのさまざまな障害もまた恒常のものではなく、しかるべき退治法を用いれば退治することができます。心すらもさまざまな原因と条件(因縁)からできあがっているがゆえに、変えていくことができるのです。今あなたが体験している幸福も不幸も、おのずと湧き出てくる煩悩も、すべて前世において、あなたが身体において、言葉において、心においてなした行為の結果として生じたものであり、他の存在が作り出したものではありません。このように幸不幸はすべてあなたの手の中にあるのです。もしあなたが将来幸福を望むなら、今、身体、言葉、心を用いて善なる行為をなすべきです。それが将来のあなたの幸福の因となるのですから。

逆に今あなたに不幸が襲いかかったとしても、他人に腹を立てて、あいつのおかげで不幸になったなどと責任を押し付けてはなりません。あなたの不幸の原因は、あなた自身に、たとえば前世における悪業に起因しているのです。幸不幸いずれにせよ、過去の自分の行為の結果であると自覚することが肝心です。物質に満たされれば、自分の不幸はすべて断ち切られると考えるのは大きな誤りです。また他人があなたを幸福にあるいは不幸にすると考えるのも間違いです。なにか苦しいことにあったなら、「これは前世における自分の悪業の結果を今味わっているのだな。これで私はこうした報いを受けたので、この悪業のカルマは終わった」と考えて逆に喜ぶべきなのです。

他を傷つけない

仏教徒として肝心なのは利他の行為をなすことです。そしてもし利他の行為をなすことができなければ、せめて他を傷つけるような行為を避けるべきです。といっても自分によりよい来世が来ることを願って、他人に親切にするのは間違いです。瞑想するにしろ、俗世の仕事をするにしろ、身体・言葉・心を用いて、利他の行為ができなくても、他を傷つけることはしないようにするのです。仏教の修行は日常生活に生かさなくてはなりません。ですから、瞑想中にとどまらず、職場に出かけたときも、家庭内にいるときも、大乗仏教の修行の一環として、衆生のひとりである自分の同僚たちに、あるいは家族に、慈しみの心、あわれみの心、思いやりの心を持つことです。私たちの心のなかには確かに慈悲の心は存在します。この慈悲の心を最初に自分の身近な人間に向け、しかるのちに無数に存在する生きとし生けるものに広げていくのです。

ではなぜ、他の生きものに慈悲の心を向けなければならないのでしょうか。不幸を望まず、幸福を望むという点では、生きとし生けるもの誰もが同じです。自分が傷つけられれば苦しみ不幸を味わうように、他の生きものも傷つけられれば、苦しみ不幸を味わいます。こうしたことは、苦労して経典を読み解いたり、勉強したりしなくても、想像力を用いれば実感できると思います。

仏教は、心のさまざまな欠点、煩悩によって汚れた部分を正すための教えです。ですから、実際に修行してみて、瞑想を行ってみて、それが実際にあなたの心に役立つならば、あなたの心を良いものにできれば、確かに仏教の教えはあなたにとって有益なのです。


第2回へ


第1回 | 第2回 | 第3回 | 第4回

チベットについて

ページトップへ戻る


トップページサイトマップお問い合わせ

チベットの現状をご理解して頂き、どうもありがとうございます。
ダライ・ラマ法王日本代表部事務所はチベット亡命政権の代表機関として維持しつつ、さらに幅広い広報活動を続けるため、日本の皆様に暖かいご支援をお願いしております。ご寄付される方は、以下の口座宛てにご支援をどうぞ宜しくお願い致します。

金融機関名:ゆうちょ銀行
口座記号番号:00100-1-89768
加入者名:チベットハウス