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カルマ・ゲレク・ユトク師の仏教基礎講座シリーズ Part3

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- 死 根本的で重大な問題について考える -

前回は人の命がいかに大切か話をしました。本当に自分にとって有益である大切さが分かれば、それがある限り、私たちは最大限に利用し、それに害を及ぼそうとするものから守ります。命において、最も不安定、または弱いのが、死です。一般的には、死は考えたり話題にすることではない、とされています。死について私たちが出来ることは何もないとか、死について考えても得るものは何もない、というのなら、それは明らかに賢明なアプローチといえるでしょう。

しかし、仏法(ダルマ)においてそれは全く正反対になります。仏法においては、死とは、私たちの日常生活の中で重要な問題として考えるべきなのです。さらに仏法によれば、常に死を意識することで、人生がほとんどといっていいほど変わるのです。例えば、無知から自覚へ、錯覚から理解へ、困惑からから幸福へ、束縛から自由へと変化します。別の表現に置きかえると、死を意識することは崇高で永遠に不死の状態につながるということなのです。それゆえ、私たちの日常の中で死を考えることは、最も価値のある精神修行である、と言われているのです。

このテーマについて仏法の教義を論じる前に、一般的で世俗の観点から、死に関するいくつかの基本的な疑問をちょっと考えてみましょう。一般の人は誰でも死を忌み嫌い恐れます。全ての人は、遅かれ早かれ死に直面することはよく知っています。こうした状況において、確実に自分の死が訪れることを考えるようになったり、それに対して準備することがあるのかどうか考えてみたりすることが、より確実で賢明であることは疑う余地がありません。通常の生活においてでさえ、疫病や災害のようなどんなトラブルでも身近にせまっていることが分かれば、私たちは皆、普段どうすべきかということを考え、全力を尽くしてそういったトラブルに備えます。それは、差し迫った不測の事態に備えるという人類の良識です。死が人生最大の痛みとして一般に恐れられているので、死について考え準備することには、多くの理由と必要性があるのです。

「死についての思索」は、仏法の教義では、広範で相当の数に上ります。ここで詳細に論じることは不可能ですので、それらの本質の概略を以下に述べることにしましょう。

その1

ここでの「死についての思索」とは、各人が死の状態を記憶しじっくり観察しヴィジュアル化するという一定の思索の流れに焦点をあてるものです。この思索の対象となるものは、死の本質や過程よりむしろ、主に死そのものの現象です。例えば、亡くなった子どもの個性など特におぼえていないのに、その子どものことを鮮明に思い出すようなことです。もっとシンプルに言うと、自分の死が確実なものであると心の中で強く思い出し、且つ、その緊急事態に対して強い関心をもつようにすることです。その思索における最高の形とは、人がすぐに必ず死ぬ場合と同じように、強烈なものであるべきものなのです。そういう意味で、今まさに死刑が執行されようとしている人間の精神状態に比較できるかもしれません。生きている間にそうした強烈な「死についての思索」の一定の流れを発展させると、人はじっとしてはいられません。まるで頭に火がついたように感じ行動するでしょう。

その2

「死についての思索」を発展させなかったり、別の言葉で言いかえれば、生涯、死について考えないことによって引き起こされる危険性や損失は思いもよらないほど大きいものである、と言われています。「私は絶対に死なない」という自分を偽った考えは、一般の人々の心の中に自然に起こります。良識ある人間が、「自分はいつかは死ぬのだ」ということを知り認識しているとしても、常にその人の心の中では「今日は死なないだろう」と信じているのです。この偽った考えは、実際に最期の瞬間まで続くと言われています。この「今日」という日は、各人の最大限の人生の長さと等しいので、「今日は死なない」という考えは、その内容や結果において、「自分は死なないだろう」という考え方と同じなのです。それゆえ、この根本から誤った考え方が、私たちを永久に生の幻想へと導いているのです。生きていくことに備える過程で、私たちは自分自身をあらゆる有害な考え方や行為で束縛し、それによって何千もの人生を思いもよらない苦しみの世界へと陥れさせているのです。これ以上の危険と損失があるでしょうか。

その3

反対に、もし私たちが毎日死について考え、前述した「死に対する思索」を強烈に発展させようと努力するなら、そこから得られる価値と恩恵は多大なものである、と言われています。例えば、ある人が数日後に死ぬことがわかっている場合、彼は生涯を通じて蓄えてきたことが全て無駄であったと強く感じることでしょう。同様に、ある人が「死についての思索」に強く心を動かされ追求すれば、利害関係や富といった世俗的なものがいかに無駄なことか気付くはずです。そうして、死や苦痛の恐怖におののき、人は今の状況から自分を救い出してくれる人やものを必死になって求めるのです。そして、彼は仏法と出会い、永遠の至上の幸福へ向かうのです。これ以上の価値と恩恵が他に得られるでしょうか。その理由として、釈尊は、説法の中で以下のことをおっしゃっています。
「無常と死について思索することは、思索の中でも最上のものである。なぜなら、その思索は、存在の三つの領域―煩悩、無知、利己心―の全てを排除するからである」

その4

「死についての思索」は、死に対する恐怖心を鍛えること(陶冶とうや)によってもたらされます。しかし死に対する恐怖心とは、死ぬ時にその人にとって大切なものを失うことで認識されるものではありません。「死についての思索」での過程を通して鍛えられる恐怖心とは、避けられない存在である死の性質に対するものです。しかし、この最終対象―死に対する恐怖心はすぐに対処できるものではないので、過去の悪行を正すことができず、あるいは十分な善行を積むことができずに、死に対して恐怖をおぼえることになるのです。しかし、死ぬ前に過去の悪行を正し善行を積むことは可能なので、最期の瞬間に恐怖から逃れることができます。

その5

実際、どのようにして死を瞑想し実践するのかと言いますと、通常、仏教の教義、特にチベット仏教の教えでは、12の教えに従って、精神修行することを指摘しています。
そこには3つの基本と9つの動機というものがあります。その3つの基本とは、以下の通りです。

  1. 死は確実に訪れる、と考える
  2. 死はいつでも訪れる、と考える
  3. 死ぬ時には救いは仏法以外にない、と考える

これら3つの基本は、いくつかの動機とリファレンス(参照)によって考察、確認されます。ここで紹介することはできませんが、3つの基本となる真理は全く明らかなことです。しかし客観的な事実としてそれらを知ることは、教えの意味でも目的でもありません。動物園でライオンを眺めることと、誰もいない場所でライオンに出くわすこととは、全く異なる体験でしょう。これらの教えによってこれから何をしようとしているのかというと、私たちの心の方向性とプランを変えることです。それはつまり、生きるために備えていたことから、死ぬために備えることへと心を変化させることです。3つの基本のうち、2つめの「私はいつでも死ぬ可能性がある」、これは日常の実践の中心となる教えである、と言われています。


(原文英語より和訳)

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