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チベット仏教ニンマ派高僧トゥルシック・リンポチェによる
「37の菩薩の実践」Part4 アティーシャと帰依の教え

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仏の本質

三宝の一つ、仏の本質とはなんでしょう。煩悩障・所知障などすべての障害を浄化しつくし、悟りの智慧をすべて得つくした存在が仏です。チベット語では仏のことをサンギェー(sans rgyas)と呼びます。煩悩障と所知障の二つの障害の闇を浄化し(=サン)、二慧、つまり一切智と一切種智(あらゆるものの個別性を知り極める智慧)を完成させた(ギェー)存在が仏なのです。

仏の身体・智慧・御業

仏も身体、智慧、御業の三つの観点から見なくてはなりません。
仏の身体は二つ、法身と色身です。すべての生きものの心には如来の種子が、仏がすでに備わっています。その心の本質は、本来清浄(ye nas dag pa)です。しかしその心は、一時の汚れで覆い尽くされているため、仏に離れず衆生の段階にとどまっているのです。もしこの一時の汚れを完全に浄化できれば、衆生は法身を得ることができるのです。
法身は不動であり、形なきものであるため、そのままでは衆生とかかわることはできません。いまだ心を浄化しつくしていない衆生たちに、仏たちが自らを示すためにとる身体が色身です。例えば、菩薩たちに対しては色身のなかの受用金剛(報身)の姿を見せますし、普通の衆生に対しては色身のなかの変化身を示します。つまりいまだ不浄なあらわれを見ているものたちには 変化身を、清浄な表れの中にあるものには報身を示すのです。
仏の智慧は法界体性智・大円鏡智・平等性智・妙観察智・成所作智の五つです。
また仏の御業とは、子供も同然の衆生たちが無明の闇のなかにあることに慈悲の心を起こされ、その無明の闇を祓い、仏の境地に導くことです。仏はサンスクリット語でブッダといいます。身体と智慧の本質を究めたものといった意味です。

仏法の本質

煩悩障と所知障を取り除くための方便を示すのが、仏法です。
仏教では悟りの智慧のさまたげになる四つの障害を説きます。カルマの障害、煩悩の障害(煩悩障)、智慧の障害(所知障)、薫重(くんじゅう)の障害です。しかし、障害のなかでも基本となるのは、やはり煩悩障と所知障です。
ちょうど病人が病気を治すために薬を飲むように、衆生は煩悩という病から回復するために仏法という薬を飲むのです。
先ほど、仏法にも教理(lung)と証悟(rtogs pa)があり、教理に属するのが経・戒・論の三蔵だといいました。証悟とは、四つの聖なる真理のなかの滅諦(苦の滅した状態、涅槃にまつわる真理)と道諦(涅槃にいたる修行の道にまつわる真理)とかかわる教えです。特に戒律・禅定・智慧の三学は道諦と深くかかわっています。戒律・禅定・智慧の三学を修して、様々な障害を浄化したところで、滅諦へと到るのです。

僧伽(修行者たちの集まり=僧)の本質

ならばの僧伽の本質はなんでしょう。僧伽の本質は智の活動(rig 'phrul=智の変化へんげ)です。法性の真義が智(rig pa)です。法性の真義である智(リクパ)を修行を通じて、自分の心の中に生みだすことができるなら、それが智の活動、智の変化(へんげ)となるわけです。
僧伽とは、善なる正道に私たちを導き、私たちのなかの教化されていない部分を教化してくれる存在です。
僧伽を分類すると、小乗仏教の声聞の僧伽と、大乗仏教の菩薩の僧伽の二種類あります。さらに小乗仏教の声聞の僧伽にも、凡夫と聖者の二種類があります。
小乗仏教の修行者たちの修行の道は、(1)資糧位(2)加行位(3)見道位(4)修道位(5)無学位の五段階ですが、資糧位と加行位の段階にあるものは凡夫で、見道位と修道位に至ったものが聖者です。
大乗仏教の修行者たちの修行の道は、まず資糧位と加行位の段階で菩提心を起こし、六波羅蜜行を行じます。この段階の修行者は凡夫です。しかし、見道位には入り、さらに菩薩の一地(歓喜)から十地に至るまでの段階にいるものは聖者となります。
僧伽とはサンスクリット語でサンガ、つまり集まりを意味します。僧伽の徳性とは、戒律を守り、禅定を行うなど、煩悩に汚されていない修行道にいるもののことです。修行の道に入っていないものはいまだ煩悩に汚れた道にあります。
以上が大乗仏教の顕教における帰依処である三宝の本質と長所です。

密教の帰依処

密教では顕教とは別の三つの帰依処を説きます。密教における三つの帰依の対象は師(ラマ)・イダム(守護神)・ダーキニーです。顕教の通常の帰依処にあてはめれば、ラマは二身(色身と法身)と五智そのものである仏にあたります。自分の根本のラマからさかのぼって、仏へといたるラマたちの血脈も、仏の化身とみなすのです。
イダム(守護神)について述べますと、密教では四種類のタントラがあります。この四種類のタントラに対応する守護神がいるのです。四種類のタントラとは、(1)所作タントラ(2)行タントラ(3)ヨーガタントラ(4)無上ヨーガタントラです。密教を六種類のタントラにわける場合もあります。その場合(1)所作タントラ(2)行タントラ(3)ヨーガタントラの三種類に(4)の無上ヨーガタントラを父タントラ・母タントラ・不二タントラに分けた三種類を加えます。
顕教の帰依処で僧伽にあたるのがダーキニーです。ダーキニーにも三種類、地から生じたダーキニー(zhing skyes kyi mkha' 'gro)とマントラのダーキニー(sngag skyes kyi mkha' 'gro)と倶生のダーキニー(lhan skyes kyi mkha' 'gro)が存在します。地から生じたダーキニーとは三つの聖地に住するダーキニー(あるいはダーカ)たちです。三つの聖地とは、一般にチベットの聖地であるツァリなどを指しますが、別にチベットには限りません。日本であれ、アメリカであれ、聖地ならどこでもいいのです。倶生のダーキニーとは私たちの心の本質である空性のことです。

ここで帰依について簡単にまとめてみましょう。

  1. 三宝の素晴らしい徳性の数々について理解します。
  2. これを知った上で、実際に三帰戒を受けます。
  3. 大乗仏教の帰依なので、菩提にいたるまで、智慧の真髄を悟るまで、つまり悟りを開くまで帰依の誓いを守り続けます。
  4. また自分でも「ラマに帰依いたします、仏に帰依致します、仏法に帰依いたします、僧伽に帰依いたします」という帰依文を唱え続けなくてはなりません。

帰依文の短いものはこのようなものです。

「師(である仏宝)に帰依いたします。仏・仏法・僧伽に帰依いたします。ラマ・イダム(守護神)・ダーキニーに帰依いたします。自身の心(は)・空にして澄明・(すなわち)法身に帰依いたします」

ここには外なる帰依・内なる帰依・秘密なる帰依がまとめられています。仏・仏法・僧伽に帰依するのが、外なる帰依です。ラマ・イダム(守護神)・ダーキニーに帰依するのが、内なる帰依です。自身の心(は)・空と澄明・(すなわち)法身に帰依するのが秘密の帰依です。自分自身の心は、空(ston)なる部分と澄明(gsal)なる部分からなっています。空なる部分がすなわち法身です。澄明なる部分が報身です。空なる部分と澄明なる部分の両方をかねそなえたものが化身です。これをゾクチェン用語で「本質は空(ngo bo ston pa)、自性は澄明(rang bzhin gsal ba)、慈悲は双入(thugs rje zung du 'jug pa)」と言います。

6)帰依のアドバイス

帰依のアドバイスにも通常のアドバイスと特別なアドバイスがあります。通常のアドバイスは、
(1)行ってはならないこと(dgag bya)
(2)行うべきこと(sgub bya)
(3)倣うべきこと(cha mthun)の三つからなっています。

  1. 三帰戒を受けて、行ってはならないこと
    仏にいったん帰依したら、いまだ輪廻の世界にとどまっている世間の神々、外道の神々である大自在天や、ギェルポ、ツェンといった神魔たちに帰依し、礼拝してはなりません。いまだ輪廻の世界にとどまっている彼らは、私たち生きものを輪廻の恐怖から守ってくれる力を持っていないからです。ダライ・ラマ法王は特に、いまだ輪廻の世界にとどまっている世間の神々には決して帰依しないよう、強くアドバイスなさっています。
    仏法にいったん帰依したら、宝のごとき貴い身体を持った人間から些細な虫にいたるのまで、どんな生きものでも傷つけてはいけません。心においては他の生きものに対して悪い心を抱かず、また身体を用いて他の生きものを傷つけるような行為、例えば殴ったり 苛めたりといった行為をしてはいけません。他を傷つけるような考え、行為ともに避けるようにしてください。
    また僧伽に帰依したら、外道や、罪深い人間と付き合ってはいけません。といっても、そうした相手に嫌悪の表情をみせろということではなく、一緒に行動しないほうがよいということなのです。なぜならば、罪深い相手とともにあると、その見解や考え方や行動パターンなどが移る可能性があるからです。つまり罪深い相手とは表面的な付き合いにとどめたほうがよいのです。
    あなた方は大乗仏教徒として、すべての衆生が自分の父であり、母であることを知りました。ですから、父母である衆生に対して憐れみの心をおこさなくてはなりません。罪深い者でも、外道でも、ギェルポやツェンといった神魔であっても、いまだ輪廻の中にとどまり、さまざまな苦しみを味わっている衆生のひとりです。彼らに対しても憐れみの心をおこすべきなのです。
  2. 三帰戒を受けて、行うべきこと
    仏にいったん帰依したならば、仏像や仏画の良し悪しを問わず、それが本物の仏であると思って敬意を払わなくてはなりません。たとえ仏像の全身がそろっていなくても、たとえ頭部だけでも、それが仏自身であるという概念をもって、高い場所に祀り、前で礼拝し、供物を捧げ、常々に気を使って、尊敬の念をあらわすようにしなければなりません。もちろん仏像は仏そのものではありませんが、そこに仏が宿られていると念じ、しかるべき敬意を払うのです。
    仏法にいったん帰依したなら、釈尊の言葉をしるした経典、仏教学者たちの論書などは仏法そのものであると思い、高い場所におき、礼拝し、供物を捧げ、しかるべき敬意を払わなくてはなりません。経典の頁がすべてそろっていないものでも、たとえ経典の紙がやぶれて断片しかない、一文字しか記されていない紙でも、そこに仏法が宿っていると思い、決して粗末に扱ってはいけません。
    仏像や経典はなるべく高いところにおくのがよいのです。チベット人は経典を運ぶ際も、右肩にのせて運びます。
    仏教の習慣では、貴い存在に敬意をあらわすには、からだの右側を向けるか、それを右回りします。ですから、経典を左肩にのせて運ぶのは失礼にあたるのです。経典を地面に置くなどもってのほかですし、末席に置いたり、経典や仏像を売って金儲けをするのもいけないことです。
    その昔、インドでは白、緑、青といった色は俗人がまとう衣の色で、比丘たちは赤や黄色の衣をまとっていました。ですからいったん僧伽に帰依したなら、赤や黄色の衣にはしかるべき敬意を払わなくてはなりません。その昔、チベット古代王朝の護教王ティ・レルパチェンは、自分の編んだ髪に紐をむすび、その紐の逆の先端に一枚の布を結び付け、その布の上に比丘たちを坐らせたといいます。王はこうやって比丘への信仰心を表したのでした。
    アティーシャの一番弟子であったドムトゥンパは、仏教に精通した人物でしたが、比丘にはならず、居士(在家信者)のままでした。三宝のなかの僧伽に対して敬意をあらわすため、あえて在家信者の立場にとどまったのだといわれています。レティンがまだ幼く、沙弥であったとき、在家信者の姿をしているドムトゥンパがそれほどえらい人間であることを知らず、わたしの衣をもってきなさいと命じたことがありました。ドムトゥンパは僧伽への敬意をあらわすために、衣を手で捧げ持つのも失礼だと、わざわざ右肩にかけて、レティンのところに衣を持っていったといわれています。
  3. 三帰戒を受けたら、倣うべきこと
    いったん三帰戒を受けたら、仏法僧の三宝の徳性に倣うべきです。
    ラマや善友の考え方や行動をお手本として、ラマの教えに耳を傾け、仏や菩薩たちの教えを記した経典をよみ、その内容について考えをめぐらすことが肝心です。

結論を申し上げると、三帰戒を受けて何よりも大切なことは、他の生きものに危害を加えないことです。単に危害を加えないというだけでなく、危害を加えようという心を根本から断ち切ること、そうした心を作り出す原因から断ち切ることが肝心です。これぞ帰依にまつわるアドバイスの根本をなす教えです。

7)帰依にまつわる特別のアドバイス

これはガリ・パンチェン(1487年~1543年)の著作のなかに、アティーシャの言葉として記されているものです。

  1. 命をかけても帰依の誓いを守る
    もし三帰戒を守り続けるならおまえを殺してやる、だが帰依の誓いを破るなら、おまえを庇護し可愛がってやろうなどといわれても、そのような脅かしに決して耳を傾けることなく、命をかけて三帰戒を守らなくてはなりません。
  2. 自分が病人であることを知る
    顕教密教いずれの教えを修するにしても、まず自分が病人であると思わなくてはなりません。仏法僧の三宝は、病人である私たちに病気を癒す効果のある薬を示し、その薬を下さいました。私たちは仏法僧のあとを追い、病を癒す薬を自分自身で飲まなくてはならないのです。
  3. 縁起のよい日には、より熱心に帰依の誓いをたてる
    チベット暦の1月15日は大神変化祭(cho 'phrul dus chen)、釈尊がその神通力で、魔物や外道を制圧したことを祝う祭りです。チベット暦の4月15日は「サカダワ」は、釈尊がお生まれになり、悟りをひらかれ、涅槃に入られた記念日です。チベット暦の6月4日は初転法輪、釈尊が初めて仏法を説かれた記念日です。またチベット暦の9月22日は釈尊が兜率天からくだった記念日です。このような釈尊にまつわる記念日やチベット暦の15日(満月)、30日(新月)、8日は吉祥の日とみなされているので、こうした日を選んで特に三宝を念じ、三帰戒を受け、なるべく多くの善行を積むとよいでしょう。食べ物や飲み物を三宝に供養し、仏像などはあらたな衣を献じます。ちなみに密教の修行者にとって縁起のよい日は、10日と25日です。
  4. 自身で三帰戒を受け、それを守るだけでなく、他人にもそれを薦める
    また、自分自身で三帰戒を受け、それを守るだけでなく他人にも三帰戒を受けるよう、また帰依のアドバイスに従って、行ってはならないことの数々を放棄し、行うべきことを行うよう説いてきかせます。
  5. どこへ行っても三宝を礼拝する
    どんな場所へ行っても、三宝を礼拝し、三宝を倣い、三宝を供養し、三宝の徳性と慈しみの心を念じます。
    昨今では帰依処である三宝をあまり大切にしようとしません。火山の大噴火や、大地震や台風の発生といった、地水火風の恐怖が襲ってくるのも、帰依処である三宝を大切にしないからです。

8)帰依のご利益

帰依することによって得られる功徳、ご利益の大きさは、空や海の大きさをはるかに凌ぐといわれています。沙弥戒や比丘戒といった出家者の戒を受けなくても、三帰戒を受けて修行すれば、あなたは在家信者(居士)になることができるのです。そして三帰戒は、仏教のすべての戒の基礎をなすものなのです。
 三帰戒を受けたご利益にも一時のご利益と究極のご利益があります。

9)一時のご利益

帰依することで、今生でもさまざまな障害に遭わず、病気にもあまりかからず、長寿を享受し、過去のカルマや罪を浄化し、多くの功徳をつむことができます。また来世において、外道や野蛮人の世界に転生することもなくなります。また三宝のご慈悲により、地獄・餓鬼・畜生の三つの悪しき境地に転生しなくてすみます。また種々さまざまな仏教の戒の基礎と、徳性の基礎を築くことができます。帰依を充分に行えば、人の身体を持たない神魔も、あなたに危害を加えることはできません。ですからわざわざ守護の輪を観想する必要もなくなるのです。

10)究極のご利益

最初に帰依にも因の帰依と果の帰依があると言いました。三宝に帰依し続け、その行が究極に至れば、その結果として自分自身のなかに三宝の徳性が生じ、輪廻の他の生きものを救済する力も生じます。これが帰依の究極のご利益です。


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