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チベット仏教ニンマ派高僧トゥルシック・リンポチェによる
「37の菩薩の実践」Part1

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はじめに

トゥルシック・リンポチェと
ザトゥル・リンポチェ(左)

まずこの場にわざわざ足を運んでくださった方々全員に、「タシデレ」(こんにちは)を申し上げます。日本は古い伝統文化を維持し、仏教徒の多い大国であると私は聞いています。仏教徒の多い国は人々の品性の高い国ともいえるのです。私がこの日本に来ることができたのも、ザトゥル・リンポチェがお招きくださったからです。ザトゥル・リンポチェの先代は私の根本のラマでもありました。

世界にはいろいろな宗教(dharma)があります。チベット人がなぜダルマを実践するのか(仏教の修行をするのか)というと、身体・言葉・心をよりよいものに変えていくためです。そして身体・言葉・心のなかでも一番肝心なのは心ですから、まず心を正さなくてはなりません。世界の宗教は、各々心を正していく技術をもっています。

 仏教では、そのためにまず三宝、つまり仏陀・仏法・僧伽を知れと説いています。釈尊(仏陀)は12の偉業(兜率天からこの世におりてくる、悟りをひらく、大涅槃に入るなど)をなされ、そして仏法を、一切智に至る修行の道を説かれたのです。ですから我々は釈尊に対して考えも考えも及ばないほどの恩を負っているのです。

釈尊の説かれた正法は聖国インドにあまねく広まり、その後、雪の国チベットにも伝わりました。しかしこの世のすべては無常です。チベット本土で栄えていた仏教は今や見るかげもなく、ダライ・ラマ法王はインドに亡命されました。しかし亡命された結果、世界各国に赴かれ、チベット仏教を広めることになったのです。その後チベット仏教の各派――ニンマ・サキャ・カギュー・ゲルクの高僧たちが海外で布教をおこない、今や全世界でチベット仏教が広まっています。これもまたダライ・ラマ法王が亡命された結果生じたことなのです。

仏法を聴く前に正しい動機をもつ

さて皆さんは今日、仏法を聴くためにこの場に来られました。そこでまず大切なのが正しい心構え、正しい動機を持つことです。「なんの果報ももたらさない動機(lung ma bstan gyi kun slong )」、あるいは不純な動機を抱いて仏法を聴いてはなりません。仏法ってどんなものだろう、ちょっと覗いてやろうといった気安い動機で仏法を聴いても、それによって将来なんの成果も得られません。まず「なんの果報ももたらさない動機」を捨て去りましょう。

また今生の幸せを願って、今生で病気をしないよう、望まざることが起きないよう、さまざまな恐怖から身を守りたいといった「難から逃れようという動機」だけで仏法を聴くのも正しくありません。また有名になろう、名声を得ようという動機で仏法を聴聞するのも不純な動機といえるでしょう。

仏法を聴く際、抱いている動機によって人を上士・中士・下士の三種類に分けることができます。下士(凡夫)は地獄・餓鬼・畜生の三つの悪しき境地(三悪趣)の苦の恐ろしさを小耳にはさみ、怯え、そうした境地に来世落ちたくないという思いから仏法を聴きます。来世、自分ひとり三悪趣の苦しみから解き放たれたいと望む下士の動機は、清浄な正しい動機とはいえません。
中士(声聞・縁覚など自らのために悟りを求める人々)は、三界(欲界・色界・無色界)のいずれの世界も、苦楽があると悟っています。彼らは自分だけのために、三界の苦楽すべてから離れたいと願い、仏法を聴聞します。こうした中士の動機は中程度の動機であり、正しい動機とはいえません。

それでは仏法を聞くにあたって、どのような動機を持てばよいのでしょう。まず空のように無限に存在する衆生たちは、自分の前世で一度は父であり、母であったことがあると想起します。彼らは私の両親であったとき、私のためにあまたの苦労をしのび、私を養うために悪業をなし、その結果、八熱地獄や八寒地獄に落ちて暑さ寒さの苦しみや、あるいは餓鬼の世界に落ちて、飢えや渇きの苦しみを味わっています。動物に生まれたなら、無知におかされているゆえに、人に使役される苦しみを味わいます。六道輪廻の中のよりよい世界、人・阿修羅・天界に生まれれば、多少の幸福はありますが、この幸福は有漏(煩悩に汚れた)の幸福であり、無漏(煩悩がなくなった境地)の幸福でないため、たちまち失われてしまいます。一時の有漏の幸福ではなく、恒久につづく無漏の幸福を求めなくてはなりません。

上士(菩薩、つまり大乗仏教の修行の道を歩む人々)は生きとし生けるものを苦から救い、一時の幸福ではなく最終的な幸福に導こう、そのために釈迦牟尼仏が示された解脱と一切知の境地へと至る修行道を行じようという決意して仏法を聴聞します。あなたがたは上士の動機をもって仏法を聴かなくてはなりません。利己心からではなく、父であり、母である生きとし生けるもののために、つまり利他心をもって仏法を聴聞することが肝心なのです。

もちろん動機だけでなく、仏法を聴聞する皆さんの行動もまた大切ですが、これについては皆さん立派な方々ばかりでしょうから、申し上げるまでもないでしょう。

ギャセー・トメー・サンポについて

今日はギャセー・トメー・サンポの著した「菩薩の37の修行法」、これは37の詩句からなるテキストですが、そのなかのいくつかの詩句に基づいてお話をしたいと思います。

その昔、聖国インドよりパドマサンバヴァが雪国チベットに来られました。そしてトゥー地方を経て、シェー・グルチュという土地に至り、三種守護尊(金剛手・観音・文殊)の化身が出現すると予言をなされました。ギャセー・トメーはパドマサンバヴァの予言にあった観音の化身なのです。彼が観音の化身であるしるしに、人の考えもおよばないほど慈悲の心が深く、菩提心も篤く、彼の傍らでは、本来仲が悪いはずのネズミと猫も、犬と鹿などの草食動物も喧嘩をしなかったといいます。姿こそ仏画に描かれているものとちがっても(白い千手観音のような姿ではなくても)、本性はまさに観音菩薩そのものだったのです。

これが今回の教えの根本のテキストです。さらに私の根本のラマであるザトゥル・リンポチェが、このテキストの注釈書を記されているので、注釈書に基づきご説明していきたいと思います。

根本のテキストは37の詩句によって構成されていますが、この37の詩句は(1)前行にあたる仏教への入門部分と(2)本行にあたる上士・中士・下士それぞれの修行法の説明からなっています。(1)の前行部分を構成するのは1番目の詩句から7番目の詩句です。今回の法話では、1番目から3番目の詩句(仏教を修行するさい欠かせぬ条件である八暇十円満を見出すことは難しい、故郷をすてる、人里離れた場所に拠る)は省きます。

第四句――無常を想う

長い間交わってきた友とも別々に離れ
努力して得た財富も後に残し
意識という客が肉体という旅籠を発つ
今生を放棄するのが菩薩の修行である

釈尊はサールナートで初めて仏法を説かれました。その時説いたのが四つの聖なる真理(四聖諦)です。釈尊は「苦を知りなさい」「苦の源を放棄しなさい」「修行の道に拠りなさい」「(煩悩の働きを)断ち切った状態に至りなさい」と説かれました。
「苦を知りなさい」とは四つの聖なる真理の最初のもの「苦にまつわる真理(苦諦)」を知れということです。これまで私たちはこの世が苦そのものであると理解できずにいました。それというのも、すべての事象が恒常である、実体をもって(自立して)存在していると信じ込んでいたからです。しかしすべての事象は独立してではなく、原因と条件(因縁)から成り立っており、それゆえ常に変化しています。私たちは無常という理に自らの心を馴らしていかなければなりません。無常の例
今皆さんはこの場に集まって仏法に耳を傾けられていますね。でもこれが終われば、みなそれぞれの家にもどって、この場もからっぽになるでしょう。これもまた無常です。ここにいらっしゃっている方々は、お年を召した方で60代、若い方で20代、30代でしょうか。でも今まだ若くても、時が移り行くにつれ、次第に老いて行きます。
無常を謳った四つの諺があります。

生の末路は死
絆の末路は別れ
頂きをきわめれば、後はおちるのみ
築いたものも、最後に失う

生まれたその日から、私たちは一日一日死に近づいてきます。母の胎内から出たその日から、私たちは死への道を一歩、一歩あゆみつづけるのです。死への道はまっすぐな道です。日本人はよく健康管理がなされているので長寿であると聞いています。でもいくら長寿を享受している日本の方でも百歳を越えて生きる人は少ないでしょう。人は日々、一歩一歩死に近づいていくのです。これまた無常のしるしです。

また夫婦の絆、両親の絆、師と弟子の絆といった人と人の絆も何時の日にかは切れるものです。これも無常の理のなせるわざです。

太陽や月を見てもわかるように、いったん天空の頂きにあがれば、あとは沈むしかありません。首相や大臣を務め、一時栄華を極めても、後に失墜して、中には刑務所入りする人も今のご時世よく見かけるようです。これまた無常の理のなせるわざです。
またいくら財富などを築いても、それが留まることはなく、いつかは失われるものです。

無常にまつわることで特に考えなければならないのが「死」です。無常の瞑想にもいろいろありますが、根本は以下の三つのです。

  1. 死は必ず訪れる。
    これは確実なことであり、なんの疑問もありません。
  2. いつ死ぬか確実ではない。
    ひとはすべて死ぬものだとわかってはいながら、それでも今日は死ぬまい、明日は死ぬまいと思いこんでいるものです。いざ死が訪れたとき、我々は不意打ちをくらったも当然でなんの準備もできていないのです。
  3. 死に際に役立つのは仏法だけである
    いざ死がおとずれたら、金銀財宝などのこの世の宝がいくらあってもなんの役にも立ちません。いくら権力や財産があっても、何一つ役に立たず、バターの中から毛を引き抜くように意識がすっと肉体から抜け出ていくのです。

死の要因は無数にあります。今の時代、医療も発達し、よい病院や薬もあれば、手術もできます。しかし薬を飲んでもきかず、多くの人間が病院で死んでいくことも事実なのです。

今まで死ななかった人は一人もいません。肉体は因縁が集まって生じたにすぎません。賢い人も、博識の人も、地位の高い人も、みな死に行く運命にあります。権力をもっていても死から逃れられられません。釈尊でさえも、クシナガラで涅槃に入られたのです。パドマサンバヴァもまた不死の虹の身体を得て、サンドペルリ(銅色吉祥山=パドマサンバヴァのいる浄土)に赴かれ、この世にはおられません。インドからあまたの聖者や成就者が雪の国チベットに来られましたが、その誰も涅槃に入られ、今この世に残っていられる方は一人もいません。ただ伝記や歴史からそのような人々がいたと知ることができるだけです。

このようなことを思い巡らせ、自分のこの肉体がこの世に永久にとどまることはない、自分は必ず死ぬのだ、死に際に役立つのは仏教しかない、ならば私はこれから清浄なる仏法を行じようと決意するのです。このような考え方に心を馴らしていきます。自分はいつか必ず死ぬことを常に念頭においていなければなりません。

「釈尊の残された足跡は、象の足跡のごとく最高である、瞑想の中でも無常を瞑想するのが最高の瞑想である」といいます。象の足跡は犬のような他の生き物と比べるとは、比較にならないほど大きい、そのように釈尊の残された跡も限りなく大きいというのです。

また釈尊も「百回比丘にお食事を供養するより、一刹那無常を想起したほうが多くの功徳がつめる」と説かれているように、瞑想の中では無常という概念を瞑想するのが最もすぐれた瞑想なのです。こんな逸話もあります。ある弟子が師に「仏法を説いてください」とお願いしました。すると師は弟子に「手を出しなさい」と言い、弟子の手を握ると「私も死ぬし、あなたも死ぬ。私も死ぬし、あなたも死ぬ。私も死ぬし、あなたも死ぬ」と3回繰り返したのです。師はそれ以外、あとは一切仏法を説こうとしませんでした。弟子は無常の理を知って、瞑想し、悟りを得たということです。

このように無常ということが理解できれば、仏教を修行する動機も生じ、最終的には不死の境地をえることも可能なのです。死に際には役立つのは仏法のみ、これを忘れることなく、仏法の修行をするのです。

第五句――悪しき友を捨てる

交われば三毒(怒り・貪り・無知)が増大し
聞思修が衰え
慈しみの心とあわれみの心がなくなる
悪しき友を捨てるのが菩薩の修行である

どのような友と交わろうとも、相手の身体・言葉・心の行為が自分の方に移ってくるものです。ですから、悪いお手本を示すような友達と交わるのはよくありません。それまで悪人でなかった人も、罪深い悪人と交わっていると、三毒(怒り・貪り・無知)が増大し、三慧(教えを聴いて生ずる智慧、それについて思いをめぐらして生じる智慧、瞑想して生じる智慧)が衰え、慈しみの心とあわれみの心がなくなっていきます。そのような悪しき影響をおよぼす悪しき友、罪深い師友とは手を切らなくてはなりません。悪しき師友や罪深い友人と交わっても、命を落とすことはありませんが、解脱への命が、一切知の境地へと至る道が閉ざされてしまいます。

師を選ぶ前に吟味する

仏法を聴き、それについて思いをめぐらし、瞑想することが、すなわち解脱への因となります。聞思修は解脱への命を守るのです。聞思修にも正しい聞思修と、誤った聞思修があります。正しい聞思修に拠らず、誤った聞思修に拠っても解脱の道を歩むことはできません。

今のご時世、宗教、あるいは仏法のごときものを説く人はたくさんいます。ですから、皆さんが師を選ぶ際には、師とするにふさわしい資格があるかどうか、前もってよく吟味する必要があります。師の資格のない人(悪しき師)であっても、仏法や聞思修について説くことも、ルン(口頭伝授)を与えることはできるのです。

悪しき師につくのは、毒の入った食べ物を摂るのと似ています。食べた瞬間にはそれなりに満腹するかもしれませんが、所詮、毒は毒です。体をやられて最後には死に至ります。パドマサンバヴァは「ラマを吟味しないのは、毒に触れるも同然」と述べています。このように師と崇める前によく吟味することが大切なのです。よくよく吟味して、納得した上で自らのラマとして受け入れ、教えを受け、それに従って修行するのです。

「修行僧たちの集まり(僧伽)は仏教の崇拝の対象とすべきである」と釈尊は説かれました。とはいえ善き友と悪しき友はよく区別しなくてはなりません。悪しき友と行動をともにすると、その潜在的な力(薫習)がこちらにも伝染してくる恐れがあるからです。

ドムトゥンバがアティーシャに「最悪の敵とはなんでしょう」と訊きました。するとアティーシャは「敵の中で最悪の敵とは罪深い(悪しき)友である。罪深い友と交わると、聞思修の智慧も得られないうちに、その罪深い友の考え方や行動が伝染してしまう」罪深い師友、悪しき友は伝染病に罹っている人ようなもので、交わるといつのまにか、その罪深い考え方や行為が移ってきてしまいます。伝染病に罹っている人がいれば、移るのではないかと怯えて逃げますよね。わざわざ伝染病に罹っている人のもとに行く人はいませんね。それと同様に罪深い友も避けるべきなのです。

第六句――善い師に従う

拠れば、欠点が良いものに変わり
よき徳性が上弦の月のように満ちていく
正しい師友を自分の身体より
大切にするのが菩薩の修行である

ラマ(師)に拠ることなく、自分勝手に経典を読んで自習しても、ある程度の知識は得られ、理解もできるでしょう。しかしラマから教えを直接受けるのは、経典を自習して、勝手に修行するのとはまったく異なります。正法というのは、釈尊より師から弟子、弟子からそのまた弟子へと師資相承で伝えられていくものだからです。師資相承の加持があるなら、聞思修を行じても、あるいは他人にアドバイスを与えても、大きな力をもちえます。ですから必ずラマに拠って、仏法の修行をする必要があるのです。自分勝手に修行してはなりません。

まったく見知らぬ土地に行く場合、その土地にくわしい人に案内してもらわなければ、道に迷ってうろうろするだけです。それと同様に仏陀の境地へといたる道を歩もうとするなら、その道に精通したラマに案内してもらわなければ、迷うだけです。

白檀という香木があります。普通の木の皮を白檀と一緒に長い間放置して置おくと、香りのなかったはず普通の木の皮にもいつのまにか白檀の馥郁たる香りがうつっています。同じように優れた師のもとに身をおき、師にならって聞思修に励み、修行をすれば、いつのまにか師のよき徳性が移ってくるものです。

商売を始めたばかりのものは、大商人のもとで見習をして商売について学んで経験を積んでいくのが商売を学ぶ正道です。そのように仏教を修行しようとするものは、よき師のもとで、聞思修を学ぶ必要があります。

逆の喩えをしましょう。悪臭放つ魚の骨を吉祥草(湿地に生える茅。釈尊が悟りをひらかれたとき、菩提樹の下でこの草を敷いていたという)と一緒にしておくと、もともと匂いなどなかった吉祥草に、いつのまにか魚の悪臭がうつってしまいます。このように不善の師や友と交わっているとその悪しき習性が移ってきてしまうのです。

ラマを吟味するポイント

ではよきラマとはどのような特性を備えているのでしょうか。どこを吟味するべきなのでしょうか。

「内タントラ」に「無知なのに慢心なもの、蒙昧なのに単語に拘泥するもの、他人の心をかき乱す言動を弄するもの、誤った道にいるもの、仏法を聴く事が少ないのに、慢心しているもの、師を吟味しないのは、弟子にとって魔である」とあります。

ラマの心に慢心が満ち溢れ、尊大きわまるならば、ラマのもつべき特性に反します。ラマ自身がさほどものを知らないのに、真の意味もわからないのに単語にやたら拘泥するのもよくありません。実際に手を下さなくても他人を傷つけるような言動を弄するもの、自身にさほどの教養もないのに、バラモン階級のように血筋や家柄を自慢するもの、さほど仏法を聴聞せず、聞思修も少ないのに、慢心しているもの、他人より優れていると思い上がっているもの、こうした人を師と仰いではなりません。

菩薩の種族は自分の徳性を見せびらかすことなく、隠しているものです。ところが普通の人々は自らの徳性を外にみせびらかすものです。腹の底では馬鹿にしながら、表面上は尊敬している様子をよそおい、おべっかを使うのは、その相手が徳性を欠いているしるしです。


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